第一章 泥にまみれた野心
土佐の貧しい地下浪人の息子から、東洋一の海上王へと駆け上がった岩崎弥太郎の生涯を描いた物語。幕末から明治にかけて、日本の海運業を一代で築き上げ、三菱財閥の基礎を作った男の、夢と野望、挫折と栄光の人生。
天保五年(1834年)十二月十一日、土佐国安芸郡井ノ口村。
「うぎゃあああああ!」
産声が、貧しい農家の一角に響き渡った。その声は、まるで獣の咆哮のように激しく、助産婆を驚かせた。
「こりゃあ…すごい声じゃのう」
助産婆は目を丸くした。生まれたばかりの赤子が、こんなに大きな声で泣くのは珍しい。しかも、その目がすでに開いている。ぎょろりとした、鋭い目が、周囲を睨みつけていた。
「弥太郎…この子の名は、弥太郎にするき」
父の弥次郎が、汗まみれの妻・美和を見て言った。
「弥太郎…ええ名じゃのう」
美和は力なく微笑んだ。彼女は元々、土佐藩の下級武士の娘だった。だが、岩崎家に嫁いでからは、貧しさとの戦いの日々だった。
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土佐藩の身分制度は、日本の中でも特に厳格で複雑だった。
最上位に位置するのが「上士」である。これは山内家が関ヶ原の戦い後に土佐に入国した際に連れてきた家臣団で、城下に住み、藩の要職を独占していた。彼らは江戸からやってきた「よそ者」だったが、絶対的な権力を握っていた。年間百石以上の俸禄を受け、立派な屋敷に住み、従者を連れて歩いた。
その下に「下士」がいる。これは元々土佐を治めていた長宗我部家の旧臣たちで、郷士とも呼ばれた。関ヶ原で敗れた主家に最後まで忠義を尽くした者たちの末裔だったが、新しい支配者である山内家からは二級市民として扱われた。彼らは城下に住むことを許されず、在郷に住まわされた。武士としての誇りは持っていたが、上士からは常に見下され、重要な役職に就くことはほとんどなかった。俸禄は少なく、多くが半農半士の生活を送っていた。
そして、さらにその下に「地下浪人」がいた。
地下浪人とは、武士の身分を自称しながらも、藩から正式に武士として認められていない最下層の存在だった。武士としての格式を保とうとするが、実際には農民と変わらぬ暮らしをしている。刀は差しているが、俸禄はない。名字は名乗れるが、上士どころか下士からも人間扱いされない。農民からは「武士気取り」と嗤われ、武士からは「偽物」と蔑まれる。どこにも居場所のない、宙ぶらりんの存在だった。
岩崎家は、まさにその地下浪人だった。
弥次郎の祖父は、かつて長宗我部家に仕えた足軽だったという。関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易された後、武士の身分を失い、百姓となった。だが、武士の誇りだけは捨てなかった。名字を名乗り、刀を差し、息子たちに武士としての心構えを教えた。
しかし、現実は厳しかった。田畑を耕し、わずかな収穫で家族を養う。それは、武士というより、貧しい農民そのものだった。
「わしらは、武士の血を引いちょるがぜよ。いつか必ず、ちゃんとした武士になるき」
それが、弥次郎の口癖だった。だが、そのたびに村人たちは陰で嗤った。
「岩崎は、武士の真似事をしちょるだけぜよ」
「乞食侍が、偉そうに」
村での岩崎家の立場は、最悪だった。
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弥太郎が三歳になった頃。
冬の寒い朝、弥太郎は母に手を引かれて村の道を歩いていた。ボロボロの着物を着て、裸足だった。岩崎家には、子供に履かせる草履すら買う金がなかった。
「弥太郎、寒いろう?」
母の美和が、心配そうに聞いた。
「寒うないき」
弥太郎は、強がって言った。だが、その小さな体は、寒さで震えていた。
その時、村の子供たちが現れた。
「おお、岩崎のきちがいが来たぞ!」
「乞食侍の餓鬼じゃ!」
子供たちは、弥太郎を指差して笑った。そして、石を拾い始めた。
「やめてつかあさい!」
美和が、子供たちの前に立ちはだかった。
「この子は、まだ小さいがじゃ。石を投げんといてつかあさい!」
だが、子供たちは聞かなかった。
「どけや、ばばあ!」
石が飛んできた。一つが、美和の額に当たった。血が流れた。
「母上!」
弥太郎が、叫んだ。
だが、石はさらに飛んできた。弥太郎の頬に、腕に、足に。
「痛っ!」
弥太郎は、地面に倒れた。泥まみれになった。
「わはははは! 乞食が泥にまみれちょるぞ!」
「似合うちょるのう!」
子供たちは、大笑いして去っていった。
弥太郎は、泥の中で動けなかった。体中が痛かった。
だが、痛みよりも強かったのは、屈辱だった。
(なんで…なんで、わしだけが…)
涙が、頬を伝った。それは、痛みの涙ではなく、悔しさの涙だった。
「弥太郎…」
母が、弥太郎を抱き上げた。母も泣いていた。
「すまんのう…母が、弱いばっかりに…」
「母上のせいやないき」
弥太郎は、母を見た。その目には、三歳児とは思えない鋭さがあった。
「悪いがは、あいつらぜよ。あいつらを、わしはいつか…」
弥太郎は、小さな拳を握りしめた。
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その夜、家に帰ると、父の弥次郎が待っていた。
母の額の傷を見て、父は激怒した。
「誰がやったがじゃ! 誰が、美和を傷つけたがぜよ!」
「村の子供たちです…」
「村の…くそったれがァ!」
弥次郎は、刀に手をかけた。
「待ってつかあさい!」
美和が、夫を止めた。
「子供たちに刀を向けるがですか! それをしたら、あなたは本当に…」
「じゃが!」
「お願いです。我慢してつかあさい」
美和の目には、涙が溢れていた。
弥次郎は、悔しそうに刀から手を離した。
「…すまん」
弥次郎は、項垂れた。
守るべき妻と子を、守れない。それが、地下浪人の現実だった。
弥太郎は、その光景をじっと見ていた。
(父上は、弱いがぜよ)
(武士の誇りだけ持っちょっても、何もできんき)
(力がないき。金がないき)
三歳の弥太郎の心に、ある確信が芽生えた。
(わしは、強くならないかん)
(力を持たないかん。金を持たないかん)
(そして、いつか必ず、這い上がるがぜよ)
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弥太郎が五歳になった頃、ある出来事が起きた。
村の寺子屋に、弥次郎が弥太郎を入れようとした。
「先生、息子を寺子屋に入れさせてつかあさい」
だが、寺子屋の師匠は、困った顔をした。
「岩崎さん…それは、ちょっと…」
「なんでじゃ! 弥太郎は、賢い子ぜよ! もう字も数も覚えちょる!」
「それは分かっちょりますが…」
師匠は、言いにくそうに続けた。
「郷士の子の親御さんから、文句が来るがですよ。地下浪人の子と一緒に学ばせるのは困る、っちゅうて」
「…そうか」
弥次郎は、力なく頷いた。
これが現実だった。地下浪人の子は、郷士の子と一緒に学ぶことすら許されなかった。
家に帰った弥次郎は、弥太郎に言った。
「弥太郎…すまんのう。お前を、寺子屋に入れてやれんかった」
「…ええき」
弥太郎は、平然と答えた。
「わしは、母上に教えてもらうき」
「じゃが…」
「父上、わしは必ず這い上がりますき」
弥太郎は、父を見た。その目には、揺るぎない決意があった。
「この村から、この身分から、必ず這い上がってやるがぜよ」
五歳の子供の言葉とは思えなかった。
弥次郎は、息子の目を見て、何かを感じた。
(この子は…わしとは違う)
(この子は、本当に何かを成し遂げるかもしれん)
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それから、弥太郎は母から勉強を教わり始めた。
美和は、武家の娘として育ったため、読み書きや算術の基礎を知っていた。
「弥太郎、これが『一』じゃ」
「いち」
「そうじゃ。これが『二』」
「に」
弥太郎は、驚くべき速さで覚えていった。一度教えたことは、決して忘れない。
「弥太郎…お前、本当に賢いのう」
美和は、息子の才能に驚いた。
「当たり前ぜよ、母上。わしは、あの馬鹿どもとは違うき」
五歳の弥太郎は、そう言い放った。
母は、古い本を持ってきた。それは、彼女が実家から持ってきた『史記』だった。
「これは難しいけんど…いつか読めるようになるとええのう」
「今、読みたいがぜよ。教えてつかあさい」
弥太郎の目は、本気だった。
美和は、ゆっくりと『史記』を開いた。そして、一つ一つ、漢字を教えていった。
弥太郎は、食い入るように聞いていた。
数ヶ月後、弥太郎はある物語に出会った。
韓信の物語だった。
韓信は、若い頃は貧しく、町の若者たちに馬鹿にされていた。ある日、若者の一人が言った。
「お前、いつも剣を差して偉そうにしちょるが、本当は臆病者じゃろう。もし違うっちゅうなら、わしを刺してみいや。できんがやったら、わしの股をくぐれ」
韓信は、じっと若者を見た。そして、黙って若者の股をくぐった。
町中の者が、韓信を嗤った。「臆病者め」と。
だが、韓信はその屈辱に耐えた。なぜなら、彼には大きな志があったからだ。こんな小さな諍いで命を無駄にするわけにはいかなかった。
そして後年、韓信は大将軍となり、天下を平定した。
「母上、この韓信っちゅう人は、すごいのう」
弥太郎は、目を輝かせて言った。
「そうじゃのう。韓信は、忍耐の人じゃった」
「わしも、韓信みたいになるき」
「弥太郎…」
「今は、あいつらに石を投げられちょる。馬鹿にされちょる。じゃが、いつか必ず、見返してやるがぜよ」
弥太郎の目には、揺るぎない決意があった。
「韓信は、股をくぐった。わしも、今は耐えるき。じゃが、いつか必ず、あいつらをわしの足元に這いつくばらせてやるがじゃ」
六歳の弥太郎は、そう誓った。
美和は、息子を抱きしめた。
(この子は、強い子じゃ)
(きっと、大きなことを成し遂げる)
母は、そう信じた。
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弥太郎が七歳の時、決定的な事件が起きた。
ある日、村で祭りがあった。弥太郎は、母に手を引かれて祭りを見に行った。
そこで、庄屋の息子・武田新之助と出会った。
新之助は十二歳で、体も大きく、取り巻きを何人も連れていた。
「おお、岩崎の餓鬼やないか」
新之助が、弥太郎を見つけて言った。
「…」
弥太郎は、黙っていた。
「なんじゃ、その目は。わしを睨んじょるがか?」
「睨んじゃおらん」
「嘘をつけ。お前、いっつもそんな目をしちょるき」
新之助は、弥太郎の前に立ちはだかった。取り巻きたちが、くくくと笑っている。
「なあ、岩崎。お前、本当に武士の子か?」
「…そうじゃ」
「じゃったら、武士の礼儀を知っちょるろう?」
「知っちょる」
「ほう。じゃったら、わしに礼をしてみいや」
「…」
「わしは庄屋の息子ぜよ。お前は地下浪人。身分が違うがじゃ。わしに礼をするがは、当然のことじゃ」
新之助は、にやにやと笑っていた。
弥太郎の拳が、ぎゅっと握られた。
(こいつを…こいつを殴り倒してやりたい)
だが、その時、弥太郎は韓信のことを思い出した。
(耐えるがぜよ…今は、耐える…)
弥太郎は、ゆっくりと頭を下げた。
「ほう、素直やないか」
だが、新之助はそれで満足しなかった。
「待てや。礼やのうて、わしの股をくぐれや」
「…なんじゃと?」
「わしの股をくぐれっちゅうがぜよ。それが、地下浪人の礼儀じゃ」
取り巻きたちが、大笑いした。
弥太郎の体が、怒りで震えた。
だが、彼は韓信のことを思い出した。
(韓信は、股をくぐった。そして、後に大将軍になった)
(わしも…わしも耐えるがぜよ)
弥太郎は、ゆっくりと膝をついた。
そして、新之助の股の下をくぐった。
「わはははは! 見たか! 岩崎が股をくぐったぞ!」
「地下浪人なんぞ、こんなもんぜよ!」
笑い声が、村中に響いた。
弥太郎は、じっと地面を見つめていた。拳を握りしめ、歯を食いしばっていた。涙が、こぼれそうになった。
(韓信…わしゃあ、韓信ぜよ…)
(いつか必ず、見返してやる…)
(絶対に、絶対に…)
七歳の弥太郎は、生涯忘れられない屈辱を味わった。
だが、それは同時に、彼の中に消えることのない炎を灯した。
這い上がる。どんなことがあっても、這い上がる。
そして、この屈辱を与えた者たちを、すべて見下ろす。
それが、岩崎弥太郎という男の原点となった。
泥にまみれながら、弥太郎は誓った。
いつか必ず、金を稼ぐ。権力を握る。そして、見返す。
その野心は、この日、確かに生まれたのだった。
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