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『問題はありません』

作者: リッ
掲載日:2026/01/19

日本人は真面目だと、皆が言う。

時間を守り、列を乱さず、迷惑をかけることを何よりも恐れる。


私はその言葉を疑ったことがなかった。

疑う理由が、どこにもなかったからだ。


文書保管局で働いて十一年になる。

毎朝七時三十二分の電車に乗り、八時五十分には机に座る。

遅刻も欠勤もない。

それは誇りではなく、ただの事実だった。


ある日、整理対象に指定された箱の中から、私は一冊の薄いファイルを見つけた。

背表紙には手書きの文字でこうあった。

――国民性調整計画・第0稿。


「調整」という言葉に、私は一瞬だけ指を止めた。

だが、それ以上の感情は湧かなかった。

感情は、仕事の邪魔になる。


反乱は暴力から始まるのではない。疑問から始まる。

ならば、疑問を抱かせなければいい。


私はその文章を、誤字脱字がないかを確認する目で読んでいた。

怖いとは思わなかった。怒りもなかった。

ただ、胸の奥で長年使われていなかった器官が、かすかに軋む音がした。


翌日も私は出勤した。

問題はなかった。

朝礼では「順調です」「変更はありません」という言葉が並び、誰もそれ以上を求めなかった。


隣の席の佐藤は、以前はよく遅刻をしていた。

理由を聞くと曖昧に笑っていた。

半年前から、彼は遅刻をしなくなった。


昼休み、誰かが言った。

「最近、佐藤さん見ないですね」

「異動だそうです」

それで会話は終わった。


午後、感情過多傾向者経過報告という文書を廃棄した。

最終ページにはこう書かれていた。

――社会的摩擦を避けるため、自然減少を推奨する。


私は意味を理解した。

処罰ではない。隔離でもない。

ただ、居場所を与えないだけだ。


佐藤は不真面目な人間ではなかった。

考えてはいけないことを考えていただけだ。

「俺たちって、ちゃんと考えて仕事してる?」

そう言っただけで、距離を取られた。


「佐藤君は誠実すぎる」

そう言われて、休むことを勧められた。

誰も責めなかった。

誰も引き止めなかった。


社会適応支援プログラムへの参加を推奨します。

その言葉は優しかった。

白くて静かな施設で、職員は言った。

「あなたは悪くありません。ただ、この社会に少し合わなかっただけです」


最後に佐藤は書いた。

――私は、真面目になりきれませんでした。


その記録は、参照不要として回ってきた。

私は保存価値なしと入力し、承認した。


過去を思い出す。

小学校で、静かに待てることを褒められた。

怒りは未整理と呼ばれ、出す前に止めることを学んだ。

多数決を提案して、誰も納得しないまま正解になった。

なりたいものではなく、向いているものを選んだ。


文書保管局に配属された日、上司は言った。

「ここは何も起こらない部署です」

私はそれを良いことだと思った。


面談があった。

「問題ありません」と私は答えた。

担当者は微笑み、言った。

「あなたは大切な存在です」


一分早く駅に着いたことが、軽微な変化として記録されていた。

「考えすぎないための調整です」

私は信じた。

信じることは努力を必要としない。


通達が来る。

感情語は削除。主観は置換。

私は従った。


朝起き、出勤し、廃棄し、帰宅する。

怒りを感じたか。いいえ。

疑問を持ったか。いいえ。

不快を覚えたか。いいえ。


国民性調整計画・第0稿が再評価対象になった。

平準化。無害化。


反乱は疑問から始まる、という文は、

情報解釈の差異が社会不安を生む可能性がある、に変えられた。


疑問を抱かせなければいい、は、

情報提示の一貫性が重要である、になった。


原文は要約のみ保存された。

参照されない文書は、存在していないのと同じだ。


十二年目の朝も、私は七時三十二分の電車に乗る。

新人に言う。

「ここは何も起こらない部署です」


誰も怒らない。

誰も疑わない。


日本人は真面目だと、皆が言う。

時間を守り、列を乱さず、迷惑をかけることを何よりも恐れる。


私はその言葉を疑ったことがなかった。

疑う理由が、どこにもなかったからだ。

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