残酷な二つの真実
# ● ??
目を覚ますと部屋は暗く、何時なのか全くわからない。腕時計もよく見えず、スマートフォンも周囲には見当たらなかった。どうもおかしい。
ここはどこだろう?
どこにいるのだろう?
というのも、自室で眠っていて目覚めたのであれば目覚まし時計であるとか充電器、電気をつけるためのリモコン、その他大事なものなどの配置を大抵の人は把握している。しかしそれら全てを見つけることが出来ず、また、ベッドに普段は眠るのだが、どうも違う。全身に痛みがある。
天井を見上げているようだが、それすらも暗くてよく見えなかった。
なんとなく「知らない天井だ」と有名になりすぎた言葉を呟いてみた。7秒、数えた。その間、息を止めていた。誰も何も返事をしない。
少なくとも独りのようだ。
痛みに耐えつつ身体を起こし、周囲を手で探った。眼鏡さえあればどうにかなるという思いで探したが、どこにもなかった。それにしても何だろうこれは、木の板?と思われるものが自分の肩のあたりにある。目を凝らしてよく見てみた。木の板の上に布団があった。
ああ、そうか、わかった。ベッドから僕は何かしらの理由でもって落ちていて、そこで眠っていたのだな!なるほどなるほど、なあんだ、全然「知らない天井」なんかではなく「知っている天井」だったのか。とそこまでは良かったのだけど、ベッドの配置に違和感があった。
ベッドから落ちたのであれば左手側にベッドがあり、右手側は1メートルほどのフローリングとなっているはずだ。
ところが左手側にベッドがあるのは間違いないのだが、右手側が壁になっている。壁が移動するはずはない、ベッドが壁側に移動したと考えることが妥当?
そんなことはあり得ない。つまり思っている配置とは逆になっている。
あらあら、いよいよこれはおかしいね。とベッドの上によじ登り、ああ、そういうことかとすぐに理解した。
まず部屋にベッドをどのように配置しているかというと。
ベッドの上に仰向けになると、左手側が壁。ピッタリとベッドを壁にくっつけている。枕の上のほうもまた壁だ。そして右手側の壁には手を伸ばしても届かない。フローリングだからね。
ベッドから落ちて僕が眠っていた場所は一体どこだったのか。
そこはベッドから左手側、つまりベッドと壁との間だったのだ。
そしてベッドの配置に違和感があったのは、左手側にベッドがあり、右手側が壁になっているということだった。
そのような状況になるには?
簡単なことだった。実際にやってみたら良いよ。全くおすすめしないけど。
まず枕に足を乗っけて、その状態で眠る。すかさずベッドと壁との間に落ちる。そしてそのまま眠る。そうすると左手側にベッドがあり、右手側には壁があるはずだ。
謎がひとつ解けましたね!
いやぁよかったよかった。一件落着。
真実はいつもひとつ!
僕はどうやらそうやって、枕に足を乗っけて眠ったのだろう。阿呆なやつだな。
そして、部屋が少しずつ明るくなって来た。日が登り始めたようだ。ということは今は朝だ。眼鏡はどうしても見つからなかったので、スペアの眼鏡を探して掛けた。白縁の眼鏡だ。この眼鏡は度が強すぎる上に乱視を矯正するものがない、という眼科医の指示で、別の眼鏡を作ったのだった。
先ほど目が覚めたとき、自分がどこにいるのか混乱したが、それでも「知らない天井だ」などと独り言を呟くほどの余裕はあったのだけど、眼鏡をかけて世界がはっきり見えるようになると、目覚めた時よりも激しく混乱した。
パニックに陥り呼吸が乱れ、どこかに人がいるような気配を感じて、部屋を見回した。
誰かいるように感じるのはパニック発作の時にいつも感じるものだと知っているので、まずは呼吸を落ち着けることにした。死ぬかと思うくらい苦しい。僕の場合、これが2,3時間しないと回復しない。
しかし、これはどういう状況なのだろう。
部屋にあるもの、あらゆる「ネジ」が外され、分解されていた。
# ● !!
ふかがわゆみ。お付き合いをしている彼女、ということになっている。なので、Sheではない。GirlfriendもしくはPartnerだ。西暦2000年に生まれた子なので僕の15歳年下だ。でも僕よりずっとしっかりしている。
彼女に電話しようと思い立った。
この状況を説明して何が起きているのか一緒に考えてほしかった。朝早くにLINE通話を初めたのだけど、ちゃんと出てくれた。
僕は身の回りで起こっている異常事態について細かく説明をしたのだが、彼女はそれほど驚いたりしなかった。僕が言ったことに対してほんのちょっと間を空けて返答した。うん、とか、うんうん、とか。どうもそれも不自然でならない。もっと驚くべき異常事態だと思うのだけど。こういったことに彼女は慣れているのだろうか?
よくあることなのか?
あらゆるものの「ネジ」が外されるということはよくあることなのか?
「ねえ、こういう……その、色々なもののネジが外されて分解されるなんてのは異常事態だよね?でもさ、これってよく起こることなの?」
「全くといっていいほど起こらない出来事よ」
「そうなの?しかし、ふかがわゆみは、どうも平然としているように思える」
「それは……ちょっと前に、同じようなことがあったからよ」
「そうなのか、ふかがわゆみは色々な出来事に出くわして、日々成長しているんだね」
「それはそうね」
ひとまず、部屋には自分以外誰もいなくて玄関の鍵も閉まっていることを確認した。
状況を彼女に説明し、それを聞いてくれた。僕は異常な状況であることを認識しているが、少し安心したからか、急な眠気が襲ってきてそのまま眠ろうとベッドに横になった。パニックを起こしたあとなので、疲れ切っているのもある。
「今、7月17日の朝8時、だよね」
「そうね」
「あの子はえっと……」となにやらあらわれるが、そこから自身の呼吸についてのみ考えて「間もなく眠りにつくだろう」と、声に出して呟いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
# ● 2022年7月18日
僕は「うたた寝」ということができない。
乗り物の中だとか、何かをしながら眠るということがうまくできなかった。
であるから、例えば東京へ行く時に新幹線を利用するよりも高速バスを利用するほうがかなり安くなる。それはわかっていたが、夜間走る高速バスでは眠ることができないのですごくしんどい思いをすることがわかっている。新幹線を利用する以外に選択肢はなかった。
……一体僕は、何の話をしているのだろう。まあ、僕の特徴のうちのひとつを話したんだ。うん、こういう話がそれるみたいなこともまた特徴といえるのだろうけれどもね……。
さて、どうやら昨日眠りについて、まるまる1日経過していた。7月18日の7時。23時間眠ったようで、それはよく自分の身に起こる過眠だった。たまにあることで、それよりも逆に眠れない日のほうが圧倒的に多かった。睡眠導入剤を処方されていたが、それでも眠れない。重度の不眠症で、眠れない日は横になって目を瞑っても2・3時間意識があるので、その時間がもったいなく感じた。いっそのこと眠らないと決めて起きているほうが良い。
目が覚めたあとに分解された物を改めて観察した。
大事なラズベリーパイも分解されており、その他にも服をかけるためのハンガーラックのキャスター部分のネジが外されていたり、電気ケトルも分解されてネジが周辺に転がっていた。そのせいで部屋の中は様々な物で散らかっていた。
失くなったものは特に思い当たらなくて、金も盗られていない。むしろよくわからないものが増えている。
スマホの携帯式充電器、1つしか持っていなかったと思うのだけど、知らない充電器が4つ置かれている。これは犯人が残した重要な手がかりだ。もしくはなんらかのメッセージかもしれない。
それにしても犯人はどうして「分解する」ということに固執しているのだろう?
人の物を分解することによって狼狽する姿を眺めて快感を覚えるようなヤツなのかもしれない。放火犯と似たような部分がある。
緊急性はないが、110番に連絡することにした。緊急性がない場合にどこに連絡すべきなのかがわからなかった。
電話をかけ、名前などの情報を説明し終わると、
「またあなたですね?」
と、斬新なジョークをオペレータが放った。
しかし「また」というのは本当に「また」という意味だった。実際に7月13日(5日前)に僕が110番へ通報し、警察官が僕の部屋を調べに来たらしい。
んなわけないわ、何も通報するようなことはないと言っても、揺るぎない真実として、7月13日、僕、こと、玄律暁のスマートフォンから110番通報して警察官2名が現地に向かった。ということを丁寧に説明してくれた。うそぉん、そぉん、なにしに来たん?
来たんか?
あれ、来たかなぁ?
「泥棒が入ったとか、ハッキングされたのかもしれないだとか、そういう話をしていたのに突然、君の名は?なんて真剣に言ったりして支離滅裂でした」
とのこと。やばいじゃんそれ。誰かがなりすまして通報したということだろう。しかしそのせいでそんな評価をされてしまった。
そりゃそうだ。そんな言動するヤツは危険な人物だと認識される。
「でも今日はちゃんとしております、先日のあなたとはまるで別人のような印象を受けます」
それはそうだろう。先日の僕は、別の誰かだ。
スマホの発信履歴を見た。
あっ、うわわあ、7月13日に110番してる。マジで?
マジだ。どうやって犯人はそんなこと出来たんだ?
結局、今日は警察官は来ないということになった。また「先日も言ったように今後は中原警察署へ直接お電話してください」
とのことだった。不安が募っていく。
## ◉ 考えをめぐらす
阿呆な頭だが、なんとなくひっかかったことがある。というのもこのような技術を僕は知っていて、それがひっかかったからだ。そこから考えてみる。
### ■ SIMスワップの可能性
あり得ることとして、SIMスワップ(SIMジャッキング)という非常に高度なハッキングを誰かが僕に対して仕掛けたという可能性。ソーシャルエンジニアリングだ。そのハッキングに必要な、なりすまし技術の延長線上で「110番通報する」ということは理論的に可能だ。SIMを完全に乗っ取るので容易に発信できる。
しかし、なりすまして110番通報した場合には足がつくリスクが高い。僕の端末ではないものからの発信となるので非常に重要な情報をキャリアに足跡として残す。
SIMスワップの標的となる人物はたいてい著名人だ。
資産を多く持っている人物のSIMを乗っ取り、本人になりすましてその資産を移動させることが主な目的であり、発信をするということは可能だけれども事例として見たことも聞いたこともない。重大な犯罪なので特に捕まるわけにはいかない。
今回、僕に対してSIMスワップを仕掛けるという大きなリスクを犯して得られるような資産や情報は絶対に無い。
だって生活保護者だぞ?天下の生活保護者だよ!
つまり、僕になりすまし110番通報をすることを目的としてSIMスワップするなんてことをする阿呆の極みみたいな人はいないと思う。いたとしたらどうしようもないキチガイ様か、僕が狼狽する姿を眺めて異常なほどの快感を覚えるようなキチガ……あれ?
やっぱもしかしてそれ目的?
つまり。
ぴかーん、って感じのヒラメキが走った。ロマサガの閃きシステムのように。
対象者の持ち物や家具を分解する。記憶にない110番通報をする。そういった状況を知り狼狽している僕の姿を眺めて異常な快感を得る変質者が犯人である。
そこに帰着。
そういう途方もない変質者がいる……得てして変質者ってのはそういうものだ。
### ■ SIMスワップの可能性は消えた
しかし、僕の 端末の発信履歴に110番通報をした痕跡が残っているということが「SIMスワップ」はされていないということを証明している。
7月13日に110番発信をしている履歴が確かにあるのだ。
しかもSIMスワップされていたとすると、彼女と通話することもできないはずである。
その線はないということだ。なあんだ。よかったよかったぁ。
いやいやよくない、振り出しに戻っただけだし、僕の端末に誰かが実際に触れて7月13日に110番通報をしたということが、ほぼ間違いないということが確定しつつあることから、より気持ち悪さが高まっている。
### ■ 何をあれこれしてるん?
そういう風にあれこれ考えたりして、いったい僕は何を阿呆な頭にひっかからせようとしているのか?
まずは部屋を片付けはじめたり、普通の生活が送れる状態に戻さなければならないのではないか?
そんな風に仰る方も多いかもしれない。
それは至極ご尤もです。まさにそのとおり。そう、なのですけれども、僕はそもそも普通の生活を送っていなかったのです。そのため、現実的な生活を送るというよりも、この耐え難い不快な状況を何とかしようと必死に考えているのです。
SIMスワップという突飛な可能性にまで思いを巡らせるほど、藁にもすがる思いだったのだ。誰かが実際に端末に手を触れて使用したという可能性を「否定」出来るような方法についてあれこれ考えをめぐらせているのだ。
気持ちの悪いできごとを否定したくなるのは当然じゃない?
自分の身に起きた曖昧で嫌な感じのできごとは、否定したくなる。
### ■ 犯罪に関わる可能性
例えば悪い相手から、睡眠導入剤をカクテルに混ぜたものを知らぬうちに飲まされ、不本意に記憶のないことをされたりしたとする。そういったできごとは否定し、あるいは無かったこととしたい、というのが人間の正しい反応だろう。
それはつまり「事実や真実」を知りたくないのだ。
けれども真実を明らかにしないといけないことが多い。近年は特に多くなってきている気もする。
例えばあなたが被害者で検察が起訴した場合は嫌な記憶に何度もアクセスすることになる。知りたくもないできごとを明らかにするという、自身の人間的な反応と、真逆のことをすることとなる。
しかし……まあ仮に、なんだけど……さっきから仮の話ばかりしているような気がするのだけど、続けますね。
刑事・民事いずれの場合でも当然ながら法廷は真実を明らかにするための場だ。なので、そのような時には検察官も弁護士も、そして裁判官も全員が、被害者に最大限の配慮をしながら、事実を明らかにする作業を進めていく。被害者は嫌な記憶を明らかにしていく。
そのようなプロセスに耐えられないと思ったら、そもそもそれは無かったことにする。それはおそらく、認知行動療法といった専門的アプローチが必要となるだろう。
最悪誰かに催眠をかけてもらうしかないのかもしれない。心理学の手法としての催眠。一生その耐え難いできごとを忘れ抜くにはそういった手法を用いるしかない。
### ■ 疲労困憊
そんな風にして、目の前で起こっている様々な現象ひとつひとつについて考えることはものすごく疲れるものだ。
その線を無意識に探しているから、その疲労感はそうなってみないと誰にもわからないだろう。
端から見ると、僕は何もしていないように見える。実際、目に見えて行っていることは特にない。しかし様々な線からひたすらに事実を覆す方法を考えているのだ。そして、疲労困憊する。
プロ棋士が次の一手を考え抜くようなことに近いと思う。
## ◉ 健忘について
そして7月18日という日に起こった(気付いた)出来事は、もしかすると7月13日に起きていたのかもしれない。このように可能性を手繰ればキリがない。
さて。「健忘」という症状がある。以下、健忘についての説明をする。
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健忘とは、記憶の喪失や障害を指す症状です。一般的な健忘の特徴と発生条件には以下のようなものがあります:
### ■ 健忘の主な種類
- 前向性健忘:健忘が起きた時点以降の新しい記憶を形成できなくなる状態
- 逆向性健忘:健忘が起きる前の過去の記憶が失われる状態
- 一過性全健忘:突然発症し、通常数時間から24時間程度で回復する一時的な記憶障害
- 解離性健忘:心理的ストレスや外傷体験などにより、特定の記憶や体験を思い出せなくなる状態
### ■ 発生する主な条件・原因
- 心理的要因:強いストレス、トラウマ体験、精神的ショック
- 身体的要因:頭部外傷、脳の損傷、脳卒中、てんかん発作
- 物質関連:アルコールの過剰摂取、薬物使用、睡眠薬などの薬剤の影響
- 疾患:アルツハイマー病などの認知症、ビタミンB1欠乏症(ウェルニッケ・コルサコフ症候群)
- 睡眠障害:睡眠時無呼吸症候群などによる睡眠の質の低下
### ■ 特徴的な症状
- 特定の期間の記憶が部分的または完全に失われる
- 自分が何をしていたか思い出せない
- 時間の感覚が混乱する
- 自分の行動に対する記憶の欠落
- 記憶の欠落を埋めるための作話(虚偽の記憶を無意識に作り出す)
## ◉ 真実は必ずしも明らかにせずとも良い
真実を明らかにするということ、そのプロセスはかなりの苦痛であることから、忘れてしまったほうが良い場合が多い。世の中の多くの人はそうやって生きている。うまいこと、もうそれはそれは器用に綺麗さっぱりと忘れることが出来るのだ。寝れば忘れる。それはまるでRAMのようであり、シャットダウンすれば、記憶は一切残りません。
ところがそれがうまくできない人もいる。そんな人は真っ先に精神を病む。真っ先に、というのは、いずれ誰もが精神を病むという意味合いで使用している。
今回のできごとについては絶対に忘れてはならない。
明らかにしないといけないことだとなんとなく思う。それほどまでに、あり得ないことが目の前で起きている。そして、僕は多くのことについて忘れていると思われる。
疲れた、とベッドに伏せる。ベッドに伏せるといつも悲しいフレーズを思い出す。
あの子は死んだ。取り返しがつかない。
これは悪いクセで、ベッドに伏せるということが、そのフレーズを思い出すという行動に結びついている。これでいつも鬱屈とする。
「あの子は死んだ」で僕の頭の中を検索すると、その中で重大な「あの子」についての結果は4件ヒットした。
……あれ?
4件?
4件目は誰だ?
……………………これが最も重要なことだった。
スマートフォンを操作して、あの子の名前を探す。見つからない。あの子と約束をした予定についてやりとりをしたLINEのトークを探した。見つからない。どうして忘れていた?
もしかして、あの子が死んだということは事実ではないのでは?
## ◉ 4件目の「あの子」を思い出す
すぐに、ふかがわゆみにLINE通話をする。出てくれた。
「神島亜佑美。あの子のことを何故か忘れていたけれども思い出した。どうして忘れていたのか不可解だ、ちょっとそれはあり得ないと思わん?」
「そうね、ついこの前の出来事だから忘れるはずがないよね」
「そうよな、でも連絡先が消えているし、LINEでのトークを削除してしまったようなんだ」
「……、そうなのね」
「ねえ、他にもおかしいと思っていることがあるんだけどさ」
「……、なあに?」
「そのな、ふかがわゆみ。君の、その間、だよ。なにかしながら僕と話をしているよね?」
「……、さすがの第六感的直感の持ち主だけあるね」
「そうだろう、そして、その間で君がしていることは……ぼくのきろくをしている?」
「そうだよ」
「……すっごいね、僕の第六感的直感は今日も冴えてるねぇ……えっ、えっ、なんで記録とってるの?」
「……、それは内緒」
「ええー……そうなのね。じゃあ重要なことを聞くよ」
「うん」
「かしまあゆみは、死んだのだよね?」
「うん、そうだよ、律暁さんの友人のかしまあゆみさんは先月末に死亡したのよ」
「……やっぱりそうだよね。どうして僕、そんな大事なことを忘れていたんだ……」
「……お願いだからこれ以上、自分を責めたりしないで」
「自分を責めたり?」
「うん」
「していないつもりだけども」
「しているの、しているから、今回のようなことが起こっているの」
「そっか……ふかがわゆみが僕のことを気にかけてくれていて良かった。記録をとってくれていてよかった。全部知っているんだね」
「外から観察した律暁さんのことについてはね」
「よし、じゃあさ、どうして僕がこういう異常事態に陥ったのか、順を追って説明をしてもらっていいかな?」
彼女はしばらく黙っていた。考えているようだった。
「んん……とね、今日はダメ。明日以降に話すよ」
「ええっ……そうなの?そうなのか、うん、そうと決めたら絶対に譲らない、ふかがわゆみの言う事だから、そのとおりにするよ」
「うん、そうしてください」
「ああ、それとね、ここ1週間くらいかな?ほとんど記憶がないんだ。まあたぶん過眠を繰り返していたからだと思うんだけど、それにしてもおかしな感じがする」
「……、うん、わかった、ゆっくり休んでね」
「うん、そうするよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
# ● ?
目を覚ますと部屋は暗く、何時なのか全くわからない。腕時計もよく見えず、スマートフォンも周囲には見当たらなかった。どうもおかしい。
ここはどこだろう?
どこにいるのだろう?
というのも、自室で眠っていて目覚めたのであれば目覚まし時計であるとか充電器、電気をつけるためのリモコン、その他大事なものなどの配置を大抵の人は把握している。しかしそれら全てを見つけることが出来ず、また、ベッドに普段は眠るのだが、どうも違う。全身に痛みがある。
天井を見上げているようだが、それすらも暗くてよく見えなかった。
なんとなく「知らない天井だ」と有名になりすぎた言葉を呟いてみた。7秒、数えた。その間、息を止めていた。誰も何も返事をしない。
少なくとも独りのようだ。
痛みに耐えつつ身体を起こし、周囲を手で探った。眼鏡さえあればどうにかなるという思いで探したが、どこにもなかった。それにしても何だろうこれは、木の板?と思われるものが自分の肩のあたりにある。目を凝らしてよく見てみた。木の板の上に布団があった。
ああ、そうか、わかった。ベッドから僕は何かしらの理由でもって落ちていて、そこで眠っていたのだな!なるほどなるほど、なあんだ、全然「知らない天井」なんかではなく「知っている天井」だったのか。とそこまでは良かったのだけど、ベッドの配置に違和感があった。
ベッドから落ちたのであれば左手側にベッドがあり、右手側は1メートルほどのフローリングとなっているはずだ。
ところが左手側にベッドがあるのは間違いないのだが、右手側が壁になっている。壁が移動するはずはない、ベッドが壁側に移動したと考えることが妥当?
そんなことはあり得ない。つまり思っている配置とは逆になっている。
あらあら、いよいよこれはおかしいね。とベッドの上によじ登り、ああ、そういうことかとすぐに理解した。
まず部屋にベッドをどのように配置しているかというと。
ベッドの上に仰向けになると、左手側が壁。ピッタリとベッドを壁にくっつけている。枕の上のほうもまた壁だ。そして右手側の壁には手を伸ばしても届かない。フローリングだからね。
ベッドから落ちて僕が眠っていた場所は一体どこだったのか。
そこはベッドから左手側、つまりベッドと壁との間だったのだ。
そしてベッドの配置に違和感があったのは、左手側にベッドがあり、右手側が壁になっているということだった。
そのような状況になるには?
簡単なことだった。実際にやってみたら良いよ。全くおすすめしないけど。
まず枕に足を乗っけて、その状態で眠る。すかさずベッドと壁との間に落ちる。そしてそのまま眠る。そうすると左手側にベッドがあり、右手側には壁があるはずだ。
謎がひとつ解けましたね!
いやぁよかったよかった。一件落着。
真実はいつもひとつ!
僕はどうやらそうやって、枕に足を乗っけて眠ったのだろう。阿呆なやつだな。
そして、部屋が少しずつ明るくなって来た。日が登り始めたようだ。ということは今は朝だ。眼鏡はどうしても見つからなかったので、スペアの眼鏡を探して掛けた。白縁の眼鏡だ。この眼鏡は度が強すぎる上に乱視を矯正するものがない、という眼科医の指示で、別の眼鏡を作ったのだった。
先ほど目が覚めたとき、自分がどこにいるのか混乱したが、それでも「知らない天井だ」などと独り言を呟くほどの余裕はあったのだけど、眼鏡をかけて世界がはっきり見えるようになると、目覚めた時よりも激しく混乱した。
パニックに陥り呼吸が乱れ、どこかに人がいるような気配を感じて、部屋を見回した。
誰かいるように感じるのはパニック発作の時にいつも感じるものだと知っているので、まずは呼吸を落ち着けることにした。死ぬかと思うくらい苦しい。僕の場合、これが2,3時間しないと回復しない。
しかし、これはどういう状況なのだろう。
部屋にあるもの、あらゆる「ネジ」が外され、分解されていた。
# ● !
ふかがわゆみ。お付き合いをしている彼女、ということになっている。なので、Sheではない。GirlfriendもしくはPartnerだ。
彼女に電話しようと思い立った。
この状況を説明して何が起きているのか一緒に考えてほしかった。朝早くにLINE通話を初めたのだけど、ちゃんと出てくれた。
僕は身の回りで起こっている異常事態について細かく説明をしたのだが、彼女はそれほど驚いたりしなかった。僕が言ったことに対してほんのちょっと間を空けて返答した。うん、とか、うんうん、とか。どうもそれも不自然でならない。もっと驚くべき異常事態だと思うのだけど。こういったことに彼女は慣れているのだろうか?
よくあることなのか?
あらゆるものの「ネジ」が外されるということはよくあることなのか?
「ねえ、こういう……その、色々なもののネジが外されて分解されるなんてのは異常事態だよね?でもさ、これってよく起こることなの?」
「全くといっていいほど起こらない出来事よ」
「そうなの?しかし、ふかがわゆみ。君は、どうも平然としているように思える」
「それは……ちょっと前に、こうなる予兆のようなものを感じていたからね」
「そうなのか、ふかがわゆみは色々な出来事に出くわして、日々成長しているんだね」
「それはそうね」
でもまあひとまず、部屋には自分以外誰もいなくて玄関の鍵も閉まっていることを確認した。
状況を彼女に説明し、それを聞いてくれた。僕は異常な状況であることを認識しているが、少し安心したからか、急な眠気が襲ってきてそのまま眠ろうとベッドに横になった。パニックを起こしたあとなので、疲れ切っているのもある。
今は7月12日の夕方、16時ごろだとしっかりと覚えて。
「あの子は……」となにやらあらわれるが、そこから自身の呼吸についてのみ考えて「間もなく眠りにつくだろう」と、声に出して呟いた。
# ● 2022年7月13日
僕は依存症者であり、それは現在進行系である。しかし今は昔ほどコデインは服用していない。
24歳くらいの時に本格的にコデインに依存した。コデインは風邪薬に含まれて市販されており、ブロン錠をはじめ、ブロンカリュー、ブロン液、他にも競合他社の市販薬が販売されていた。
毎日それらをかなりの量、オーバードーズするものだから、1日で7000円前後は飛ぶ。
さて、どうやら昨日眠りについて、まるまる1日経過していた。
7月18日の7時。23時間眠ったようで、それはよく自分の身に起こる過眠だった。たまにあることで、それよりも逆に眠れない日のほうが圧倒的に多かった。睡眠導入剤を処方されていたが、それでも眠れない。重度の不眠症で、眠れない日は横になって目を瞑っても2・3時間意識があるので、その時間がもったいなく感じた。いっそのこと眠らないと決めて起きているほうが良い。
目が覚めたあとに分解された物を改めて観察した。
大事なラズベリーパイが分解されており、その他にも服をかけるためのハンガーラックのキャスター部分のネジが外されていたり、電気ケトルも分解されてネジが周辺に転がっていた。そのせいで部屋の中は様々な物で散らかっていた。
失くなったものは特に思い当たらなくて、金も盗られていないし、むしろスマホの携帯式充電器が増えている。1つしか持っていなかったと思うのだけど、それが4つ置かれている。これは犯人が残した重要な手がかりだ。もしくはなんらかのメッセージかもしれない。
それにしても犯人はどうして「分解する」ということに固執しているのだろう?
人の物を分解することによって狼狽する姿を眺めて快感を覚えるようなヤツなのかもしれない。放火犯と似たような部分がある。
緊急性はないが、110番に連絡することにした。緊急性がない場合にどこに連絡すべきなのかがわからなかった。
電話をかけ、名前などの情報を説明し終わると、
「わかりました、ではすぐにお宅に伺いますので」
とオペレータは答えた。
自身に何が起こっているのか。自分一人では結局何もわからなかった。
# ◆ 玄 律暁さんの経過
以下、ふかがわゆみが僕の状態について記録したものだ。僕はこれを見て恐ろしくなった。信じられない。全て、記憶にないのだ。
---
【要旨】
- 「泥棒に入られて部屋がめちゃくちゃ」だと言っていたが、のちに自分でやったかもしれ ないことが発覚(解離?)
- つい最近友人を亡くしたことが関係している可能性
- 12 時間〜24 時間の過眠を繰り返している
## 7/10(土)
- 声に抑揚と感情がない
- 喋り方がゆっくり
- 会話は普通
- 21:00 頃から 7/11(日)3:00 頃まで過眠に入る
## 7/11(日)
- 一度 3:00 頃連絡が入るが、その後 7/12(月)の 15:00 過ぎまで過眠する
## 7/12(月)
- 15:00 過ぎ頃連絡が入る、1時間程通話するもその後 7/13(火)の 17:00 まで連絡取れず
## 7/13(火)
- 17:00 頃「泥棒に入られた。警察がまともに取り合ってくれなかった」という主旨の電話 がかかってくる。
- 声に抑揚がなく、話し方もゆっくり
- 私がバイト中であると事前に言ってあり、またかかってきても「出られません」とメッセ ージを送っているのにも関わらず、深夜に何度も玄さんから電話がかかってくる
## 7/14(水)
- 5:30 頃「どろぼうはいった」と LINE がくる
- 話が噛み合わず、時々訳の分からないことを言われる(「僕の時間は 8:30.94 です」など) ・電話すると、声に抑揚がない
- 呂律が回っていない
- 12:30 頃「俺もう死のうと思って」と電話がかかってくる
- 「部屋に自殺するための道具が2個ある」といい、「それは何?」と聞くと「バールのようなもの」と返ってきた
- 「どうしてバールと自殺が関係あるの?」と聞くと「わからない」と言う
- 会話が噛み合わず、何を言っているのかこちらが理解できない
- 「充電がなくなる」と何度も言っていたが、充電するという動作を思いつかない
- 私が東横惠愛病院及び精神科救急医療情報窓口に電話する
## 7/15(木)
- 0:00 頃電話がかかってくる
- 声の調子や抑揚が元に戻っている
- 話の内容もちゃんと噛み合っている
- 「夢の中にいるみたい」と言う(離人感?)→本人はこの発言を覚えていない
- 11:30 頃から 7/16(金)11:30 頃まで過眠に入る
- 私から玄さんのご両親に電話で事情を説明する
## 7/16(金)
- 「寝た記憶がない」と言い、部屋の中がぐちゃぐちゃであることや 1 日眠っていたことに強い戸惑いを覚えて混乱している様子
- 「入院はしたくないけど入院するレベルだろうな」と言う
- 12:00 頃から 7/17(土)の 4:00 頃まで眠る
## 7/17(土)
- 7:00 頃電話をする、その後 7/18(日)7:00 まで眠る
## 7/18(日)
- 最近友人が亡くなったことを 9:00 に思い出す
- 亡くなった友人の連絡先を自ら知らないうちに削除していた
- PC を破壊したのが玄さん本人である可能性が浮上(解離?)
## 7/19(月)
- 声も話の内容も普段どおり
- 一週間ほど静養することを決める
泥棒について
玄さんの話を総合してわかっていること
- 7/13(火)の夜〜明け方までの間に入られた?→全て自分でやった可能性が浮上
- ラズベリ ーパイ(シングルボードコンピュータ)を自分で分解している記憶が薄っすらとあるらしい ・寝ていて気づかなかったが、起きたら部屋が荒らされていてぐちゃぐちゃだった
- コード類は全て断線→のちに本人の勘違いと判明
- VAPE やモバイルバッテリー、お守りなどがなくなっている→VAPE が見つかる
- ゴミ箱の位置が動かされている
- PC が壊れている→自分で壊した可能性
- 知らない箱が部屋にある
- 物干し竿が部屋にあって服が散らばっている(本人は物干し竿を当初“知らない棒が部屋にある”“自殺するための棒”などと表現)
情報提供:深川 由美
連絡先:090-1234-1234
# ◆ 読売新聞ニュース 2022年6月27日
「オーバードーズ」と呼ばれる市販薬の大量摂取で意識を失った神島亜佑美さん(38)を放置したとして、警視庁池袋署は27日、川崎市麻生区上麻生、医師、斎藤浩二容疑者(48)ら男3人を保護責任者遺棄容疑で逮捕したと発表した。神島さんはその後、死亡。若者らを中心に問題化しているオーバードーズは危険性が高く、警視庁などが注意を呼びかけている。
容疑者 ( 保護責任者遺棄の疑い)
斎藤浩二容疑者(48) 医師
村木玲雄容疑者(24) 無職
谷岡聡 容疑者(33) 無職
### ■ 市販のせき止め薬を大量に服用
警視庁発表によると、齋藤浩二容疑者ら3人は2021年6月11日朝、東京都豊島区のホテル一室で、職業不詳の神島亜佑美 さん(当時38歳)が市販のせき止め薬を大量に服用して 昏睡 状態になったのに、救急搬送などの措置を取らず放置した疑い。
「寝ているだけかと思った」
逮捕はいずれも2022年6月25日。調べに斎藤容疑者は「寝ているだけと思った」と容疑を否認し、他の2人は認めている。
### ■ 出会いはSNS
斉藤容疑者ら3人と神島さんとは2018年、Twitterで知り合い、その後、神島さんがLINEグループを作成。
約30人のメンバーがいるというこのLINEグループを通じて、去年6月、神島さんらは豊島区内のホテルに集まり、精神的な苦痛を和らげたり、高揚感を得る目的で、各自が持参した市販薬を大量に摂取していた。
### ■ せき止め薬を一度に40~100錠以上摂取
神島さん(38)は、せき止め薬を少なくとも一度に40錠以上摂取し、さらに酒も飲み、翌朝、こん睡状態になったが、 斎藤容疑者らはホテルから立ち去り、2021年6月11日夜に119番したが、神島さんは搬送先の病院で死亡が確認された。死因はせき止め薬の成分による中毒死。
### ■ ストレス解消のため
薬を過剰摂取する、いわゆる“オーバードーズ”。
医師の斎藤容疑者は、「ストレス解消のために、大量に薬と酒を飲むようになった」と話している。
### ■ 若者に広がる「オーバードーズ」
簡単に手にうできる市販薬の「オーバードーズ」は今、若者の間で急速に広がっている。
薬物の使用経験がある人を対象にした調査(全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患の実態調査)では10代の場合、市販薬の占める割合が
▼2016年 25% ▼2018年 41.2% ▼2020年 56.4% と4年間で2倍以上になっている。
# ● 真実
記憶にないのだが、僕は、ふかがわゆみの友人、黒緑子に電話をかけて、圧倒的恐怖な暴言を吐きつづけ、泣かせたらしい。他にも僕が師匠と慕う親友に対しても同じように通話し、泣かせた。
黒緑子はその振る舞いについて「極めて暴力的・高圧的」であったと解説した。
そして、一番大切な人を傷つけてしまった。
全て僕は覚えていない。判明したことは、僕ではないヤツが僕の中にいるということだ。
解離性同一性障害。昔は多重人格とかよばれていた。そんなこと冗談だと思っていた。あり得ない、嘘だろう、と。
しかし、まさに わたしはDID(解離性同一性障害) であった。
この真実は極めて精神的ダメージを負うことになった。僕は壊れている。原因はわからない。何を起こすかわからない。ヤツになった状態で人を殺すかもしれない。
どうしようもない。この真実を抱えて、生きていくかない。
大切な人を失った。ふかがわゆみには感謝の気持ちと謝罪の気持ちが混ざっている。
神島亜佑美は死んでしまった。
2022年、7月。僕はDIDだということが判明。
2023年3月。ハチガツちゃんの眼の前で解離。気がついたら彼女は泣いていた。何が起こったのかわからなかったけど、とにかく「ごめん、ごめんね」と謝り続けた。彼女は許してくれた。
現在、2025年9月。ハチガツちゃんの件以降、解離することはなくなった。
けれどもたくさんのものを失った。返ってこない。
この話はここで終わりだ。
# ●1 トラウマと向き合うということ
誰しも多かれ少なかれ「トラウマ」を抱えているだろう。一説によると、人は何らかのトラウマ体験を60.7%の人は持っている。
ある嫌な出来事があり、そのことを忘れることができるのであれば何ら問題とはならない。しかし嫌な出来事だけを都合よく忘れることが出来る人はいない。(自己催眠を極めた人であればもしかすると出来るかもしれないですけれども……)
であるから度々その嫌な出来事を思い出して気分全体が落ち込んだりと、何らかの症状が心身に現れてしまう。人が生活を営む上でのことで強烈なトラウマ体験をしたとすれば、それは致命的な精神的外傷だ。頻繁にフラッシュバックを引き起こし、嫌な体験をしている状況と同等の苦痛を感じることになる。
そのトラウマと向き合って自分なりに考えても、解決しないだろう。
## ◉ 苦痛を比較するな
そのトラウマ体験が「解決する」「気の持ちよう」だと誰かに言われたとして、それで解決するのであれば、それはトラウマ体験ではない。解決しないものがトラウマ体験であり問題となる。
またそのことから「トラウマなど自分にはない」「お前は精神面で劣っている」と言う人が周囲に存在したとしても、その人が常人より(あるいは自分よりも)精神面で優れているということは全くない。
「世界にはもっとひどい貧困があるので現状を耐え忍ぶ」だとか、そういった人々に思いを馳せ比較することで、一種の優越感・安心感を得るようなことがあるが、トラウマ体験についてはそのようにして比較すべき事柄でもない。
同じような出来事であっても、ある人は深く傷つき、またある人は全くなんともないといった事も多くある。
苦痛から解放されるにはどうしたら良いだろうか模索することだろう。
もしそのトラウマと向き合うのであれば、専門家の元で行うべきである。一人でいくら時間をかけて考え込んでも先ほど述べたように解決する見込みはほぼない。第三者からの言葉から導き出される意見が必要不可欠であり、その出来事に対する「認知の歪みを修正する」ということが大切なことだ。
つまり、一人で考え込むのは非常に危険だということだ。
# ●2 心的外傷後ストレス障害(PTSD)について
心的外傷後ストレス障害(Post-Traumatic Stress Disorder: PTSD)は、生命を脅かすような出来事や深刻な怪我、性的暴力などの強烈なトラウマ体験の後に発症する精神疾患です。PTSDは誰にでも起こる可能性があり、トラウマ体験をした人の約7〜8%が発症するとされています。
## 主な症状
PTSDの症状は大きく4つのカテゴリーに分けられます:
- 侵入症状:フラッシュバック、悪夢、トラウマ体験の不快な記憶が突然よみがえる
- 回避症状:トラウマを思い出させる状況、人、場所、会話、活動などを避ける行動
- 認知と気分の変化:トラウマに関連する記憶の一部を思い出せない、自分や他人に対する否定的な信念、自責感、持続的な恐怖や怒り、喜びを感じられない
- 過覚醒症状:過度の警戒心、驚愕反応の増強、集中困難、睡眠障害、イライラや怒りの爆発
## 治療法
PTSDの主な治療法は以下の通りです:
- トラウマ焦点認知行動療法(TF-CBT):トラウマ体験を安全に処理し、それに関連する考えや感情に対処する方法を学ぶ
- 眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR):トラウマ記憶を処理するために眼球運動などの両側性刺激を用いる
- 持続エクスポージャー療法:トラウマ記憶に徐々に向き合い、それに関連する不安を軽減する
- 薬物療法:特にSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの抗うつ薬が症状緩和に効果的
# ●3 解離性同一性障害(DID)について
解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder: DID)は、以前は多重人格障害(Multiple Personality Disorder: MPD)と呼ばれていた精神疾患です。
## 解離性同一性障害と創作表現
解離性同一性障害は映画やテレビドラマ、小説などで取り上げられることがありますが、その描写は必ずしも現実の症状や体験を正確に反映しているわけではありません。メディアでは、劇的な人格の切り替わりや極端な性格の違いが強調されがちですが、実際の症状はより複雑で微妙なものです。
創作における解離性同一性障害の描写は、時に当事者のリアリティと乖離することがあります。実際の治療や支援においては、各人格状態を尊重し、協力関係を構築することが重要です。
## 定義と診断基準
解離性同一性障害は、一人の人間の中に複数の異なる人格状態(オルタネート・パーソナリティ、または部分的人格)が存在する状態を指します。各人格状態はそれぞれ独自の自己認識、行動パターン、記憶を持ちます。
主な診断基準は以下の通りです:
- 二つ以上の異なる人格状態の存在
- 人格間での記憶の断絶(解離性健忘)
- 日常生活や社会機能に著しい支障をきたす
- 症状が文化的・宗教的慣行や一般的な発達段階によるものではない
## 名称の変更について
「多重人格障害」から「解離性同一性障害」への名称変更は、1994年のDSM-IV(精神疾患の診断・統計マニュアル第4版)で行われました。この変更には以下の理由があります:
- 「多重人格」という表現が誤解を招きやすかった(実際には完全に別個の人格ではなく、一つの人格の断片化である)
- 解離という現象の重要性を強調するため
- アイデンティティの統合における問題が中核症状であることを示すため
## 原因と発症メカニズム
解離性同一性障害の主な原因は、幼少期における重度のトラウマ体験(特に虐待)とされています。脳がトラウマに対処するために解離というメカニズムを用い、その結果として別個の人格状態が形成されると考えられています。
解離とは、通常は統合されている意識、記憶、アイデンティティ、知覚、身体感覚などの機能が分断される現象です。解離は一時的な防衛機制として始まりますが、繰り返されることで固定化され、異なる人格状態として確立されていきます。
## 症状と臨床像
主な症状には以下があります:
- 人格の切り替わり(スイッチング)
- 時間の空白や記憶の喪失
- 離人感・現実感消失
- 自己同一性の混乱
- 自分の行動や所持品に関する説明できない変化
- 聞こえてくる声(内的な対話や議論)
- 気分や行動の急激な変化
## 治療
解離性同一性障害の治療は複雑で長期にわたることが多いですが、主な治療アプローチには以下があります:
- 精神療法(特にトラウマに焦点を当てた治療)
- EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)
- 人格状態間のコミュニケーションと協力の促進
- 最終的な目標としての人格の統合(ただし、統合せずに協力関係を築くことを選ぶ患者もいる)
- 併存症状(うつ、不安など)に対する薬物療法
なお、この障害の理解と治療法は進化し続けており、現在の臨床アプローチは患者の自律性を尊重し、各人格状態を単なる症状ではなく適応メカニズムとして認識する傾向にあります。
## PTSDと解離の関係
PTSDと解離性障害は密接に関連しています。重度のトラウマを経験した人は、その時に解離を経験することがあり、これが後にPTSDや解離性障害の発症リスクを高めます。実際、PTSDの患者の中には解離症状を伴うケースも多く、DSM-5では「解離症状を伴うPTSD」という特定子が設けられています。
## PTSDと解離性同一性障害の違い
PTSDと解離性同一性障害(DID)は共にトラウマに関連した障害ですが、いくつか重要な違いがあります:
- PTSDでは解離症状が現れることがありますが、別の人格状態の形成は必須ではありません
- DIDでは複数の異なる人格状態が存在し、それぞれが独自の自己認識と記憶を持ちます
- PTSDの主症状はトラウマの再体験、回避、過覚醒などですが、DIDの中核症状は人格の断片化と解離性健忘です
ただし、両方の障害を併発するケースも少なくありません。特に幼少期からの長期にわたる虐待を経験した場合、複雑性PTSDとDIDの両方の診断基準を満たすことがあります。
# ● おしまい
※ この物語はノンフィクションであるが登場人物の名称を変えています。