第1章 芸術の都テッサード王国にて
わざわざ母国を離れたというのに、どこへ行ってもあの男の影が至る所でちらついて、一向に気が休まらない。
気分転換しようと街中を歩いていても、カフェで息抜きをしようとしても、あの男の作ったメロディーがラジオやレコードプレーヤーから流れてくるからだ。
特に彼自身が作詞作曲した上に自らピアノ演奏しながら歌った『君に伝えられない素直な気持ち……』という恥ずかしいタイトルの歌が聞こえてくると、悶え苦しんだ。
初めてその曲を聴いた時の感情が、今でも甦ってきて切なくなるからだ。
誰を想いながらこの歌を作ったの?
誰を想いながらレコーディングしたの?
誰を今想っているの?
私をどう思っているの?
私とこれからどうなりたいと思っているの?
彼の曲から逃げたくて観劇でもしようと劇場には入れば、役者でもないのにあの男の顔写真入りの広告ポスターが貼られているのだから、今度は耳だけでなく目まで覆わなくてはならなくなり、あえなく退場。
そんな日々が続いて少しばかりノイローゼ気味になり、ドロセナ=ユーダン子爵令嬢に救いを求めた。そして彼女に連れられてメイドのアンジェや護衛と共に礼拝堂へ向かった。
しかし残酷なことに、そこにも四年ぶりに選ばれた新しい七人の音楽の聖人の写真が飾られてあった。
限界だった。
私は脱力してその場にへたり込んでしまった。
護衛騎士のゴルジュとメイドのアンジェに支えられ、友人のドロセナとシスター達と供に礼拝堂の控室に連れて行ってもらった私は、その小部屋のソファに沈んだ。
私があまりにも真っ青な顔をして、冷や汗をかいているので、シスターは医者を呼ぼうと言って下さった。
しかし、単なる寝不足による目眩だということはわかっていたので、少しだけ休ませて欲しいとお願いした。
すると、慈悲深そうなシスターは悩み事があるのなら後でお聞きしますよ、と優しく言って部屋を出て行かれた。それを聞いて私は力無く笑みを浮かべてしまった。
(それは無理です。
だって、貴女方が敬っている音楽の聖人様、そのお一人への愚痴や恨み事なんて、とても言えるわけがないもの)
「安易な考えで貴女をこの国に呼んでしまって、ごめんなさいね。まさか彼の人気がこの国にまでこうも広まるとは思っていなくて」
シスターがいなくなると、友人のドロセナが申し訳なさそうな顔をした。
彼女のせいではない。ここは芸術の都と呼ばれている国なのだから、あの天才音楽家が認められ、受け入れられることは想像に難くなかったのだから。
というか、彼のことをこの国に限らず、大陸の至る所で宣伝しまくっていたのが、私の父親と父の商会なのだから、文句が言える立場ではない。
しかもだ。彼のピアノ演奏や、彼の作曲したメロディーを耳にすることはたしかに切なくなるし、辛い。
ところが、それらがヒットすればするほどこちらの懐は儲かるのだから、内心複雑なのだ。
まあその事実は、元婚約者である天才音楽家と私の家族しか知らないことだったのだが。
一月前に王城で開かれた建国祭のパーティーで、私は婚約者であったピアット=ムューラント侯爵令息に向かって婚約破棄を告げた。
そのパーティーは私のデビュタントとしての晴れの舞台になるはずだった。
しかしその半月前に彼から、申し訳ないがやむを得ない事情ができたのでエスコートができないと、突然連絡が入ったのだ。
婚約者のデビュタントのエスコートができないほどの事情って一体何? 貴方は我が家に婿入りする身なのよ?
「飼い犬に手を噛まれるというのはこういうことだな。
今の彼があるのは、我が家の膨大な支援があったおかげだというのに、その恩を仇で返すとは。
しかし、言い換えればもう我が家の支援などは要らないという彼の意思表示なのだろう。
それならばそれで、こちらもそういう方向で進めようと思うが、お前はどうしたいんだい?」
父がその時までその話題を一切口にしなかったのは、偏に私の気持ちを一番に考えてくれていたからだったのだろう。
しかし、いくらなんでもこれ以上父に迷惑をかけたくないと私は思った。
今回の事は、十年前に私が無理矢理父にお願いしたことがきっかけだったのだから。
これ以上父やヴァード伯爵家に迷惑をかけることはできない。
そろそろ幕引きをしなければならない。
惨めで情けない女だと陰口を叩かれているだけでも我が家にとって不名誉な話だった。
それなのに『悪女』だという評判まで立ったら、さすがに伯爵家の名誉と商会の信用にも影響を及ぼしかねないもの。
本当は、誰がこんな悪意のある噂を広めたのかを知りたいという気持ちがある。
なぜ自分が悪女だと呼ばれようになったのか全く理解できないし、あまりにも理不尽過ぎる話だから。
言われのない悪意ある噂に、全身が震えるほど怒りを覚えていた。
けれど、どんなに私や父が否定しようとしても結局人の口に戸は立てられないだろう。
屈辱的でも長い目で見れば逃げ出した方がましだわ。人の噂も四十五日というし。
令嬢としての矜持? そんなものより、私は男手一つで育てくれた父や可愛い妹、屋敷の者達や領民、そして商会の人達の方が大切だもの。
だからピアット=ムューラント侯爵令息との縁を断ち切り、私は姿を隠すことにしたのだ。
この際私の思いなどはどうでもいい。どうせ最初から仮初めの婚約だったのだから。
ようやくそう決意した私は、国王夫妻の結婚記念の夜会の当日、演奏旅行から帰国したばかりのピアットを王城に訪ねた。
それは、デビュタントだった建国記念パーティーのあった日から半月後のことだった。
読んでくださってありがとうございました。
 




