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鬼、人はそれを悲劇とも茶番劇とも呼ぶ

作者: 神崎みこ

個人サイトからの転載です、こういうのを書きまくってた記憶があります

 最初に気が付いたのは、彼に移った残り香だった。

汗の匂いとは違うほのかに甘い香りが、洗濯カゴに投げ入れられたシャツから漂ってくる。

男の人は気が付かないのだろうか、こんなにも激しく自身の存在を主張しているものに。

でも、気が付かないフリをする。

目に見えた修羅場はごめんだ。

いや、たぶん彼とは修羅場にすらならないのだろう。

きっと、問い詰めればあっさりと白状して土下座して謝ってみせる。

涙なんか浮かべて「もう二度としないから許してくれ」なんて言ってみせたりもする。容易に想像できる彼の姿にため息をこらえる。

そうして、再び過ちは繰り返される。

これは彼の本性なのか、私との相性が余程悪いのかはわからない。

そんな茶番劇は二、三度繰りひろげられれば、飽きてしまう。

最初に感じたのは激しい嫉妬と喪失感。二度目に感じたのは失望。三度目は絶望。

これ以上何を感じとればいいのだろうか。

それでも私は彼とは別れられない。それを依存と呼ぶのだろうけど。

そして、所謂取引先の取締役の娘である私を、学生時代に妊娠させたという負い目がある彼は、今の会社にいる以上私を切ることができない。

別に、私の事を愛してはいるが盲目的ではない父親が、そんなことで会社の関係を悪化させることはないのだが、周囲はそうは受け取らないらしい。

特に彼の上司は私の扱いには慎重だ。

それなのに能天気な彼は社内の女性に手を出しては、秘密裏に処理されているらしい。

きっと安易な彼は今回も手近なところで済ませているのだろう。

そのうちこの熱病も治まるだろう。彼女側の退社か出向という形によって。


「どうした?」

「ううん、なんでもない」


洗濯機の前で固まったままの私に声をかける。

日常に戻る。

貞淑な妻であり何も気が付かないでいる間抜な配偶者に。




 そんな危うい均衡で保たれていた日常も、彼の恋人の登場という非日常によりバランスが取れなくなっていく。


「彼と別れてください」


どこかで聞いたような安易なセリフを吐く彼女はまだ二十代前半だろう。

幼さを残したその顔は、まっすぐに私を見据えていて、そのひたむきさに視線をそらしたくなる。


「彼がそう言えっていったの?」


彼が責任をとるような言質を与えるわけはないのだが、のんきに紅茶を注ぎながら質問する。


「違います。でも彼はいつも言っています、家にいると疲れるって」


昨日も遅くまで好き勝手にゲームなんかをして寛いでいたと思ったけど、とは声を出さずに呟く。


「それで?」

「彼はもうあなたのことは愛していません」

「そうね、でも、あなたのことも愛してないわよ」


真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込む。

私の予想外の反応に多少の揺らぎはあったものの、それでもすぐに自信を取り戻す。その若さ故なのか、強さを少しだけ羨ましいと思う。


「私は愛されています!」

「そう、自信がおありになるのね。でも所詮、浮気は浮気。ただそれだけよ」


ダージリンの匂いが充満する。一つだけ角砂糖を入れてかき混ぜる。


「それとも、社会的制裁を受けてまであの人と添い遂げるつもりなのかしら」


取り乱さない私に苛立ちを募らせているのか、唇を噛み締める。


「そうやって、彼を縛りつけてるんですね!!カワイソウだと思わないんですか?政略結婚のくせに!!!」


私を攻撃する絶好のポイントだとでも思っていたのだろう、勝ち誇った顔をして言い募る。


「別に縛るつもりはないわよ、現にあなたのことも黙認しているし」

「だったら、別れてください、今すぐ!!」

「ごめんなさいね、それは出来ない相談だわ」


彼と別れてしまえば、あの子のことがなかったことになってしまう。たいして思い入れのない彼は、私の姿がなくなればあっさりとそのことを忘れ、次へと行ってしまうだろう。もしかしたら次の女性と家庭を築いてしまうかもしれない。


そんなこと、許されるはずはない。


俄かに険しくなったであろう表情を和らげ、紅茶の香りをで気持ちを落ち着かせる。


「私、子どもがいるんです」


カシャリとカップがテーブルに打ち付けられる音がする。お気に入りのカップは割れ、中の液体がテーブルへと流れ出す。


「子ども?」


まだ外見からはわからないであろう彼女の腹部を凝視する。


「三ヶ月です。だから離婚してください」


勝利者宣言のように言い放つ。

強く握り締めた指先は色を失っていく。

彼とこの人の子ども。

リアリティのないはずの言葉が彼女の態度によって段々と現実味を帯びてくる。

貧血を起こしそうなぐらい血の気の失った頭で、必死に彼女の言葉を認識させようとする。


彼との子ども。



突然現れた鮮明な映像。

激しい下腹部の痛み。

次に覚えているのは病室の天井。真っ白なシーツ。心配そうに私の顔を覗き込む両親。その場にいなかった彼。



私が欲しくて欲しくて、でも手に入らなかったものを彼女が手ににするのだと、そう気がついた時には彼女に手を上げていた。

初めて感じた衝動。

これほど剥き出しの感情を味わったことがない、押さえきれない憎悪が全て彼女に注がれる。


「子どもですって」


態度を一片させた私に戸惑いながらも、お腹をかばう素振りを見せる彼女にさらに憎しみが増す。


「無事に産めるとでも思ってるの?」


色を失った声は氷の冷たさそのもので彼女を射っていく。

声には出さないまでもただ私の言葉に頷く彼女に追い討ちをかけていく。


「相当の覚悟がおありのようね」


深く呼吸をして気持ちをなんとか正気に保つ。


「容赦しませんから」


全ての感情を彼女と彼女の内に存在するであろう生命に向けていく。


 逃げるようにして我が家を出て行った彼女は放置して、彼へと電話をかける。

簡潔に用件だけを述べる。「離婚するか彼女をとるかどちらかに決めなさい」と。

こんな風に選択を迫ったのは初めてのこと。

いつもは彼の方から勝手に謝ってきていたから。

別に、謝るほどの事はしていないと思っていたけれど、それで彼の気が済むのならと、そのパフォーマンスを受け入れていた。


だけど、今回は違う。


彼女と彼は私の唯一のタブーに触れてしまったのだから。


残業という言い訳をせずに帰宅してきた彼はお決まりの行動にでる。


「ごめん、もうしないから」


幾度も聞いたその言葉も今回ばかりは私の神経を蝕んでいく。


「別に、それはかまわないわよ」


いつもとは違う私のセリフに、素面に戻った彼は顔をあげる。


「他の女といくら寝ようがかまわないって言ってるの」


正座をしたまま間抜面を晒した彼は、信じられないものを見るような目でこちらを見上げている。


「でも、あの子のことを忘れるのは許さないから」


たぶん、すでに忘却の彼方へ葬り去ったであろう出来事を指摘する。案の定思い出すのに数秒を要した彼は、ハッとしたように神妙な顔を作りだす。


「ごめん、本当にごめんなさい」


額を床へとこすりつけんばかりに土下座を繰り返す。

形だけの謝罪は私の心には何も響かない。


「それじゃあ、妊娠した彼女はどうするわけ?」

「妊娠って!!」


本当に何も聞かされていなかったのか、飛び上がって私へと詰め寄る。


「彼女が言ってたわよ、妊娠したから別れてくださいって」


声を失った彼が青ざめる。遊びは遊びと割り切った彼は、その辺の事もキチンとしていたのだろう、思い当たる節がないのかもしれない。


「わかった……、なんとか、するから」


私の両肩に乗せた彼の手に力が篭る。


「次はないから」


手を払いのける。これ以上彼と過ごすことは無理なのかもしれない。本来ならずっと以前に気が付かなくてはいけない現実に直面する。

逃げてきた現実が追いかけてくる。

夫婦としてはとっくに関係を失った二人が、形だけでもつながっていたのは生まれてこなかったあの子のためだと。

そう思い込ませていた、二人のつながりが崩れる音が聞こえる。

夢の中から現実世界に戻った私は、それでも適応するまでには時間がかかった。

あの子の死を受け止める事。

彼を愛していない事、彼に愛されていない事。

全てを受け止めるには私のキャパシティが小さすぎた。

徐々に徐々にその言葉の意味を理解して、納得するためにさらに月日がかかる。

その間も外側から見れば、普通の夫婦生活に見えたと思う。

さすがに懲りたのか、それとも隠し事が上手になっただけなのか、女の影がちらつかない彼は、まっすぐと二人の家へと帰ってくる。

その後の彼女のことは知らない、やっぱり会社の女性だった彼女はたぶんやめさせられたのだろう。上司からの謝罪の電話はあったものの、その内容はほとんど覚えていない。


穏やかな季節がただ緩やかに過ぎ去っていく。



今日何も知らないで帰ってくる彼に伝えよう。

離婚の二文字を。

あの子を忘れ去った彼にはもう未練はない。

だから、何もかも奪われたあの子のために、あなたから全てを奪ってしまおう。

幸い、離婚に足るだけの悪行は私の実家には全て筒抜けなのだから。

私という配偶者がいるというだけが取り得の彼は、その後ろ盾を失えばあっけなく失脚するだろう。

これでもうお終いだ。


思い出すことすらしなくなったあの人に、一生忘れられない傷を負わせよう。

もう二度と立ち直れないように。

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― 新着の感想 ―
ものすごく久しぶりに拝読して、やっぱり好きなお話でした。
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