幕章 『除菌消臭スプレーが幽霊に効く』噂
日々様々な霊的トラブルに巻き込まれる、郷土研究室の天草教授。しかし毎日、霊的事象の解決に動いている訳じゃない。在籍する大学教授として講義を受け持ち、大学側に研究論文を提出する義務がある。長らくパソコンと対面し、やっと一通り仕事を終えた教授は、両手を上げて背伸びした。
オカルトと郷土研究の境は曖昧だが、掘れば掘るほど面白い。奇人変人と指差される事もあるが、これで生活が成り立つのだから文句はない。
「ふぅ……」
棚から取り出した資料――紋様を施された木彫りの仮面を戻そうとする。元通りの位置に保管しようとすると、ふと独特のにおいが気になった。
古い物品特有の、時に揉まれた物質のにおい……論文を書いて疲労したからか、臭気が極度に鼻につく。流石に無頓着すぎたか……と、教授はある物を私物入れから探し出した。
『市販品の除菌消臭スプレー』だ。もはや現代人で、一度も使った事の無い人間もいないだろう。カーテンやソファーに吹きかけたり、汗ばんだシャツに応急処置したり、生乾きの洗濯物の仕上げにと、汎用性も抜群。古い品々に直接吹きかける訳にはいかないが……室内の濁った空気を変えられる。それだけで十分と思った矢先、古い止まり木にいる悪魔が生暖かい目でこちらを見ていた。
「どうしたハルファス? コレが珍しいか?」
『うんにゃ。ただまァ、その除菌消臭スプレー持ってオレサマと対峙した馬鹿がいたからよォ』
「ネット上でそこそこ耳にする噂だな……『除菌消臭スプレーが、霊的なモノを退ける』と言う話」
こんな噂があってたまるか……と思いきや、低位の雑霊ぐらいなら『祓えた』という報告があるから困る。一応は悪魔のハルファスに気を使い、外に出るように手で示したが、返ってきたのは失笑だった。
『オレには効果ねェよ。遠慮なくこのホコリっぽい室内に撒きな』
「ソロモンの悪魔ともなれば、効果は無いか」
『あー……軽くダメージ受ける奴はいるかもしれねェ。病気や腐敗を操れる奴だと効くだろうな……』
「冗談だろう? こんなので退散する悪魔がいてたまるか」
『祓えはしねェよ。ただ……不快になったりブチ切れたりするだろうから、効果がある方がむしろやべェ事になるだろうな。いっそノーダメの方が、機嫌は損ねないんじゃね?』
痛くもかゆくも無ければ、嘲笑なり余裕しゃくしゃくで威圧するだけで済むが――軽く傷をつけられたりすれば『生意気な人間め!』と怒りを買う訳か。一応気を使いつつ、室内に除菌スプレーを噴霧しながら話を続ける。
「羽虫が飛んでいるだけなら不愉快に感じるだけで済むが……ソイツが蚊で、血を吸われたら腹も立つな。私も」
『まさにそんな感じだ。そして本気出されたら……その程度の用意しかない人間は潰される』
「だか効果はあるようだな? 大物相手は無謀だが……雑魚の霊体ぐらいなら追っ払えそうだ」
『現代は便利だな! 除霊道具も市販されてやがるぜェ!』
教授は苦々しく目を細めた。作った側が想定していない効果である。一通り室内に噴霧を終えた所で、改めて教授はスプレーを見つめた。
「ふぅむ……しかし気になるな」
『何がだァ?』
「どういう原理で『霊体を撃退しているのか?』とな。まさか工業製品一つ一つに、聖なる祈りを込めている訳でもあるまい」
教授としての知識欲が、この噂と正体について興味を持たせた。火の無い所に煙は立たない。一見何の関連性も無さそうな『除菌消臭スプレー』と『お祓い』だが、そこにどのような道理があるのだろうか? ハルファスに目線で問うが、すぐに首を振った。
『いやそれをオレに聞く? 別に詳しいワケじゃねェぞ』
「分からないなら分からないでいいさ。適当な暇つぶしだよ」
『信じるか信じないかは、あなた次第! って奴だな』
根拠が曖昧な噂だが、なんとなしに効力はある。知識欲と想像力に身を委ね、思うがままに仮説の骨組みを立てていく。
「聖なる祈りや祝福、儀礼が無いのは明らか。そうしたモノがあるなら『○○工場の除菌消臭スプレーが効く』って噂になる」
『そこに前職シスターか、敬虔な信仰者が居て無意識に祝福している……って話じゃなさそうだよな? もしこの前提なら効果もまばらになって、オレらの耳に届く前に噂が消えていそうだ。となると、素材に魔を退ける物質でもあるのかねぇ』
「……ゴリゴリの化合物で生産されているようだ」
『あっるェ?』
ハルファスは思いっきり首を傾げた。どこにもお祓いの要素が無い。所詮はデマだろうかと考えたが、こんな有様では逆に『効果が無ければ噂として流れる事すらない』状況と言えよう。唸るハルファスに対して、教授が半信半疑で口にする。
「あるとすれば……消毒効果が紐づいている。かな?」
『消毒? 消毒……あァ、なるほど、塩か』
「専門じゃないと言いつつ、早いじゃないか」
『そりゃ塩はメジャーもメジャーだからな。日本でもそうだろ?』
日本在住ならすぐに察するだろう。葬式の後に塩を撒く習慣――霊や不浄なモノを遠ざけ祓う言い伝えは、何も日本に限定された話ではないのだ。
「古来から塩は神聖視されていた。理由は単純で、塩は物質の腐敗を防ぐ効果があると知られていた。それが転じて不浄を遠ざけ、悪しきモノを祓う……そうした印象を人類が持ち始めた。聖書にも塩を神聖視する記述がある」
『菌の増殖を防ぐ、殺菌する塩と、除菌消臭スプレーの効果は……ま、カガク的にはどうか知らねぇけど、起こす結果としては似通ってる。それで『霊的な効果』まで紐づいた……のかもなァ』
清め給え。祓い給え。古今東西問わず、邪悪を遠ざけようと多くの塩が使われてきた。
積み重なった祈りが、たまたま近い効果の除菌消臭スプレーに付随した……のかもしれない。証拠と確証は存在しないので、立証しようにもできないが――
「論文にするにはちと拙いが、アイスブレイクの話題に使わせてもらうかね。郷土研究と言ってしまうと、現代に無関心な印象も持たれる」
『なんだかんだ、人間興味を持つのは現代ってワケだ』
最後に改めて、教授が除菌消臭スプレーを室内に一吹きする。
爽やかに室内に吹く空気は、香料だけではない気がした。




