温泉に浸かってると色んな物語が浮かんでくるよねっていう話
某年、夏。
大学一年生だった俺は、遊びに来た親父と一緒に、新潟県の五頭温泉郷へと赴いた。
3つの温泉と複数の小さな温泉宿で形成されたその温泉郷は、派手さは無いものの、旅人の心を和ませる静かな空気が漂っていた。
県道では高く伸びた広葉樹の葉が、青空に色紙を散らしたかの様に、夏の白い光を受けて色濃く浮き上がる。
今夜の宿である小さな温泉宿のロビーからは、甘酸っぱい夏を濃縮したような、綺麗に整備された中庭を眺める事が出来た。
客室に荷物を放り投げると、広縁で寛ぐ親父を尻目に早速温泉へと向かう。
昼間から入る温泉もまた風流だ。俺は期待に胸が高鳴る。
掛け湯を済ませ、滑る床に注意しながら小走りで露天風呂へと向かう。
こんな時間から温泉に入る者は少ないらしく、完全に貸切状態だった。
重たいドアを開けると、涼しい空気が身体を包んだ。
茹だる様な暑さに感じた夏の空気も、温泉が生み出す蒸気と熱には敵わず、尻尾を巻いて逃げ出していく。その体感の変化が面白くて、俺は露天風呂の縁に立つと、大きく伸びをした。
そして片足からゆっくりと、温泉に身体を沈めていく。
う゛あ゛あ゛ぁ
自然と濁った声が漏れる。
肩まで浸かると、石造りの縁を枕にして、俺は辺りを見渡した。建屋を背にし、視界の先は生い茂る樹木で埋め尽くされる。
厚く広げた濃緑の葉の重みに耐えきれず、しなる枝の一つ一つから、生命に満ちた夏の雫がこぼれ落ちるようだ。
繁る葉の隙間から傾き始めた陽の光が抜けていく。グラデーションで彩られた緑の夜空に、幾つもの星を散らすように。
ふと、物語が浮かんだ。
それはちょっとした単語や、セリフの欠片や、切り取られたワンシーンだったが、温泉の熱で溶け出した俺の脳みそは、宙に浮かぶような酩酊状態のまま、その物語を追い始める。
夏。
力強く、眩しく、繊細で、切ない夏。
久しぶりに、何か書けそうな気がした。
幼い頃から、下手くそな絵や稚拙な文章で形作ろうとした幾つもの物語が、俺の中で再び産声を上げている。
心地よいお湯と、夏の魔法にのぼせながら、俺は必死にその物語を追い掛けた。
◯
あれから、かなりの年月が流れた。
アパートのさして広く無い湯に浸かりながら、俺はあの頃を思い出す。
あの日書き始めた『お話を書く俺』という物語の続きを、俺は今も書き続けている。
終わりはまだ見えない。
この時書いたのが拙著『このバス人生経由』『神社での七日間』です。これから紆余曲折ありましたが、今も元気に書いています。
そして巧妙な『新潟県五頭温泉郷』のステマ。当時の記憶を思い出しながら書いてるので、細部の違いはご了承下さい。