赤い嵐
魔剤を口に含んだ瞬間、蓮がわずかに持っていた異世界への疑念は確信に変わった。
明確に自身が興奮しているのが肌で感じられ、鏡を見なくても自分の目が血走っているのが分かった。
まるで、翼が生えたかのような解放感があった。
あるいは、その身に獣を宿したかのような渇望があった。
そして、ふわふわと沸き立つような、全能感があった。
きっと今、自分はひどい顔をしているだろう。
目は赤く、毛は逆立ち、口元は歪んだような笑みを見せているだろう。
しかし、それも仕方ない。
こんなものを体験して、心躍らぬ人間はいないだろう。
────同時に、まるで走馬灯が脳裏を駆け巡ったかのように、頭が揺れた。
結局一度も味合わなかった、家族のほとんどが楽しんでいたドラッグを使えば、きっと似た感覚を得ることができるのかもしれない。
(魔剤なんて物騒な名前だ。そうであったって何も驚きゃしねェが……)
高揚と同時に、脳裏をよぎる暗い走馬灯が、蓮の行き過ぎた狂喜を鎮める。
マフィアに拾われてから半年程経った頃、蓮は初めて身内の死を経験した。
自分にこの荒んだ世を一人で生き抜く方法を叩き込んでくれた兄姉のような存在の彼らは、警察の蹂躙により鏖殺された。
挙げ句に、その死体は多くの人々によりさらされ、石を投げられた。
今思えば、マフィアなんて反社会的な存在が行き着く先は、そこしか無かった。
いずれ自分にもその番がやってくる。
蓮はそう肝に銘じたと同時に、ある種の怒りがあった。
兄姉への同情ではない。
ただ、自分たちが社会から堕ちた理由は、決して自業自得の怠惰ではなかった。
誰も救ってくれないから、群れて、奪って、やりくりしていくしかなかった。
そのまま野垂れ死んでくれれば、きっと多くの人が喜んだかもしれないが。
彼らは果たして、自分たちのことを、本気で人間と思っていないんじゃないか?
自分たちとは住む世界の違う多数は、本気でこの結末を、兄姉の愚かな生き様の妥当なピリオドと思っているのではないだろうか?
兄姉の無惨な死体からは、そんなメッセージを感じた。
そして、蓮は静かな怒りを覚えた。
自らの立ち位置ばかり棚に上げ、不幸な人々を蔑む腐った精神。
その精神が作り出す、無辜を気取る邪悪な群衆。
蓮の思考が曇る。
あのとき発露できなかった、忘れかけていた怒りが再燃する。
それが逆恨みだと罵られようと、知ったことではない。
奴らにとっては害虫以下でも、蓮にとっては自分を目にかけてくれた恩人たちだったから。
血走ったその瞳に、甘い汁を啜ろうと群がる用心棒たちが映る。
彼らは笑っている。
あのとき兄姉を嬲った、正義を気取る群衆のように。
だから……。
だから俺も、笑うのさ。
お前たちを、真似るみたいに。
酷い顔だと、思わないか───?
◆
『露払い』。
それが今、リズに与えられた役に相応しい肩書だ。
次々と自分たちを襲う用心棒たち。
そのほとんどを、蓮の握る警棒が、唸りをあげて薙ぎ払っていく。
その中のほんの一部、『取りこぼし』の、重心を崩し、突き撥ねる。
リズは、蓮から自分の師匠とは比較にならない頼りがいと。
───背中を預けていることが『誤り』であると錯覚するほどの凶暴さを、肌で感じていた。
「こいつァすげェ!!神様にでもなったみてェだ!!」
蓮が吠える。
目玉がひっくり返るほど見開いた鋭い眼球をぎょろぎょろと動かす。
広がった視野で襲い来る用心棒たちを捉え、また一人、また一人。
時々一気に複数人を蹂躙する。
用心棒が落とした警棒を拾い上げ我が物顔で振るい、払い、突き、穿ち、投げ飛ばす。
小さな嵐が群衆を吹き飛ばすが如く、その尽くを打ち払い進撃する。
(バニラの魔剤の質が良かった───?いや、仮にそうだとしても、この強さ、説明がつかない……!)
「ば、バケモンだぁ!!」
「聞いてねえぞ、こんなのがいるなんて!!」
『警棒を振り回し、人を見下すだけでいい生活ができる』。
エルド家に仕える用心棒の心持ちなど、その程度だった。
それが浮き彫りになっていく。
敵にも、主にも背を向け、蜘蛛の子を散らすように離れていく男たち。
それに対して、蓮は吠える。
咆哮と呼んで差し支えない残響と共に、手にしていた身の丈ほどの警棒を投げ飛ばす。
それは投槍のように、逃げていく男たちの行く先に突き刺さる。
ありえない速度で突き立てられた警棒は、あたりの岩盤を衝撃波と共に抉り、同時に逃げ腰の男たちを吹き飛ばす。
雷が落ちたような轟音が鳴り響いた後、静寂が訪れる。
「……弱い者いじめで強くなった気になって、いい思いして日銭稼いで、無理と思ったら即退散……そンで、俺の知らねェ場所で同じことまた繰り返すンだろ?」
衝撃が生んだしじまの中で、星と月に照らされた用心棒たちが蓮に注目する。
獣のような蓮の目が、まぶたの奥から一層強い稲妻を放つ。
「なんだ、テメェらは。何のために生きてンだ。何がしてェんだ?それでもお前ら人間か?」
怒りとも、悲しみとも言えない、暗い色をした感情が滲んだ声だった。
味方であるはずにも関わらず、リズもその感情の『重さ』に身を震わせる。
「見えねェもンばっかだ、この世界は……」
一人敵陣の中心に立つ蓮が、寂しい表情でうなだれた。
あまりに唐突に生まれた、『無防備』。
今しかないとばかりに、フリットの用心棒たちが戦意を取り戻す。
「蓮ッ!!」
「なぁ、そうだろ、『先生』」
刹那、リズの声に呼応するように、赤い嵐は復活する。
勢いを取り戻した獣は、やがて全てを吹き飛ばす。
敵と呼べるものすべてが戦意を喪失するまで、時間はかからなかった。
◆
フリットは恐怖していた。
思えば、森から逃げ帰り、父に泣きつき、用心棒をかき集めていたときから、フリットは何かを恐れていた。
蓮を恐れていたといえば、間違いではない。
しかし、その強さに恐れたのではない。
いかにあの男が強かろうとも、ただの村娘に命を懸ける理由にはならないはずだ。
しかし、あの問答に嘘偽りがないのならば。
あの毒々しいほどに赤い髪の男は、『そんな程度の恩』で命を懸けたことになる。
恐ろしい。
理解できないから、恐ろしい。
一体何なんだ。
その疑問は、その男に、かき集めた用心棒が一人残らずなぎ倒された今も、わからないままだ。
「そ、そ、それ以上近づくな!!父上に逆らうつもりか!?」
土煙のあがる戦場の中心。
フリットは自分の馬の近くで蓮に剣を向け、狼狽していた。
蓮は脇目も振らず一歩一歩、フリットに向かって歩いて行く。
リズは両拳を強く握り、 自分の鼓動を確かめるように不安げに胸元へ寄せた。
あたりの用心棒は一人残らず戦闘不能に陥り、残すところはフリットのみとなった。
戦いの高揚と緊張が冷めないまま、リズは蓮とフリットの決着を、その目に焼つけんと固唾をのんだ。
「また親父か。お前はそれしかねェな、ボンボン」
蓮は背後の倒れた用心棒たちに目をやり、さらに続ける。
「馬鹿見てェな頭数揃えやがって。マジで戦争でもやる気だったのかよ?」
「何……!?」
「バニラや村の連中が、本当にテメェの目的だったのかって聞いてンだよ」
蓮の問いに、リズは眉を顰めた。
この状況でその問に何の意味があるのか。
勝ち誇って挑発しているような様子ではない。
たった一夜の短い付き合いのリズでも、今の蓮が、不自然なくらいフリットに対して真摯であることには、なんとなく気づいていた。
夜風が土煙を晴らす。
その中で、蓮は静かにフリットの回答を待った。
そして、怒りか恐れか、身を震わせながら、フリットは大きく口を開いた。
「ッ……そうさ!そうだ!!私は……僕は!!貴様ッ…お前がムカつくんだ!!父上を侮辱し、僕を蹴り飛ばしたお前が!!だから来た!!お前にその行いを後悔させるために!!」
フリットのその煮えくり返るような、まとまってもいない返事を聞いて、たしかに蓮は笑った。
あざ笑うでもなく、満足げに微笑んだのだ。
リズから見れば、ただただ不思議な反応だった。
「……最初からそう言えよ。森でやりあった時から思ってたけど、テメェ、そっちが『素』だろ」
───蓮は、バニラを人質に取らない時点で、自分の世界で幾度と争ってきた『卑怯者』とフリットに明確な差があると感じていた。
少なくとも、幾度となくフリットが口に出した『父上』とは違うだろうと、蓮は考える。
しかし───。
それは今、ここで、バニラや村を脅かしたことを許す理由にはならない。
蓮の表情が緩んだのはほんの一瞬。
眉間にシワが寄り、その顔に獣のような凶暴さが宿る。
「タイマンだろ。じゃなきゃ意味ねぇよ。ゴロツキ雇って俺を殺しても、ちっとも満たされねえよ。ましてや、父親のせい───いや、父親のためにって言い続けるンなら、なおさらな。赤星蓮。俺の名前だ、覚えとけ。今日負けたとしても、一生俺の背中刺そうとすりゃ、いつかは届くかもしれないぜ」
「…………」
フリットは沈黙する。
喚かず、囀らず、蓮を睨む。
──戦意に圧され、止まり木から鳥が羽ばたく音が聞こえる。
「……フリット。僕の名は、フリット・エルド」
そう呟くや否や、フリットの剣が煌々と光を灯す。
「……でもな。でもなフリット。心持ちが変わったって、一朝一夕じゃ、現実は何も変わらないンだよ」
蓮は自嘲する。
何を──何を、御高説を垂れていやがる。
それを一番わかっているのに、それに縋ったのは、他の誰でもない、自分じゃないか。
そんなだから、俺は今、こんな得体の知れない世界にいるんじゃないか。
そんなだから、俺は───。
「……見せてやるよ。これが毎日、せっせこ自分の意志で生きてきた、バニラの───人間の『力』だ」
蓮が低く、警棒を構える。
体中にほとばしる魔剤の力を感じる。
二人の戦意に当てられ、近くにいるだけのリズが思わず息を呑む。
「行くぞ」
「来いよ、フリット。プライドなんて捨てて、かかってこい」
その赤星の言葉に応えるように、フリットの剣に宿る炎が激しさを増す。
黄金色の炎は、フリットの剣を飲み込み、大太刀を形作った。
「はあぁッ!!!」
万感の思いを込めて、フリットが吠え、剣を素早く二度振るう。
黄金の炎が刃から二つ放たれる。
昼間のものよりも大きく、煌めいた炎が、唸りを上げて蓮に襲いかかる。
ドン!!と、大きな音を立てて、蓮のすぐ隣の地面に炎が着弾する。
地面を抉り、大きな衝撃波が蓮を襲う。
こんな威力の魔法が何度も飛んでくるのであれば、さすがの蓮も持つはずがない。
襲い来る石礫に体を穿たれながらも、蓮は走りだす。
もう一つの刃状の炎が迫る。
首筋にぞわりと悪寒が走る。
それとほぼ同時に、蓮は警棒を突き出し、炎の刃を受け流そうとする。
しかし、炎に触れた瞬間、警棒はあっさりと折れ、同時に炎が炸裂する。
「ッ!!」
巨大な爆炎が蓮を包み込む。
「蓮っ!!」
思わずリズが叫ぶ。
炎の塊はその場で大きく広がり、あたりの雑草を鏖殺する。
フリットは、その中心を見つめ───目を見開く。
爆炎を背に、人影が宙空から、こちらに向かって迫ってくる。
雄々しき表情に切り裂いたような三白眼、毒々しいほどに赤い髪。
「この力は、誰に言われたわけでもねえ、自分の意志で作った本物の『力』だ」
赤い少年はそうつぶやく。
目には光が迸り、右足には星空のように妖しい、真紅の閃きがあった。
「誰かに言われてようやく前を向けるようなテメェに、破れるわけがねェだろうが!!」
怒号と共に。
赤い少年は、その右足で、フリットを地に伏せた。
◆
蓮の一撃は、雷鳴のごとき轟音と、赤黒い衝撃を撒き散らした。
それを脳天に受けて、なおもフリットが、かろうじて意識を手放さずに済んだのは、『魔法使い』が、魔力で自身を守ることができるからだった。
朦朧とする意識の中で、フリットは仰向けになり、星空を霞んだ瞳で見つめていた。
しかし、その天体観測を邪魔するように、蓮がフリットをのぞき込んだ。
「……この村は魔剤を手にした。こんな烏合の衆じゃ、俺がいなくなったって、あの村相手に偉そうな口は聞けねェぞ」
乱暴に、けれど諭すように、蓮はフリットに語る。
「それでもテメェが、親父に縋ることでしか生きられねえ人形なら……」
フリットの意識がすっきりと冴える。
意識を手放している場合ではない。
蓮の表情を見て、本能が、そう叫んだからだ。
「その時はマジに俺が殺してやるよ」
そう告げる蓮は、地獄からの使者のような、冷徹なほほえみをたたえていた。




