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窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。セミの鳴き声と相まって、夏のうだるような暑さを再認識させられ、伊織ははあ、とため息をついた。
そんな伊織の様子を意に介さず、さくらはずい、と身を乗り出して野崎に問いかける。
「では、野崎さんは、まだ翼さんをCreditすると決めたわけではないのですよね? それを考えるために、相談部にいらしてくださったんですよね?」
「ああ、その通りだ」
さくらは、ぱん!と手を叩いた。
「来てくださって、本当によかったです! Creditは、違法ではありませんが、特に親しい人との間ですと、後悔のもとになりかねませんから……一緒にどうしたらいいか、考えましょう!」
「ああ、そう言ってくれると助かる」
伊織はちらりと時計を見た。今は5時16分。6時までには絶対に帰ろう、と心に決める。それだけ付き合えば、さくらも文句は言わないだろう。
「ええと、今回の問題は、親友の翼さんを、妹さんの入院費のためにCreditするかどうかということですよね。妹さんのことは本当にお気の毒に思います。お金が必要というのも、現実なのでしょう。ただ、私としては、Creditはしない方が良いと思います」
「それはなぜだ?」
「野崎さんが、翼さんとの関係をかけがえのないものとして考えていらっしゃるからです。先ほど、野崎さんは翼さんのことを家族同然だとおっしゃっていましたよね。それはそうでしょう、16年間も一緒に過ごされてきたのですから。だからこそ、一度Creditをしてしまったら、もう二度とその関係には戻れなくなると思うんです」
「いや、それはそうかもしれないが……だが、Creditしても記憶が消えるわけじゃない。それに、俺は翼のことを信じているし、翼のこともよくわかっている。だから、時間はかかるかもしれないが、たとえCreditしたとしても、いつかは元の関係に戻れると信じている」
それに、と続ける。
「それに、現実的な問題として、Credit以外に金を稼ぐ手段があるか? バイトや募金なんかじゃ、とてもじゃないが間に合わない」
「それは、そうかもしれませんが……」
さくらは言いよどむ。それでもなんとか言葉を続ける。
「例えば、いくつかの方法を組み合わせるのはどうでしょう? バイト、募金、クラウドファンディングなんかもあります。それでいくらか集めたうえで、もう少し関係の薄い方をCreditするというのは……」
「妹には時間がないんだ!」
突然声を荒げる野崎に、さくらがびくっとなる。
「そりゃ、できるものならそうしたいさ。でも、バイトや募金にどれほどの時間がかかる? もう少し関係の薄い人って、誰だ? 一度Creditして、それでも額が足りなかったら? そうこうしているうちに、妹が死んだらって思うと……」
息を詰まらせた野崎に、さくらは何も言えなくなってしまった。
「それを言ったら、おしまいだろ」
そんな雰囲気をぶち壊すかのように、伊織がそっけなく声をかけた。
「なんだと?」
「あんたは相談に来たんだろ。そいつは、いくつか他の解決策を示しただけだ。頭ごなしに否定するってんなら、さっき言った通り、さっさとその翼とやらをCreditしたらいい」
「いや、だから……」
ああでも、と伊織は続ける。
「あんたがさっき言っていた、元の関係に戻れるっていうのは、甘い希望すぎるから捨てた方がいい」
「なに? お前、俺たちの絆を疑ってるってのか」
伊織は、はあ、とため息をついた。5時42分。さっさと終わらせよう。
「絆云々の話じゃないんだよ。Creditってのは、そんな甘いもんじゃない。Creditってのはな、相手からの信用がゼロになるんだ。記憶はある、思い出もある、ただただ、そいつに対して一切の信用が失われるんだ」
「そんなことはわかっている」
「いいや、わかっていないね。あんたが翼をCreditしたとしよう。その瞬間、翼の中で、あんたのことは『知ってはいるけれど一切信用ができない男』に成り下がるんだ。当然、翼は混乱するだろう。昨日まで、心から信じていたことは覚えている。一緒に過ごした記憶も残っている。ただただ、突然、あんたのことを信用できなくなるんだ」
野崎はぐっと押し黙る。伊織は続ける。
「あんたはさっき、自分から翼への信用がなくなるわけじゃないから、関係は修復可能だと言ったな? 考えてもみろ。自分が一切信用できない相手から、一方的に信用を寄せられて、今までの関係に戻ろうと言われるんだ。そんなのはただのストーカーだ。恐怖以外の何物でもない。それに、そういう状況に陥った時点で、翼はあんたがCreditしたんだと気付く。そんな相手と、今までと同じ関係を築こうと思うか? ありえないだろ」
ここまで言って、伊織は言葉を切った。
「だが勘違いしないでくれ。俺はそいつと違って、別にCreditに反対してるわけじゃない」
「そうなのか?」
意外そうに聞いてきた野崎に、ああ、と伊織は返す。
「金が必要なのはわかるよ。さっきそいつが色々代替案を出したが、たしかに時間がかかるというのは一理ある。現実的に考えて、Creditするのが一番早くて確実な方法だろう」
それに、と続ける。
「あんたがCreditをしようと考えたってことは、もしかしたら相手もいつあんたをCreditするかわからないってことだろ。相手に先にCreditされるくらいなら、あんたからCreditしちまった方が、確実に金に換えられるだろ」
「翼は……翼は俺をCreditなんてしない」
伊織は、ははっと乾いた笑い声をあげる。
「翼だって、きっとあんたが自分をCreditするとは夢にも思っていないだろうさ。だが、あんたはそれを考えている。人の心なんて、そんなもんだよ」
5時52分。そろそろいい頃合いだろう。
「ま、俺からはそんなところかな。あとはあんたが自分で考えて決めるんだな」
「伊織さん……」
さっさと切り上げようとする伊織を、さくらが複雑そうな目で見る。
「ええと、あの、野崎さん。色々と言ってしまってごめんなさい。ただCreditというのは、本当に取り返しがつかなくて、さっき伊織さんがおっしゃった通り、関係を修復することはとても難しいんです。最終的に何を選ぶのかは野崎さん自身ですし、もし翼さんをCreditする以外の道を選ばれるのでしたら、私たちもできる範囲でサポートします」
私たち、じゃなくて、私な。
伊織は心の中でつぶやく。
「いや……俺の方こそ、大きな声を出してすまなかった。Creditしたらどうなるか、具体的にイメージが湧いたよ。家に帰ってから考えてみる。ありがとう」
野崎はそう言うと、かばんを持って、教室をあとにした。そのあとに続こうとする伊織だったが、待ってください、とさくらに呼び止められる。
「伊織さん、伊織さんは、本当に野崎さんがCreditした方がいいと思っているんですか?
「いいとも悪いとも思っていない。俺はただ、野崎にCreditしたらどうなるか、正しいイメージを教えただけだ」
「それはそうかもしれませんが……」
何か言いたげなさくらに、伊織はため息をつく。
「それに、俺たちが何を言っても無駄だと思うぞ」
「無駄?」
「ああ」
伊織は苛立たしそうに吐き捨てた。だから、Credit絡みの話は嫌なんだ。
「賭けてもいい。ーーあいつは必ず、翼をCreditする」
◇
後日。相変わらずうだるような暑さの中、伊織は珍しく、図書室に向かっていた。「人となるべく関わらない」がポリシーの伊織だが、この日は違った。探し人を求め、図書室の中を見渡す。
探し人は、すぐに見つかった。
「野崎」
声をかけると、野崎はその大柄な体をのそりと動かし、顔をあげた。
「ああ、お前、たしか相談部の」
そういえば名乗っていなかったな、と伊織は思ったが、別に野崎と今後長い付き合いをするわけでもない。伊織はつかつかと近寄って、声をかけた。放課後、部活動の真っただ中、他に生徒は誰もいない。ここなら、声の大きさを気にすることなく話せるだろう。
「あのあと、結局Creditはしたのか」
「ああ、そうだな、すまん。きちんと報告すべきだったな」
そう言って姿勢を正すと、野崎はため息をついた。
「……結局、翼をCreditしたよ。あっさりしたもんでな。晩飯を一緒に食って、眠っているうちに「Credit」っつって、それで終わりだ。結果は……まあ、お前が想像した通りだったな」
ということは、翼とはも元の関係には戻れなさそうということだろう。
「でも俺、後悔はしていないんだ。事前に相談部に相談しに行ったおかげで、心の準備できていたし…‥妹の入院費も、当面、どうにかなりそうだから、だから、これでいいんだ」
野崎は、ありがとな、と言って笑った。
その様子を、伊織は冷ややかな目で見ていた。そして、口を開いた。
「違うだろ?」
しんとした静寂が、図書室を包み込む。相変わらず、セミの鳴き声と運動部の掛け声だけが、やけに耳につく。
「違うだろ? あんた、最初っから、妹を助けるんじゃなくて、翼をCreditすることが目的なんだろ?」
野崎は、激昂するでもなく、ただ静かに伊織の顔を見つめている。じりじりとした夏の暑さと、カビっぽいエアコンの匂いの中、伊織は苛立ちを隠せぬまま、淡々と話を進める。
「違和感に最初に気づいたのは、鈴鹿が提案をしたときだ。あのときあいつは、翼をCreditしなくても、他の人をCreditすればいいんじゃないかって言った。俺もそう思った。あんたの話が本当で、あんたが本当に、翼を家族同然に思っているなら、その提案を考えてみてもいいはずなんだ」
だが、野崎はその提案を頭ごなしに否定した。
「そこで俺は変だと思った。あんたはCreditがいくらになるかもわからないような、ど素人だ。たしかに他のやつをCreditするには時間がかかる。だが、ほんの少しの時間も割けないほどなのか? 白血病の治療と言ったって、今すぐに大金が必要になるわけじゃない。検討の余地くらいはあるんじゃないかと思った」
「……お前に、治療のことなんかわからないだろう」
絞り出すように野崎が返すが、伊織は、いいやと首を振った。
「たしかに俺は白血病治療の専門家じゃない。それでも、まともな病院なら、即日で数千万の大金を振り込めとはきっと言わない。曲がりなりにも、ここは日本だからな」
それに、と伊織は続ける。
「それに、もっと気にかかることがあった。あんた、団地の近所づきあいは家族みたいなもんだって言ってたよな。だとしたら、あんたが長年の親友をCreditして、その関係にひびは入らないのか? 近所で噂されたりしないのか? そこを考えていったら、逆なんだと気付いた」
「逆?」
「ああ。あんたは、もともと、翼をCreditしたかったんだ。だが、環境がそれを許してくれない。情報が筒抜けの環境で、週の半分は夕飯を一緒に食べるくらい緊密な関係だ。翼と縁を切ろうにも、何の理由もなく切ったら、あんたが批判の嵐にさらされる。きっと家族からも非難されるだろうし、今の場所は居心地が悪くなる。そんなときに、妹の病気っていう格好の理由ができた。それを口実にすれば、妹のために親友を泣く泣くCreditしたっていう美談の完成って寸法だ」
伊織は言葉を止めて、野崎を見る。野崎の顔からは、何の感情も読み取れない。先日相談部の部室に来たときのことがまるで嘘かのように、その表情からは感情がすっぽり抜け落ちていた。
「ーーなんで俺が翼をCreditしたいと思うんだ」
「あんた、陸上部なんだってな。星野に聞いたよ。今考えてみれば、変なんだよ。あのとき、あの時間は、全ての部活に活動が義務付けられている時間なんだから」
野崎が相談部にやってきたのは、月曜の放課後だった。全生徒の部活加入が義務付けられているわが校では、月曜の放課後は、1週間の中で唯一、全部活が活動を義務付けられている時間帯だ。それこそ、名も知られていなかった相談部ですら、あの時間帯は活動を命じられている。
「まああんたがたまたまあの日だけサボったっていう可能性もなくはない。だが、今日は言い逃れできないだろ」
先ほどから、グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえている。先日も聞こえていたので、星野に確認を取ったところ、陸上部はほぼ毎日が活動日だそうだ。毎日人と関わるなんて、伊織にはとてもじゃないが真似できたものではないが。
「あんた、入学して早々、靭帯を切ったんだって? それで選手復帰は絶望的だって聞いた。あんたがなんで翼をCreditしたいか、そんなことは俺の知ったことじゃない。だが、翼は有名進学校に行ったとあんたは言っていた。これは完全に推測だが、きっとあんたは陸上、翼は勉学って形で、きっとプライドを保っていたんじゃないのか? だから、唯一のよりどころである陸上ができなくなって、翼と離れたくなったんじゃないのか」
これは完全に伊織の推測である。そもそも、伊織は野崎の心のうちなどこれっぽっちも興味はない。それでも今日、野崎にこの話をしたのは、腹立たしさをぶつけるためだった。
「前にも言った通り、俺はあんたがCreditしようがしまいが、どっちでもいい。そんなことはあんたが決めればいい。俺は腹立たしかったのは、あんたが俺たちを利用しようとしたことだ」
野崎は身じろぎもしない。
「あんたが相談部に来たのは、Creditするかどうかを相談するためなんかじゃない。あんたは、翼をCreditしても仕方がないっていうお墨付きがほしかったんだ。だから、鈴鹿がCreditに反対したときに動揺したんだろ? 俺がどっちでもいいって言ったときに、ほっとした顔をしたんだろ?」
それは、なんて卑怯なことだと伊織は思った。伊織は基本的に、他者に関心を持たない。だが、いいように利用されて、それがCredit絡みともなれば、黙っているわけにはいかなかった。
「俺はあんたがどうなろうが、知ったことじゃない。ただ、Creditした理由に、『相談部に相談したら背中を押してくれた』と言うのだけはやめろ。俺たちは背中を押していないし、決めたのはあんただ。責任から逃れることは、絶対に許さない」
黙って話を聞いていた野崎が、ふーっと息を吐きだした。
「まいったな……お前、相談部なんかじゃなくて、探偵部か推理同好会にでも改名した方がいいんじゃないか」
「余計なお世話だ」
頭をぽりぽりとかいて、野崎は言った。
「お前たちを利用したみたいな形になったのは悪かったと思っている。だが、俺の言い分も少しは聞いてくれよ」
伊織は時計をちらりと見る。5時3分。あと30分くらいならいいだろうと考え、伊織は野崎の方に向き直った。
ーーお前の言ったことは、だいたい合ってるよ。ただ1つだけ言っておきたいのは、俺は別に翼のことを嫌っているわけじゃないし、妹の病気のことも、入院費のことも本当だ。
ただ……本当にただ、疲れちまったんだよ。小さい頃はよかった。毎日バカみたいな遊びをして、どっちが上とかそういうのもなくて、ただただバカみたいに笑ってた。
それがどっかおかしくなっちまったのは、高校受験のときなんだろうな。俺は中学でも陸上一筋で、早々にうちの学校に推薦入学を決めていた。翼は……あいつは、運動はからきしだったが、勉強の方はすごかった。すごい勢いで毎日勉強して、うちの団地からじゃ考えられないくらいの進学校に進んだんだ。俺だって、最初は誇らしかった。俺は陸上、あいつは勉学で、それぞれ頑張ろうぜって本気で思ってたんだ。
それなのに……高校に入って、1月で靭帯をやっちまった。前みたいに走るのは無理だって医者からも言われた。はは、毎日走っていたのに、今じゃ放課後、こんなところで時間をつぶすしかないんだぜ? なんの冗談だって思うだろ?
それだけでもきつかったのに、もっときつかったのは、親父とお袋と、団地のやつらの反応だった。最初こそ心配されたが、俺が陸上ではもうやっていけないってわかると、ことあるごとに翼と比べて、お前ももっと勉強しろって、毎日毎日言われるようになった。翼は翼で、勉強を教えようかなんて言ってきて……わかってる、これは俺が八つ当たりしてるだけだって。でも、今まで対等だった翼に、あんな風に同情的にみられて、周りからは毎日翼と比べられて……もう疲れちまったんだ。
黙りこくった野崎に、伊織はそれでも冷たい言葉をかけた。
「で、あんたの気はおさまったのか」
野崎は、はは、と乾いた笑い声をあげた。
「控えめに言って、最悪の気分だよ。Creditしたあと、翼が俺になんて言ったと思う? 来るな、って吐き捨てたんだ。目が覚めて、俺を見た瞬間、『なんでお前がここにいるんだ? さっさと帰れよ』って言われた。記憶も、思い出も、あるはずなのにーー信用がなくなるっていうのは、こういうことなんだな」
「被害者面するな」
伊織はぴしゃりと言い放った。
「あんたがいくら美談に仕立てても、いくら後悔しても、あんたは加害者だ。被害者は翼の方だ。Creditがいくらになったのかは知らない。だが、心から信頼していた親友にCreditされたことは、一生翼の心に残るだろうよ」
野崎は押し黙った。今度こそ言葉は出ないようだった。時刻は5時28分。そろそろ潮時だろう。
「あんたは、妹の入院費と、翼との関係処理と、うまいことやったつもりなんだろうが、翼との関係は二度と元には戻らない。あんたがいくら後悔しても、願っても、元に戻ることは決してない。……そのことを、嚙みしめるんだな」
そう言い残すと、伊織は図書室をあとにした。図書室には、うつむいたままの野崎だけが取り残され、セミの鳴き声がむなしく室内に響き渡った。
◇
「伊織さん」
図書室から出ると、鈴鹿さくらが立っていた。
「立ち聞きか。趣味が悪いぞ」
「いえ、すみません……教室で伊織さんを探していたのですが、ついてきたら、たまたま聞こえてしまって」
ばつの悪そうな顔をするさくらに、伊織はため息をつく。
「まあ、どっちでもいいが……。これに懲りたら、軽々しくCreditに首をつっこまないことだな」
「待ってください!」
立ち去ろうとする伊織を呼び止めるさくらに、伊織は、まだ何かあるのかと足を止める。
「伊織さんは、どうしてそんなにCreditを嫌うのですか? 今回のことも、たしかに野崎さんは、翼さんをCreditするために私たちを利用したのかもしれません。でも、迷っていた心があったのも、本当だと思うんです」
たしかに、そうなのかもしれない。だが、だったらどうした。
「俺は、基本的に他人と関わる気はないし、信じていない。その中でも、特にCreditをしようとする奴らが、反吐が出るほど大嫌いなだけだ」
「ですから、それはどうして」
しつこく食い下がるさくらに、伊織は苛立たしげに舌打ちをする。
「ーーいいか、面白い話を1つしてやる。そいつは、母子家庭で育った。母1人、子1人で、貧しいながらも、母親から愛情を注がれて、それなりに幸せに暮らしていた。
突然だった。そいつが小学生になって、来月には運動会があるね、なんて他愛ない会話をした、その翌日だった。突然、本当に突然、朝目が覚めたら、そいつは母親に対して、恐怖しか感じなくなっていたんだ。
ーーそいつの母親は、借金があった。パートを詰め込んで、ぎりぎりのぎりぎりまで耐えようとしたが、限界だった。母親は、幼い息子をCreditしたんだ」
さくらが息を飲んだ。それに構わず、伊織は続ける。
「母子家庭で、信じられる人が母親しかいない中で、その唯一のよりどころをCreditされたそいつが、どうなったか、あんたに想像つくか? 控えめに言って、地獄だよ。その人が母親だってことは認識できる。その人と一緒にご飯を食べた記憶も、料理した記憶も、一緒に眠った記憶もある。ただただ、信じられなくなるんだ。もしかしたら、殺されるかもしれない。殴られるかもしれない。いついなくなるかもわからない。ただただ恐怖でーー結局、そいつの母親は、罪悪感に耐え切れずに自殺したよ」
「それはーーそれは、伊織さんご自身のお話ですか?」
尋ねるさくらに、軽く肩をすくめる。
「まあそういう経緯で、少年は人を信じられなくなった。いつCreditされるかもわからない世の中だ。信じる方が、バカだろ?」
さくらはしばらく、何も言わなかった。とうに5時30分は過ぎている。そろそろ帰るか、と足を動かすと、さくらが声をあげた。
「それでもーーそれでも。人は信じて、信じられたい存在なんじゃないでしょうか」
「……」
「伊織さんが過去にどれだけ辛い経験をされたのか、きっと私には想像もつかないことでしょう。でも私は、伊織さんのことを信じたいと思いますし、信じてほしいです」
「……勝手なことを言うな」
「はい、勝手です。きっと、昨日今日会ったばかりの相手に、心を開ける人なんていません。ちょっとずつ、伊織さんに信じてもらえるように、頑張ります!」
一方的な宣言は、伊織の心には響かない。伊織は、何も答えることなく、そのまま校舎をあとにした。