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青い鳥は一度した約束をあきらめない

作者: 時七紙

「好きなの?」

 と問いかける声が耳に飛び込んで来て、

「別に」

 と口を付いて出ていた。こういう現象を条件反射と呼ぶのか、なんていうつまらないことを考えた横井優花は間もなく自分が置かれた状況を思い出した。一通り恥じてから顔を上げる。まるで思春期真っ盛りの女子中学生だ。

 幸いなことに、昨年の春に新卒で入社した会社は昼休憩という決まった時間がない。常に動き続けている事務所内はいつも騒がしかった。声の方に振り返ると、席の後ろで目を丸くして立っていたのは同期入社の濱田ひかるだった。社内共有サイトに載せてあるスケジュールで休憩時間であることを確認してきたのだろう。ひかるの手にはコンビニで買ってきたらしいサンドイッチと野菜ジュースがあった。やってしまった。

「ごめん。よく聞いてなかったんだけど……好きというのは」

「どれもなにも」

 ひかるは、何でもないように優花の長い指によっていまにも握り潰されそうに掴まれていた雑誌を指した。

「バレーボール好きなの? 前も休憩中に読んでたからさ。隣の席空いてる?座っても平気?」

「あ、うん、今日は外出だから大丈夫」

 表紙は日本代表女子バレーボールのエースの選手だ。いまもまだ大学在学中だという彼女はその若さとチャーミングな笑顔から専門誌表紙に限らず、大手スポーツドリンクのテレビCMにも出演する人気ぶりだった。競技に詳しくない人でもお茶の間の人が知っている顔だ。

「昔やってたの? 私はね、中高バドミントンで大学はサッカーのマネージャー」

「私は中学まで、かな」

「横井ちゃん身長高いし、しっかり者だからから部長とかになってバリバリにやってたのかと。あれ?お昼もう食べたあと?」

「いや、今から」

「やった。一緒に食べよ」

 横に座ったひかるはそう言いつつ既に食べ始めている。優花はほっと安心して家から持ってきていた弁当を足元のバッグから取り出した。

 予想のとおり当時も今と変わらない長身を買われて小学校低学年の頃からバリバリにやっていたけれど中学三年の重要な試合中に膝の怪我してからは不貞腐れて高校からは帰宅部だった。

 そんな事を言い出したら彼女はどんな顔をするだろう。説明する必要なんてない、と甘やかして弁当箱を開ける。自分で作った白米と卵焼きと冷凍のハンバーグ、あとは申し訳なさそうに隙間を埋めているブロッコリーの欠片が入っている普通のお弁当だ。

 ひかるは明るくて話しやすい良い同僚だけれど友人ではない。適度な距離感が心地よく友人以上に一緒にいて楽なこともある。実際、話題は自然に仕事の話へ逸れて行ってくれて安心した。

 毎月バレーボール雑誌を買うほど好きなのかだとか、何の記事を探しているだとか、さっきまで誰のインタビューを読んでいただとか、あの選手は誰だとか。こちらから説明する必要も相手から心の内を探られることもない。

 普通の会社員の平穏な毎日。

 その言葉を噛み締めて痛んだのは古傷を抱えている右膝ではない。そこはもうずっと以前から治っている。


***


 家電メーカー会社の繁忙期は、所属部署にもよるが、なんと言っても量販店がセールを行う9月と3月の前に多忙を極める部門が多い。特に優花が配置された流通関連部門はその傾向が強く、普段は定時退社が出来る職場でも繁忙期は帰りが遅くなることは多い。

 9月上旬のその日も優花が一人住まいの自宅に帰ってきたのは夜9時を回る頃だった。一度座ったらもう寝るまで起き上がれまい、と今にも飛び込みたいベッドを横目に浴室に直行する。くつろげるTシャツになってからようやく夕飯だ。昨日作ったカレーの残りを温める電子レンジの音を聞きながら、優花は「満を持して」という気持ちでバッグから雑誌を取り上げる。すっかり皺くちゃにしてしまった表紙の笑顔が可愛い女子選手を手のひらでまっすぐに撫で伸ばした。別に毎月買っているわけではない、と言いたいところだが、ベッド脇の本棚には今年に入ってからは全ての号が揃ってしまっている。

 原因は、今年の男子バレーボール実業団リーグで首位争いをしているのが大手飲料メーカーであり、そこに「知人」が選手として所属しているからに他ならない。

 高崎透馬。

 知っている人、と書くのだから知人には違いない。友人と呼ぶほど馴れ合いもないが昔から親しいが、きょうだいと呼ぶには血の繋がりがない。

 多少は状態が良くなった表紙の端を指で摘む。一枚また一枚のページをめくっていくと、そのよく知っている仏頂面がボールを抱えて突っ立っている。見ようによっては立派で冷静沈着なスポーツ選手だ。

「もう少し愛想良くしてみたら?」

 と彼を揶揄したのは初めて新聞に取り上げられた時だ。高校の県大会を制して地元紙に写真付きで取材されたのだ。その新聞記事の切り抜きも、それ専用のクッキー缶にしまって本棚にしまってある。

「芸能人でもないのにそんなこと出来ない」

 その時はそう言っていた。でもカラー写真と、練習内容やプライベートまで話しているインタビュー記事は、量も内容も新聞記事の一角とは違う。

 もう似たようなものだね。そうやって今茶化したら今度は何と言うだろう。

「他より背が低いからって珍しがってるだけ」

 とまだ言うのだろうか。バレーボールを始めた小学校低学年の頃から透馬の身長は選手として小柄な部類に入って変わらない。リーグのアタッカーポジション(高さが比較的重要ではないポジションの選手以外)の平均から10センチ以上足りていない。実際に今回の記事でも低身長ゆえの苦労を尋ねられている。

「その分練習するだけです」

 読む人はみんなそんな言葉を期待して、当然のようにそう応える高崎透馬をみんな好ましく思っている。眩しいことだと思うのと同時に優花の胸には別の棘が突き刺さる。

 あの時諦めていなければ。しっかりリハビリをして、練習も続けていれば。今頃自分もどうにかなれていたのだろうか。

 優花も活躍している女子選手達と比べれば長身の方ではないが、少なくとも中学三年の時点で自分の方が将来を期待されていただろうことはきっと自惚れでは無いだろう。

 今更そんな妄想が何の意味も持たないことは、きっと誰よりも身に染みてよく分かっている。自分の道を妨げたのは怪我ではない。努力もしないでもう元のようにはプレー出来ないと諦めて折れた心だ。本当の情熱を持っていたなら高校からでも大学からでも立ち上がれたのに、それを選ばなかったのは自分だ。バレーボールを始めたばかりの頃、透馬の部屋のテレビの前でどちらが先に日本代表になれるか競争しようと交わした約束も、当たり前のように勝手に反故にした。

 恥ずかしくて、弱い自分と正面から向き合うようで、高校から寮生活になった透馬が県外へ出たのもあって自然と疎遠になっていった。顔を合わせるのは正月と盆にお互いが実家に戻っている時くらいで、前回顔を合わせたのも正月だ。調子はどうなのかと聞くと「今年良ければ選抜いけるかも」と言っていた。選抜というのは日本代表選抜のことだ。

 恐らく今期優勝すれば透馬は選ばれるだろう。

 とっくに指定した時間が終わり静かになった電子レンジを思い出し、優花は立ち上がる。タッパーの底を触ってみるとまだ少し冷たい。追加でもう二分。

 立ち上がったついでに、ようやく雑誌のページをもう一枚捲った。同期のひかるに話しかけられる時点まで読んでいた箇所だ。一問一答コーナーの終盤。好きなの?と不意に尋ねられた時に読んでいたのはここだ。


Q 結婚願望はありますか?

A 今度します



***


「好きなの?」だとか「付き合ってるの?」だとかいうやり取りは、それこそ思春期真っ盛りだった中学までに何度もした。家が近くて母同士が仲良く家族付き合いもあり、おまけに小学校内のクラブ活動にバレーボールがなく放課後通っていたジュニアチームまで同じだった。あれだけ一緒にいる男子生徒と女子生徒がいたら恰好の的になるのは、もう十分に大人になった今なら客観的に見ても当然のように思う。

 でもあの頃、特に小学校高学年以降の優花にとってみれば煩わしくて仕方なかった。弟分だと思っていたし、透馬の方もこちらを妹分かなにかだと思っていたに違いない。

 それなのにどうしてこんなに引っかかる?

「もうすぐ結婚するんだって?おめでとう。相手はバレー関係の人?」

 この三つの短い文章をメッセージで送りさえすれば解決しそうなものなのに「もうすぐ結婚」とまで打ち込んだところで指が止まる。

 唐突だろうか? 雑誌の記事読んだよ、だとか書いておくのが普通? それとも、たまに週末の実家へ帰った時に出くわす透馬のお母さんに具体的な時期など改めて聞いてからにするべきか。高崎透馬というのは、年に数回遠征先らしい体育館の外観写真を送ってくるような男だ。そんな相手に唐突も何も無いような気もする。

「不毛だ……」

「なにがフモウ?」

 振り返ると、また濱田ひかるが立っていた。今日は手にサンドイッチも野菜ジュースもない。まだ出社してから幾らも時間は経っていなかった。優花は朝から業務が全く手についていなかったことになる。

「昨日に続いて突然ごめん。今日は半分仕事の相談でさ」

「めずらしい」

 ひかるが配属されているのは広報だ。営業やマーケティングなら兎も角、流通部門との関係はほぼ無いと言って良い。しかも優花は入社2年目、平社員もいいところだ。

「まあ、座って」

「いやいやどうもどうも」

 今日も外出で空になっている隣席をすすめると、ひかるは瞬発力良く仰々しい態度でどっかりと座った。こういう明るくオープンなところが見込まれて広報のような花形部署に置かれているのだろう。早速切り出した。

「勤務時間外になるから断ってくれても大丈夫なんだけどさ、単刀直入に言うと、来週の金曜夜、仕事終わってからバレーボールの試合観戦に参加して欲しいの。会場現地の応援席で、所要時間はだいたい2時間から2時間半程度。業務優先でもし仕事の方が押したら無理しなくて大丈夫。なぜ横井ちゃんを誘うに至ったのかは……昨日の今日で察しがついてる?」

 実業団リーグに興味があるらしい人間がいると知っていたら、きっと相手が同期入社で気が知れているというような条件が揃わなくても誰だって誘うだろう。

「なんとなく……半分仕事ということは、試合内容は」

「もちろん当社所属グリーンロケッツの試合。応援席を埋めるのが仕事の相談。もう半分は、あくまでも有志だから業務時間には入らないってわけ。横井ちゃんは一度も見に行ったことない?」

「ない、かな」

「そういう社員が意外と多いのです。中には存在すら知らないという方もいらっしゃいます。」

 ひかるはウンウンと頷き優花に理解を示す。チームの存在は知っている。男子も女子も歴史ある強豪チームであることも。そして今シーズンの成績も把握している。分からないのはまさか何故このタイミングで、ということだ。

「いつもは席空いても気にしないんだけど、この日だけは広報用カメラ入るから可能な限り埋めておかなきゃいけなくて……もちろんチケットは自社枠で無料、福利厚生でドリンクチケット付き。どうかな? 時間ない?」

「対戦相手は」

「まだ決まってないの。土曜の内容次第で三位決定戦か決勝になる予定」

 聞くまでもない情報だった。状況は頭に入っていて、思わず口をついて出た。準決勝で決勝進出が決まるのは透馬が所属するブルーバーズも同じだ。両チームともに勝ち上がれば金曜の決勝で当たる。

「……うん。行くよ。来週には仕事の方も落ち着いてると思うし」

「ほんとに?!」

 当日自社チームの応援が心からできるかの保証はないけれど。自社のチームどころか、思えば透馬の試合も中学卒業以来直接見に行っていない。

 でも逃げてばかりではいられない。もしこの機会を見送ったら、もう二度と透馬の試合を見に行こうとは思えない気がしていた。結婚したら、きっとこれまでとは全く別の関係になってしまうという予感もあった。正月に他愛のない話をすることも、代わり映えしない体育館の写真が送られてくることも、ずっと当たり前に続くと信じていた物はいつの間にか全て消えてなくなってしまうのだ。

「ありがとう! 助かる! おかげで肩の荷がひとつおりるよ」

 チケットは週明けに試合内容が決まってから持ってくるね。そう言って、ひかるは手を振り去って行った。


***


 土曜日、優花は実家を訪ねることにした。準決勝当日でひとり落ち着かなかった。もし決勝で当たって

試合の開始時刻はネットで調べても細かくは掲載されていなかった。金曜が夜だから今日も夜か。ひかるのプライベートの連絡先は知っているから聞けば分かるだろうが、週明けに結果を聞けばいいし、時間を知ったところで何ができるでもないと調べるのをやめた。

 電車で二時間の道のりを帰ってきて持っていた鍵で玄関を開けると、すぐに来客の気配に気づいた。母とは違う聞き覚えのある女性の笑い声だ。覗いたリビングには母親と透馬の母が二人でお茶を啜っていた。珍しい光景ではないが、これもまた何というタイミングだろうか。ただ良いタイミングなのか悪いタイミングなのかは分からない。

「優花ちゃんおかえり! お邪魔してるよ」

「こんにちは、おばさん」

 透馬の母は透馬本人と違って明るく社交的だ。似ているのはあくまでもマイペースなところだ。この人といると優花は不思議と本人を思い出す。ニコッと笑って数メートルも離れていない距離で手を振ってみせる。

「ちょうどいい所に来た。お茶入れ直したところ」

 優花の母はと言えば優花とよく似ていた。多弁ではなく、性格が暗いわけではないが、自分の娘が相手ということもあって余計に素っ気なくさっぱりしている。言外に「飲むなら自分でカップを持ってきなさい」「話に加わりたいなら好きにどうぞ」と言っているのが分かった。

 就職して家を出る二年前まで使っていた自室はまだ二階に残っている。他に誰も使わず、たまに帰ってくるのでほとんどそのまま使える状態だ。お茶は貰わずもしくは貰って、まずは部屋に入ってしまうという選択肢もある。何となく疎遠になっていったのとは違って、近所に暮らす母の友人として気後れすることはなかったのに。心の準備をしていなかった。

 でももう逃げないと決めた、と自分に言い聞かせた。

「いただきます」

 一泊分の荷物をリビングの隅に置いて、残っている椅子に座った。

「優花ちゃんはすっかり大人の女性になったね」

「……どうかな」

「よく見てると気付かないけど」

 母は肯定も否定もしない。おばさんと会うのは久しぶりだった。就職した直後にこうして家で母とお茶を飲んでいるのに出くわした。

「相変わらず手脚が長くてスタイル良くって憧れちゃう」

「無駄に大きいだけだよ」

 長身の女性なら誰でも覚えがあるだろう扱われ方を、優花も例外なくされて来た。学校で同級生にからかわれるのは当然として、社会人になってからも初対面の人からは必ず大学の事を言われる。なにかスポーツされていたんですか、という言葉とセットだ。素直に昔バレーボールを少しだけ、と話す事もあれば、例のように、無駄に大きいだけです、と言葉を濁すことも多い。

 透馬の母は首を振った。

「ううん。姿だけじゃないわ。娘がこうして時々顔を見せに帰ってきてくれる時点で嬉しいもの。一人暮らしもして十分立派よ。透馬なんか滅多と連絡寄越さないの。ずっと寮と社宅暮らしで帰ってこないし顔見せるなんてお正月くらいなんだから。高校からもうずっとだよ? 元気にやってるんだか」

 こちらに帰ってきても見かけないのは道理だった。

「試合は勝ってるし、チーム内で点も取ってるみたいだからちゃんとはやってるんじゃないかな」

「そうなの? 良かった」

 あと二回勝ったら優勝。そして恐らくこのまま優秀な成績を収めれば日本代表に選ばれるだろう。そうなったら一大事だ。でも、そんな大事な事だからこそ、優花は自分から伝えられるべきではないと口を閉じた。ただ、

「透馬の試合、見に行かないんですか?」

 とだけ聞いた。来週の金曜日、会場で出会う可能性があるならあらかじめ知っておきたいと思ったからだ。

「いまだに応援なんて来なくていいって言うの。変なところが頑固というかこだわりがあるのか、バレーを始めた頃からずっと変わらなくて」

 と言って寛容に笑っていると、

「連絡無いのが元気な証拠?」

 と優花の母が聞く。

「まあね。食事はおかげさまで会社の方で管理してくださってるのがせめての救いというか。あの子、小さい時からバレーしかやって来てないじゃない? 寝食よりバレーばっかりやってそれを仕事にしてしまって。特に活躍してなくたって本人が元気でやってるなら私はそれでいいの。親が子供に手を貸して幸せにしてあげられる時期なんてとっくに過ぎてるわけだし、そのあたりは優花ちゃんがいてくれるから安心してる」

 自分の名前が出てくるとは思っていなかった優花は思わず耳を疑った。一体どういう評価をされているのか。近く結婚する相手がいるだろうに。まさか、まだ親にも報告してもいないことを雑誌のインタビューで話したというのか。

 顔を思い浮かべてみて、有り得る、と思った。疎遠になっている幼馴染相手に無言で写真を送信し続けてくるような男だ。自分の母親に対してまともな連絡をしているとは考え難い。

 それを何事かと真意を問い質さない優花も問題がないとは言えないが、幼い頃からそういう人柄であったので、いつもの調子なのだと思っていた。

「私もおばさんと一緒。透馬とほとんど会ってないし、昔ほどよく喋ったりもしなくなったよ」

 私があいつになにかしてあげられている事は残念ながら無い。

「え? でも連絡行ってるでしょ?」

「来るけど、本当にごくたまにで」

「そうなの……」

 優花からもほとんど連絡することはない。

「将来は結婚しようね、って約束するくらい仲良かったのにね」

 今度こそ動揺で手に持っていたマグカップから煎茶が零れた。手には掛からなかった。口の中に入っていた分も、丁度飲み終わったところだった。

「……はい?」

 濡れたテーブルを拭こうと目を泳がせると、既に優花の母が手を伸ばして拭いていた。

「誰が、誰とそんなこと」

「優花ちゃんと透馬。まあ、小さかったし覚えてないよね」

 目の前のマイペースな調子に助けを求めて母を見るが、

「してた」

 と断言されて開いた口が塞がらない。二対一でどうにも分が悪い。全く覚えが無かった。

「それ……いつの話」

 聞くと、母親ふたりは顔を見合せた。恥ずかしい話で子供をからかってやろうという雰囲気がある方がまだ良かった。事実を確認し合う素振りが余計に居た堪れなくさせた。

「ふたりがバレー始めた頃だから、小学校二年とか」

 優花は頭を抱えた。せめて幼稚園くらいだと思っていた。まあまあ大きいじゃないか。あの頃の記憶は残っている。既に身長が学校のクラス内の誰よりも高く、コンプレックスになり始めていた優花にとって、テレビで見たバレーボールの試合が心の拠り所になった。自分もやってみたいと頼んで、当時同じ歳なのに弟のように後ろを付いてきていた透馬もその流れで地域のクラブに入ったのだ。

「……全く覚えてない」

 長年の葛藤とようやく向き合い始め、 幼馴染が結婚するという情報に動揺し、そのおかげでようやくずっと好きだったんだなんていう全く手遅れなことに思い当たったばかりだというのに。今更そんな甘酸っぱい事を持ちかけられたとしても、もうどうしようも出来ない。蓋を開けた途端、溢れてくる情報量が多すぎる。

 そんな混乱が起きていることも知らず、透馬の母は無邪気にスマホをバッグから取り出していた。

「まだ覚えてるか透馬にも聞いてみようか?」

 それだけは止めて欲しいと拝んで止めた。


***


 その日、試合開始の時間になっても何故か透馬から写真が送られて来なかった。もし送られてきたならば初めて返信をするつもりだった。「見に行くよ」と、半分仕事だけど、そんなきっかけになってしまったけれども、それでも優花にとっては大きな一歩になる返信になるはずだった。こんな時くらい自分から連絡しようと考えているうちに終業時間になった。少しの残業を頼まれ、会社を出る時には試合開始時刻になっていた。

 試合会場は、会社から電車で一時間とかからない駅から徒歩十分という場所にあった。初めて降りる駅ではなかった。県内で有数の大規模会場で、学生の重要な大会も同じ場所だった。ひかるに場所を聞いて「まさか」と思ったが、スマートフォン上の地図を頼りに駅から走り体育館の全体が見える門の前に到着し、立ち止まって夜の薄暗い中にあるその建物を見上げた時、それは確信に変わった。

 こういう事を運命と呼ぶのだろうかと優花は思った。

 そこは中学三年の時に優花が怪我を負った場所だった。

 もっと脚がすくんだり逃げ出したくなる気がしていたのに自分で不思議なくらいに心は落ち着いていた。今何セット目だろうか。どちらが勝っているのだろうという考えばかりが頭を巡った。入場口と記された立て看板横にあるすっかり暇そうな受付でチケットを切ってもらう。一番近いゲートを見つけて飛び込んだ途端、体が熱気で包まれた。ワッと上がる声援の中央にはオレンジ色のコートがある。

 映画やドラマにあるようなタイムスリップが実際あったらこんな気分になるのだろうかと思えた。中学生女子の試合とは全く違う。競技としてのレベルも観客席からの熱も何もかも違うのに体は身震いする程に思い出した。ずっとここにあったのは自分の脚でボールを追いかけて相手に拾われないよう返す躍動と、その熱さに匹敵する程に面白い観戦だ。

 その中心にまだ立っている透馬を、優花はようやく見つけた。

「横井ちゃん!」

 自分を呼ぶ声に目を向けると、少し離れた応援席の真ん中から手を挙げて振り向いているひかるの姿があった。通路に立ったままだったのを思い出し、細い階段を下ってひかるの横の空席に辿り着いた。

「濱田さん、遅れてごめん」

「おつかれ! ぜーんぜん大丈夫。逆に忙しい時に来てくれてありがと!」

「すごい盛り上がりだね」

「おかげさまでほぼ満席!」

 チームカラーの緑色をしたタオルを首に巻いたひかるが気の早いVサインをした。周りも似たような格好の人が多い。関係者席なのか、周りは社内の人間やその家族が多いようで、中には会社で見覚えのある顔も多かった。確保してもらっていた席からコートを見下ろすと、透馬がちょうどボールを受け取りサーブのラインまで走っていくところだった。通路側から見えなかった中央のスコアボードはまだ2セット目であることを示していた。1セットはグリーンロケッツが取っている。実業団の試合は5セットマッチの3セット先取で決まる。

 ホイッスルが鳴った。透馬がラインから長く取ったジャンプサーブの助走を始める。この年月の間全く見ない訳ではなかった。なのに今年のはじめに会った時よりも、遠くから見ているのにも関わらず、ずっと知っている彼よりも大きく見えた。


***


 優花は会場を出る時に立ち止まり、振り返ってスマートフォンを構えた。横に並んで歩いていたひかるが一緒に止まって、

「写真?」

 と聞いた。立って並ぶと優花とひかるの身長差は20センチ以上にもなる。撮影したばかりのそれを見せると、そこには特に飾り付けがされている訳でもない夜の建物が映っている。特にライトアップが綺麗な訳でもない。何の面白みもないので、ひかるが怪訝そうな顔になる気持ちが優花にはよく分かった。

「なぜ体育館外観?」

「私もそう思う」

 試合するコートでも選手でもなく、どうして透馬は体育館の写真ばかり送ってくるのか。なぜ今日は送ってこなかったのか。この会場に透馬が結婚するという相手もいたのか。

「撮るならさっきの集合写真撮ればよかったのに」

 試合直後に選手が応援席の近くによってきた時のことを言っているのだろう。

「そうだよね」

 と優花は返す。

 応援席にいたファンや社員達がこぞって写真を撮る中、優花がひとり別の方向を見ていたのを見ていたのだろう。

「残念だったね」

 また歩き出してからしばらくして、ひかるはそう言った。決勝を制して優勝したのはグリーンロケッツだ。透馬は個人で得点こそ多く稼いだが、フルセットを戦いきることなく、青いユニフォームを纏ったブルーバーズは準優勝に終わった。優花やひかる達はこれから会社の先輩達が先導する祝賀会という名目の打ち上げに向かう列の最後を歩いていた。

「横井ちゃんが応援してたのは青い方でしょ?」

 分かっていたのか。何度も声を上げそうになるのを我慢して、心とは裏腹に自社のチームがポイントを入れる度に手を叩いたり笑ったりした。コートの中にいる透馬を目で追いかけるのを堪えてボールを見つめていた努力も徒労だったのだ。

「……ごめん。応援してたのは敵チームだった」

 せっかく誘ってくれたのに、と続けようとしたところでひかるが手を横に振って笑った。

「ぜーんぜん。私にとっても半分仕事だし。もちろん贔屓にして応援してるけど、自分の会社だからって同期の子に忠誠心問いたりするつもりもないよ。逆に半分仕事だとか言って誘ってごめんね?言い出しにくかったよね」

「そんなことない!」

 突然大きい声を出した優花に、ひかるはあっけらかんと笑っていた顔を上げた。

「今日は誘ってくれてありがとう。……私、濱田さんがここに連れてきてくれたおかげできっと今日からまた前に進めると思う。試合を見て自信もらえた」

 社会人になってしまった自分がまた競技を始めて何かになれる訳では無い。

 幼馴染の結婚の予定を聞いてから恋心に気づいても今更なにかできる訳でも無い。

 でももう折れて腐ったままにはしない。

「また行くね。次はちゃんと応援するから」

「うん。また半分仕事の時は頼むよ」

 そう言って二人が笑い合ったところで、優花が手に持ったままだったスマートフォンが振動した。画面を確認した優花の顔を見るなりひかるは数歩前に出た。

「じゃ、月曜日はまたお昼ごはん持ってデスク行くから」

 通話の着信だった。画面には透馬の名前が表示されている。

「えっ、あの、でも、」

「話はその時に聞かせてね。応援してる」

 そう言って首から下げたままのタオルを振ってみせると、ひかるは優花を残し、同じく緑色のタオルを身につけている前方の列に混じって行った。その後ろ姿と着信画面を交互に見るうちにスマートフォンは振動を止めた。画面には不在着信が一件と表示されている。優花は一度深呼吸を置いてから再ダイアルをした。覚悟は決めていたが、思っていたよりも早く透馬は出た。

「いまどこ?」

 声は少し息切れていた。

「あの、実は今日バレーの試合会場来てて」

「知ってる。コートから見えた」

「うそ。いつ」

 目なんて一度も合わなかった。ボールを追いかけているうちに? ひかると話しているうちに? と考えるが、いつ見えたのかの答えを透馬は言わなかった。

「いまいるのどこ?」

「どこって……」

 会場の正門を出て少し行った先にある、駅に向かう道とひかる達が進んで行った飲食店へ向かう道への分岐路だ。辺りを見渡すと全国チェーンのコンビニが見えた。駅の方へ歩きだしながらそれを伝えると、

「そこ動かないで」

 そう言ってそのまま通話は切れた。

 動くなというのはどういう意味か。まさかここに来るつもりかと考えたが自分でその可能性を否定する。昔なじみの知り合いが観戦しに来ていて、それを知ったとして、外まで追いかけている時間があるほど暇ではないだろう。この数年間電話をしてくるような急用だって無かった。

 大体、今日に限って言えば写真だって送ってこなかったじゃないか。代わりのように自分で撮影したばかりの写真を見て真意を探すけれど、もちろんそこには答えはひとつもなかった。

 どうしたものかと思っているうちに、

「優花!」

 と名前を呼ぶ声が背後から聞こえた。振り向くと、真っ青な上下のユニフォーム姿のままの透馬が走ってきていた。会場から駅に向かって歩いてくるのは当然観客がほとんどだ。周りから突き抜けるほどではない身長でもよく目立った。

「お疲れ。試合残念だった、ね?」

 追いつかれて目の前に立たれると、特別に彼が知り合いでなくても心が落ち着かなくなるだろうと優花は思う。着替えないまま外に出てくる選手なんていない。シューズも室内用ではないか。

「おれ……動くなって言わなかった?」

 開口一番が文句で更に優花はたじろいだ。長い付き合いなのに、不機嫌そうな姿をあまり見た事がなかったからだ。多くのことに興味を示さず昔から執心するのはバレーボールのことばかりで、透馬の母の言葉を借りれば「バレー馬鹿」だった。

「言われたけどまさか来ると思わないし遠く離れなければいいかと」

「応援席なんで逆?」

 質問が多い。自分を応援しに来たのではないのか?と言いたいらしい。

「ロケッツ、うちの会社所属のチームだから」

 それを聞いた透馬は瞬きを何度かして「まじか」と呟いた。優花が入社した企業がどこなのかは知っていたはずだ。

「チームがあるの知らなかった」

「普通知ってるものじゃないの」

「名前に入ってるのは知ってる」

「それは誰にでも分かるでしょ」

 まだ頭を掻いているので笑ってしまう。良かった。ちゃんと話せていると優花は内心安堵した。もういつも通りには話せないかもしれないと思っていた。

「それで」

「それで?」

「平気だった?」

 何が、と聞き返しそうになる。透馬はじっと優花を見ていた。ああ。そうか。覚えていたのか。あの日彼もここにいた。まだ見えている会場の体育館を囲う塀に目を向けた。スパイクを打った後、片脚で床に降りる時、仲間の選手と接触をした。着地に失敗をしたあの時も透馬は見てくれていた。

「自分でも信じられないくらい、全然平気だった」

 優花がそう言うと、はあ、と透馬が深く息を吐き出した。良かったと言って今試合に負けてきたばかりのくせにへらへらと笑った。

「もしかして写真、今日ここだから連絡してこなかったの? いつも送ってくるのも試合に来させるため?」

「それ以外に何かある? 今日来れるの知ってたらチケット送ったのに」

「見に来て欲しくないかなって」

「なんで」

「このあいだ透馬のお母さんと話したら試合見られたくないって」

 それを聞いた透馬の顔はこれまで見てきた中で最も怪訝そうだった。

「優花はいつからうちの母さんになったの? 次から毎回来てよ。これまで来なかった分も」

 そう言われて、浮き上がるように嬉しかった。送られてきた写真の分だけ行きたかったとも思った。でも、そんなこと言っていいのか、喜んでいいのかとも思う。

「ね、透馬」

「うん?」

「結婚するんでしょ。おめでとう」

 いくらバレー馬鹿な透馬のことを理解して好きでいてくれる人でも、常識的に考えれば、毎回試合を観戦しに来る異性の幼馴染なんて邪魔に違いなかった。しかもその幼馴染が結婚相手のことを一方的に好きだなんて、あっていいはずがない。

 それなのに透馬は優花の両手をいとも簡単そうに取った。

「あ、そうそう、代表の内定来たから今度結婚しようよ。今期のリーグ戦は負けたけど得点数の方で選抜だって。早速来月から合宿遠征」

「しようって……誰が、誰と、」

「おれと優花でどちらかが代表になったら結婚するって約束。……覚えてない?」

「お、覚えてる……」

 先週、自力ではなかったけれど思い出したばかりだ。セットだったとは聞いていない。聞いていないが、セットになった約束を聞いた途端、記憶がじわじわと蘇ってきた。どちらかが代表になるという前半部分の言葉だけずっと覚えていた私こそが本当のバレー馬鹿だったという事だろうか。

「昔の約束だからもうそんなの無しだって言うならそれでいいけど」

 試合から優花がまた逃げてもおれが追いかけるから、とまるで優花が立てた誓いを知っているような的確な攻撃が胸に刺さった。


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