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深い呼吸

作者: 山鳥

  朝起きて、深く呼吸する


数年前にはやらなかった習慣が、何故だかある日突然無性にやりたくなって始めてみた

最初は無意味だって思ったけど、なんとなく深く息を吸うことで思った以上にスッキリする自分が居る


 時刻は朝5時23分


朝日はとっくに上り、お気に入りのキッチンに日を射す

なんだか無性に今朝はパンが食べたくなって、冷凍庫の残り物の食パンを探す

電気ケトルに水を張りスイッチを入れ、フライパンに油をひき、ベーコンと卵を使って目玉焼きを焼く

昨日の残りのサラダを小さな器によそい、少し豪勢に見えるように演出してみる


「見栄っ張りだな……でも美味しいからいいよね」


消え入りそうに呟いた自分の声に思わず苦笑いをして盛り付けをし

その間に食パンをトースターに入れて加熱する

時計をチラリと見る


 時刻は朝6時4分


小さくため息をつきながら、寝室へ向かう

夫の晃弘がまだ寝ているからだ


同じ寝室なのに物音を立てても、目覚ましのアラームが鳴っても目が覚めないなんて正気じゃないと新婚当初は思ったものだが、今では『神経の図太い人』という括りに入ったので気にならなくなった


「朝ですよ。朝ご飯を食べてください」


布団を目深にかぶったその姿に声をかける

揺すり起こしはしない

私は最早その気力すらない

何度か声をかけると携帯のアラームが鳴る

彼の拘りのガチャガチャしたその音は、夢の世界から現実へと呼び出す最高の合図なのだ

今朝もアラームに負けたのだと苦い思いをしながらその場を後にする

キッチンで朝食の準備を進めていると背後から声がかかる


「おはよう。早起きしてたなら起こしてよ」

「……おはよう。ご飯出来てるよ」


虚しくなりながらも笑顔を張り付け朝食を整える

「いただきます」と声がしてチラリと見ると準備を終えた晃弘がトーストを齧る


「このパン冷凍?」

「そうだよ。前の残り。食べちゃいたかったから。なんで?」

「あぁ~だから霜臭いんだね」


ガハハと笑いながら食べ進めていく夫を眺めながら、私は向かい側の席に座りながら手元のコーヒーを啜る

今日も味がしない

大好きだったコーヒーの味かわからなくなって、どれくらいたったのだろうか?

味がしないからコーヒーメーカーを使わなくなった

お気に入りの真っ赤なコーヒーメーカーは今ではただのレイアウトだ

以前は豆も一緒に買いに行っては次はどこの店の豆にするか

深入り派か浅入り派か相談しては豆の残り具合を確認したりしたが

それは遥か遠い日の記憶になりつつある


時刻は7時13分


夫は「行ってきます」と言いながら扉を開けて出ていく

車のエンジン音がし、そのうちに遠ざかる音がする

そこで思わず大きく咽る

思ったより上手く呼吸ができていなかったことに気が付く

洗い物をし、洗濯や掃除を終え、また独りキッチンへ向かう

何となくシンクを撫でていると、携帯の画面が音を立てて着信を知らせる


「そっかぁ……今日は有給とってたんだね」


画面には、さっき出て行った夫と若い女性の姿の画像が添付されている

こんなにも分かりやすく人目に付く時間に何をやっているんだと呆れもするが

コッソリ着替えたであろう彼のスーツ姿ではない姿に落胆を隠せない

携帯から顔をあげ、もう一度キッチンを見回す

自分の居場所を作るために長い時間をかけてコツコツ整えた一番愛着のある場所


あのマグカップは、2人で窯元巡りをしたときに買ったもの

あのワインオープナーは3度買い替えて出逢ったお気に入り

今朝出したジャムは、ちょっと高いけど夫が好きだと言ったから買い続けているブルーベリー

二人の食事をするテーブルは知り合いの人に作ってもらったオーダーメイド


ゆっくり見まわしながら指でなぞる

夫婦とは愛情から情になり、最後は親友になるというが

自分はまだ『愛情』が色濃くある自覚がある

しかし夫は違うのだろう


「ここで怒ったりできたら可愛かったのかもな」


静かにつぶやいた言葉はシンクについた水滴すら揺らすことなく

逆に体から溢れ出た水滴が混ざり合ってその円を大きくしていく


決してプライドが邪魔したわけではない

決して悔しくないわけではない

決して嫌いになったわけではない


ただ、このままでは駄目な事だけは確かにわかるのだ

泣いてすがることも考えたが、心がカチコチになって上手く作動しないだけなのだ


首からエプロンを外す

付き合っていた時から長年使っていた物で、夫にもらった最初のプレゼント

どうするか迷って、手でギュッと握ってから匂いを嗅ぐ

なんだか変態クサいなと思うと自然と笑みがこぼれ、その勢いでゴミ箱にエプロンを捨てる


玄関わきの収納スペースに入れておいたスーツケースを手に取ると、三和土へ下りる

自分の荷物はもう粗方片づけてあるし、残ったものは全て捨てていいものばかりだ

後ろ髪ひかれる物も多いが、今は抱えきれない

そこにある思いや記憶が歩を邪魔する気がして


最後に離婚届の入った封筒を玄関マットの上に置いて顔をあげる


もう一度、深く深く呼吸をする

 

「ありがとうございました」


小さく呟いた声は思ったより響かず、少し熱の下がった家の中に溶けていく

勢いよく玄関を開け、鍵をかける

もちろん鍵をかけた後は、その鍵をポストに入れるのも忘れなかった


振り返りはしないと決めたその顔には

深く呼吸をしていた時の悲壮感はなく

何処か吹っ切れた様子だった

元気よく歩く姿に違和感を感じた近所の住人がその事を夫に伝えたのは

彼女が出て行ってだいぶたった夜の事だった


お付き合いしてくださいありがとうございました。

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