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縺れ合って倒れた結果、涼と琴乃の唇は重なっていた。おまけに涼は琴乃の両手を頭上で押さえていた。傍から見れば、涼が琴乃を襲っていると一発で勘違いするだろう。
「ん……ぷはっ、そ、そのごめ――ん!?」
涼が離れようとすると、琴乃が空いた手で涼を抱き寄せ再び唇を重ねた。
「んっ……あ……うぅん……ん、ぷはっ」
琴乃が色っぽい声を出しながら、キスをしてくる。体に手を回されている分、琴乃の抱擁は抜け出しにくいが、涼は床に手を付け力を加える事で上半身だけでも浮かした。
「お前、一体何を――」
「……涼、今のキスで貴方の事を好きになっちゃったわ。私の願いを変えるわ。私と付き合いなさい。そうすれば、貴方の願いを叶えてあげる」
「なっ、僕と香織が付き合っているのを知っていて聞いているのか?」
「勿論。だから、そうね、涼は私との関係を隠せばいいわ。隠しながら付き合えば問題ないでしょう? 例え疑われたとしても、対処法はあるでしょうし」
確かに、この二年間の間に『知り合いにあった場合の対処法』等は考えに考えて置いた。それこそ、完璧に誤魔化す自信はある。『二股を誤魔化す対処法』は考えては居ないが、幾つかの対処法を組み合わせればいけるだろう。
まあ流石に、恋人だと香織に言われた時は直ぐには思いつかなかったが。
とりあえず何時までも抱き合っている気は無いので、琴乃の手を解くと立ち上がった。……ついでに琴乃を起こす時に手を貸してやった。
「琴乃はそれで良いのか? それだけの容姿と(生徒会長という事は)人気があるんだろう? 付き合ってる奴は居ないのか?」
「居ないわよ。ある程度のレベルに達してる奴は居るけど、付き合う程じゃあないわ」
(何様だよ……)
「ともかく、私と付き合う事で願いを叶えてあげるわ。その条件で良いかしら?」
「ああ、条件はそれで構わない。だが、具体的に記憶を取り戻す方法を教えて貰わないと無理だ」
ただ単に『記憶を取り戻す』では全く分からない。曖昧な報酬で条件を呑む訳にはいかない。具体的な方法を教えてもらわないと困る。
「具体的な方法ね……。今私が考えているのは『昔の記憶に関連する物と話をプレゼント』と『私と居る事』の二つね」
「前者の方法は分かるが、後者の方法――『私と居る事』というのは?」
「前にも言ったわよね? 『私と涼って結構親密な仲なのよ?』って」
「ええ」
「だから、私と居る事で起きるふとしたキッカケで記憶を思い出す、と言う事も有り得ると思うのよ」
「それは分かるが、僕と琴乃の関係はそんなに濃い物なのか? 出来れば教えて欲しい所だが……無理だろうな」
「ええ。今は私と涼の関係を話す訳にはいかないし、そもそも信じられないと思うわ。だから、私が自主的に話すまで待って欲しい。そう、せめて涼が記憶を取り戻す時までは、少なくとも話せないわ」
「……分かった」
「それで、これでお互いの条件は呑みあって、交渉成立、と見て良いかしら?」
「……」
正直な所、まだ決めかねている。琴乃と付き合うと言う事は、少なくとも香織に知られたら面倒な事になるだろうし、もしかしたら琴乃のファンクラブ(非公認で存在するらしい)に襲われるかもしれない。
それに、ファンクラブはともかくとして、一番の問題なのは琴乃が単に付き合うだけかどうか、ということだ。密かに殺人の手助けをさせる、何て事は琴乃ならしなくもない。だけど、それは涼の気の配り方次第で防げる可能性は十二分にあるし、防いだ上で報酬――記憶を取り戻す事が出来るとなると、ローリスクハイリターンとなる。
これらを踏まえた上で答えを導き出したいが、ただその前に、もう一つ確認したい事があった。
「報酬、つまりは記憶に関する物や話だが、それは何時貰える?」
「そうね、私が満足したら、って答えたら納得いかないでしょうし、文化祭が終了した日、というのはどう?」
「分かったた、それなら交渉は応じられる。交渉成立だな」
「ふふ、そうね。涼との甘い恋人関係、楽しみにしてるわ」
そう言った琴乃の顔は何か企んでいる様な含みのある笑みだったが、この際はもう気にしまいと涼は生徒会室から出て行った。
× × ×
教室に戻ってから、昼休みまでひたすら冷やかしの言葉と嫉妬の目で見られ続けた。入学式の挨拶だけで、ここまで人気を獲得するとは素直に琴乃が凄いと思える(一部女子の人気も獲得しているみたいだし)。
とりあえず、先程から食べ物を寄越せ、とうるさい胃にお弁当を与えようとした時だった。隣席の女子――確か名前は芹沢さんだったか――が横腹を突付いてきた。涼が芹沢の方を向くと、芹沢は前の扉の方を指で指した。そこに居たのは、一美と香織だった。恐らくは朝の呼び出しの事についてだろう、そう思いながら芹沢に礼を言い二人に近づいた。
「どうしたの、二人して? 朝の呼び出しなら特に何も無かったよ」
「ああ、違いますよ。一緒にお昼どうかな、って。香織がどうしても涼君と食べたいって言うんですよ」
「ちょ、ちょっと一美! う、嘘じゃあないけどさ、あんまり本人前で言わないでよ」
「はは、香織って案外恥ずかしがり屋だったんだね。良いよ、お昼。どこにしようか?」
涼が尋ねると二人は決めていなかったのか、悩んでいた。この場合は、学食のある食堂か、外で食べるのがベストだろう。本当だったら屋上が良いけど、立ち入り禁止で使用は不可能。と、すればこの二つの中から考えて外で昼食がベストだ。
そう思案した涼が言葉にして二人に伝えようとした時、ふと気づいた。
(やけに静かだ……)
先程から廊下に居る生徒は黙り、何故か教室の入り口が混雑しており、ぎゅうぎゅう詰めになりながらも顔だけだしている生徒達の視線は同じ方向を見ていた。それは一美と香織も同じ様で、周りの生徒達と同じ方向――というより、目の前に居る『人物』に気をとられている。
その『人物』は、優雅と気品さが溢れる生徒会長――琴乃だった。琴乃は一人一人に挨拶をしながら、此方に向かってくる。突然の訪問者に吃驚したのか、皆『こ、こんにちは』等と、一言返事しか出来ていなかった。緊張しているのだ。
それは一美と香織も――ましてや昨日の屋上の件があるので――同様だった。
「『初めまして』一年生さん」
一美と香織がお互いの顔を見る。どうやら屋上の件に関しては忘れてやる、という事らしい。というよりは、もしかしたら『貸し一』という事かも知れない。多分、いや琴乃ならそうだろう。
琴乃は一美と香織に挨拶した後、二人の後ろに居る涼と視線を合わせて、何故か顔を赤らめた。
というのも――
「涼……い、一緒にご飯食べない? か、彼女らしくお弁当を作ってきたの。ど、どう?」
こんな事を大勢の生徒と、しかも香織が居るなかで堂々と言いやがったからだ。ああ、こいつ本気で腹立つ。
琴乃が言い終わると同時に周りの生徒がざわめき始め、一美と香織が振り返った。特に香織は物凄い怪訝な顔をしている。
――このツケは高く必ず返して貰うからな琴乃。
涼は香織の手を取ると、一瞬の迷いも無く他の生徒を蹴散らしながら屋上を目指した。後ろから冷やかしやら罵倒やら聞こえてくるが、もうどうでも良かった。とりあえず、今は香織との間にある誤解(嘘ではないけど)を解かなければ。
屋上の入り口は案の定、鍵が掛かっていたが、涼が懐から針金の様な物を出すと鍵穴に挿入してガチャガチャと弄ると、見事にガチャンと音がして鍵が解けた。
更に怪訝な顔をし始めた香織の手を再度取ると、扉を開けて屋上に出た。今日は良い天気で、立ち入り禁止なので屋上には誰も居ない。話すのなら絶好の場所だ。しかし、どう話を切り出すべきか。
「ねぇ、さっきのってピッキングって奴でしょ? 涼ってそんなに悪い奴だったっけ?」
涼が考えを巡らしていると、ふと香織から話を切り出された。
「え、いや、そうかな? 今回は仕方なく」
「私という彼女が居ながら、美人な生徒会長と随分仲良くなったみたいだね?」
どうやら香織は涼の弁解を許すつもりは無いらしい。
「いや、香織聞いてくれ。これには深い事情があるんだ」
「どんな理由よ!? 二股に正当な理由がある訳!?」
「……正当ではない、けど! この間、屋上の件について呼び出されたでしょ?」
「……うん」
「屋上の件に関しては特に罰は無かったんだ。というのも、実はまた直ぐ後にルール違反がばれちゃったんだ」
全くという訳ではないが、半分は嘘だ。しかし、香織は強ち疑っている訳でない様な顔をしている。
「それって一体どんなルール違反?」
「えぇと、それは――」
「それについては生徒会室で話すわ」
突然の第三者の掛け声に涼と香織が驚いた。入り口に居た。屋上に足を踏み入れてない辺り、生徒会長として学校の規則は従事しているみたいだ。
香織は屋上の件もあってか、琴乃の提案に素直に頷いて屋上を出て行った。そして涼と琴乃が香織の後ろに続いた。
ふと琴乃が涼に肘を突いてきている事に気づいた。
「感謝しなさいよ」
「元々はあんたの所為だろうが」
「ふふ、まあ、交渉上の規約では『恋人と言ってはいけない』なんて無いでしょう?」
ああそうだよ。僕がもっと徹底して規約を作ってやれば良かったのさ!
「まあ、そこら辺は甘く見てくれると嬉しいな」
琴乃が可愛らしく、同じ身長なのに何故か上目遣いでウインクをした。良く見ると、少しだけ屈んでいる足が辛いのか震えていて、そこが少し可愛かった。とは本人には絶対に言わないし、言えない。
「それよりも言い訳どうする?」
「うん? お前が蒔いた種だろうが。自分でちゃんと摘め」
「それは、私が私の作った嘘話で誤魔化して良い、って事?」
「……入学式に遅れた、その上で生徒会長直々の説教を無視した。だから問題児となる前に監視としてあんたが恋人役として付いた、それでいけ」
「それはまた立派な嘘ね」
「全部が全部嘘じゃないぜ? 入学式に遅れたのは本当だ」
「そうだったの? それはそれで新しい罰を与えようかしら?」
「勘弁願い被るな。ま、そういう理由でいけ」
「はいはい。それにしても随分と口の利き方が悪いのね。私ではなくとも、風紀委員やら先生やらに目を付けられるわよ?」
「大丈夫、あんたの前だけだ。他の人の前では猫かぶってる」
「という事は、私の前だけは素の貴方を見せてくれている、って事? やだ、嬉しい」
「……うざ」
琴乃が腕に抱きついてくる。あぁ、もう本当にこいつ腹立つ。涼は内心で毒を吐きまくると同時に、目の前に居る香織が振り向かない事をひたすらに願った。
× × ×
「――という訳で、涼には監視が必要だと判断。私が恋人役として付くことになったの。表向きは恋人と言った設定の方が何かと楽でしょう?」
琴乃が涼の恋人である事の説明――廊下で涼が考えた案――をした。
生徒会室に入ると、何故だか一美が既に居て、琴乃が全員を適当な席(涼だけは琴乃の隣)に座らせると説明し始めた。
正直な所は信じられない様な話だが、この生徒会長ならやりそうな気がしているのか、一美も香織も黙って聞いている。
「でも、幾らなんでも恋人役っていうのはやり過ぎな気がします」
香織が意義を唱えた。
「何故?」
「何故って……。その、涼の意思とか無視してるじゃないですか!」
「校則違反をする生徒、又、問題児となりうる生徒の意思なんて関係ないわ」
明らかに琴乃の方が前線している。しかし、香織も諦めまいと琴乃に噛み付く様子だ。
「で、でも、例えば――涼の彼女とかいたらどうするんですか? その彼女困ると思うのですけど?」
「貴方困ってるの?」
「え?」
「彼の彼女でしょう? 困ってるの?」
「……困ってる、というか……その、二股みたいで嫌です」
「なら、彼と別れるか、監視の為の役だと割り切って頂戴」
そう琴乃が言った瞬間、今まで抑えていた感情を爆発させたのか、香織の顔が一気に喧騒な表情になった。
「貴方最低な人ね! 普段は猫かぶって、皆からちやほやされて良い気分になってるんでしょ? ……貴方と居るだけで腹が立つわ!」
「そう」
「私は貴方の事なんて空気と同等の扱いしかしない。だから私は涼と別れもしないし、割り切る必要もない。……ふん、一美と涼ももう戻ろう!?」
「あ、うん」
一美が香織の勢いに飲まれて返事する。涼もそれに応じようとしたが、それを香織達に分からない様に琴乃が制服を引っ張って制した。それを目で追ってみると、琴乃はメモらしき紙を空いている手で出してきた。
(重要な話があるから、このまま残ってくれる?)
「涼、どうしたの? 早く戻ろうよ」
メモを読み終えた所で香織が急かしてきた。涼は顔を俯けて少しだけ思案し、頭の中に言葉が浮かんでくると同時に顔を上げた。
「悪いけど香織、僕はここに残って、この人と話す事があるから。先に戻ってて?」
「……彼女と偽彼女、偽彼女の方を選ぶの?」
香織の声のトーンが途端に低くなる。しかし、表情は怒っているというよりは、神妙で少し不安そうだった。心配なのだろうか?
「僕は香織を選ぶよ。ただ、此処は少し話し合う必要があると思ってね」
「それなら私が」
「香織はさっきみたいに怒っちゃうでしょ? 此処は少しでも冷静に話せる人が良いと思うんだ。……それとも、香織は僕を信頼出来ない?」
最後の方を少しだけ悲し気な声色で喋った。こんな事をすれば、大抵の奴は簡単に騙す事が出来る。
「そ、そんな事ないよ! 私は涼の彼女なんだから、いつでも涼の事は信頼してるし、信用してるよ! 涼がそういうなら……分かった。ちゃんと話をつけておいてね」
やはり、と自然に口元が緩んでしまう。香織も例外無く簡単に騙せた。二年間を通して得た経験と知識は実に役立つ。
涼は笑顔を作って礼を言うと、香織は顔を赤面させながら部屋を出て行った。ここまで簡単だと、何か物足りない感じがする。そんな邪な思いにも似た考えを内心で考えていると、不意に腕に柔らかい感触を感じた。
「さっすが! ……その調子で今まで何人騙してきたの?」
「さあ、覚えてないな。それよりも、腕に気色の悪い物が当たってるんだが、離れろ」
「ああん、いけずな人」
琴乃が妙に甘ったるい声を出してくる。その一言一言がむかつくが、此方の言う事に従ってくれる辺りは、存外まともだ。
「さて、じゃあ重要な話っていうのを聞かせて貰おうか?」
「そうね。単刀直入に言うわ。デートして頂戴」
「帰れ!」