3
「あ、あの……」
突然の来訪者に一美が明らかに動揺している。あれでは言い訳どころか、逆効果を得てしまいそうだ。
涼が前へ出て、一美の代わりに説明しようとする前に香織が先に出た。
「あの、立ち入り禁止である屋上に入った事に関しては悪いと思いますし、申し訳ありませんでした。でも、ふ、不順異性交遊なんてしてません!」
香織がそう言うと、琴乃はくすりと笑い余裕の表情をした。まるで子供を相手にする様な顔だ。
「あら、じゃあどうして抱き合っていたのかしら?」
「そ、それは……」
「それに、キスがどうのこうの言ってたけど、それでも違うと言うのかしら?」
「キスに関しては勘違いです!」
「でも雰囲気的にしそうだったわよね? さっきもそこの女の子が言ってたけど」
「う……」
(駄目だ)
直感的にそう思った。完全に相手の方が状況的に有利だし、明らかに上手だ。このままでは最悪な状況になるのは間違いない。
この場合は、涼――つまりは第三勢力が加わる事が一番だ。そう思い、涼はポケットにしまっていた鍵を取り出し、前に出るなり鍵を琴乃の目の前に出した。
「生徒会長さん、これを見れば分かると思いますが、屋上の鍵を職員室から無断で拝借し、屋上へ率先して上がったのは私です。この二人は私が無理矢理に連れてきたまでです」
目の端で一美と香織が何か異議を唱えようとするが見えたので涼はそれを素振りで制し、再び言葉を紡ぎ始めた。
「ですから、二人を叱責するのは御門違いです。叱責を受けるべきは私一人で十分なはずです。ですので、そこの二人は帰して貰えないでしょうか?」
涼が言い終わると、琴乃は何かを思案する様な顔を一瞬したが、それも直ぐに笑みに変わった。
「そうね。じゃあ、貴方だけ生徒会室に来てもらえないかしら?」
「分かりました。じゃあ、そういう事だから、二人は先に帰って――」
「駄目だよ! 私達だって無断で入った事には変わりないんだから、私達も叱られるべきです」
「そうよ、涼一人の責任じゃない!」
涼の言葉を遮って二人が異議を唱える。余計な事を、と思わず口に出してしまいそうになったが、何とか防いだ。
その申し出は非常に有り難いし、一人で怒られるのは(元々鍵は断って借りたし)嫌だが、今は『香織からの好感度を上げる』という目的が最優先だ。その為には、二人には来られては困るという物だ。
「生徒会長、この二人を怒る必要性はありません。早く行きましょう」
「涼君!」
「ちょっと、涼!」
「……分かったわ。じゃあ貴方一人で生徒会室に来て。場所は分かる? 二階の廊下に出た右奥にある部屋がそうだから。ああ、でも、そこの二人と話を付け終わってから来て下さいね」
「分かりました」
涼が返事をすると、琴乃は満足そうに頷き、踵を返して屋上から出て行った。
(さて、生徒会長はともかく、この二人をどうするか、それが問題だ)
振り返って、一美と香織を見ると、案の定、納得のいかないと言った顔をしていた。
少しばかり失敗したが、今からでも目的を達成する事は不可能ではない。さて、どうした物か。 と、思案する涼の頭にふとある単語が思いついた。
(恋人……そうか、これは使えるな)
涼が頭の中で文章を考えていると、香織と一美が前に出てきた。この二人が言おうとしている事は分かる。だから、その前に言葉を潰してしまおう。
「とりあえず、そういう事だから、二人は先に帰っていてくれ」
「ちょっと涼、勝手に決めないでよ! 私達だけ無事なんてそんなの駄目よ!」
思い通りに香織が食いついてきた。涼はその機会を逃さず、香織の手を徐に掴んだ。
「香織、僕は君を守りたいんだ。君が叱られている所は見たくない。それに、今までのブランクを埋める為にも、少しは格好良い所を見させてくれないか?」
自分で言っておきながら、吐き気がする様な台詞だな、と心の中で思いながらも、表面だけは真摯な態度で香織に言った。
「でも……」
「香織!」
涼が香織の方を掴んで、顔を近づける。すると、香織の頬が赤く染まり始めてきた。
「……そこまで言うなら分かった。わ、私も涼の格好良い所見たいし。でも、何か罰とか受ける時は一緒だからね!?」
「ああ、有難う、香織。一美もそれでいいかな?」
「え、あ、うん」
「じゃあ、二人は先に帰っていてくれ。明日また学校でね」
涼がそう言うと、一美と香織は『また明日』と言い残して屋上から出て行った。
とりあえずは目標達成と言った所だろうか。簡単に騙された香織を思い出すと笑みが零れてしまう。恋人とは相手を利用するのに最適な言葉だ。
(さて、そろそろ生徒会室に向かうか)
そう思い、涼が屋上を去ろうとすると、不意に後ろに気配を感じた。
――誰も居ない。
(気のせいか? まあ、どちらにせよ別に良いか)
涼はそれ以上の思考を放棄すると、屋上から出て行った。
× × ×
二階の右奥にある生徒会室の扉を二回ノックしてから、返事を貰うと涼は扉を開けて入った。
生徒会室に入った事は初めてだが、思っていたより意外な部屋だった。教室と同じ程度の大きさの部屋の中央に円を作っている机に、入り口に直角なロッカー、それと片隅に置いてある戸棚。中には、赤と緑の缶が二つずつと、ティーポットとティーカップが何点か置いてあった。良く見ると電気ポットまであった。この分だと引き出しの中には砂糖やスプーンが入っているのだろう。
と、涼がきょろきょろと辺りを見ていると、琴乃が笑みを零した。琴乃は入り口の正面にある窓際に立っていて、太陽の光を浴びている所為か一瞬の間、人間かと思ってしまう位に綺麗で見惚れてしまった。
「まるで知らない所に来た子供みたいね」
「みたい、ではなくて、実際にそうですよ」
「そう? 少なからずとも貴方はあの二人の女子よりは大人な感じがしたけど、まあいいわ。此処に座って貰える?」
そう言って琴乃が窓際、というよりは自分の近くの椅子を引いた。涼が席に座ると、琴乃は戸棚に近づいた。
「あ、僕は要りませんよ?」
「お茶と紅茶、どっちが良い?」
「……紅茶で」
「砂糖は要るかしら?」
「いえ、要らないです。ミルクがあれば欲しいですけど」
「あるわよ。じゃあ、ロイヤルミルクティーで良いわね。私も同じのにするわ」
一体どこにミルクを保管しているんだ。と疑問を頭に浮かべていると、予め準備されていたかの如くに、ティーポットに紅茶の葉を入れると勢い良く(何時の間にか沸かした)電子ポットからお湯を入れて、蓋をした。
「慣れてますね」
「えぇ、趣味と嗜好が合ってるから、家で勉強してるの。と言ってもここだと満足に作れないからティーカップを温めてなかったり、お湯もそこまで熱くない、言わば手抜きね」
「で、その砂時計が落ちきったら完了ですか?」
「まあ、そうね。あ、ミルクは自分の好きなタイミングで入れていいわよ」
「これ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。ちゃんと冷蔵庫に入ってるから」
そんな物あったか? と言わんばかりに冷蔵庫を探すが見つからない。というより、生徒会室ってそこまで優遇されているのか。少し羨ましい。
涼が下らない嫉妬に駆り立てられていると、砂が完全に落ち切り、それを合図に琴乃はポットを少し揺らした後、カップに注いだ。それを涼の目の前に差し出すと、琴乃は涼の隣の席に座った。
正直な所、匂いで美味しいと分かる。涼は紅茶にミルクを入れて、ティーカップを持った。
「頂きます」
「どうぞ」
(……思った以上に旨い。思わずケーキか何か欲しくなってくるな)
涼の表情に満足したのか、琴乃は嬉しそう笑いながら、自らも紅茶を飲み始めた。
(というか、何を此処で紅茶を飲んでるんだ?)
涼は自分自身の行動に疑問を抱くと、カップを机に置き、琴乃の方を向いた。琴乃はと言うと、優雅に紅茶を飲んでいたが、視線に気がつくなり飲むのを中断した。
「今此処には私と貴方しか居ないからって不順異性交遊は駄目よ?」
「いえ、そうではなくて、屋上の件なのですが」
「ああ、その事ね」
(忘れてたのか?)
「その件については貴方を咎めるつもりは無いわ。だって貴方は教師から許可を得て鍵を借りたのでしょう? だったら何も問題は無いわ」
「何時から知ってたんですか?」
「屋上に行く前から」
「では、わざと僕の口車に乗ってくれたんですか?」
「そうなるわね」
「それはどうも有難うございました。では、特に用事は無いんですね? なら僕は帰らせて――」
「用事ならあるわ」
涼が帰ろうとするのを言葉で制すると、琴乃はカップを机に置き、立ち上がった。こうして向き合ってみて初めて分かったが、涼と琴乃は同じ位の慎重の様だ。
「確かに、貴方は屋上件に関しては悪くないわ。だけど、あの二人は知らないわよね? 貴方が鍵を許可を得て借りた事。知ったら、貴方の考えている事は分からないけど、不味いんじゃない?」
「お察しが良いですね。確かに、あの二人に知られると少し厄介です」
「そこで、口止め料の代わりに少し私の手伝いをして欲しいのだけれど、良いかしら?」
「……逆を言うと、拒否したら知らせるって事ですよね。生徒会長が脅迫して良いんですか?」
「生徒会長だって人の子よ。食事もすれば脅迫もするわ」
「意味が分かりませんが、分かりました。何を手伝えば良いのでしょう?」
「簡単な事よ。私が担当する文化祭の準備を手伝って頂戴。私は主に指揮だけど、貴方には雑務をしてもらうわ。詳しい事については、此方の方針が決まり次第に話すわ」
「分かりました、では、もう帰っていいでしょうか?」
「ええ、そうね。じゃあ、紅茶代置いていって」
「有料ですか? 戯言も程々にして貰いたいものですね。これでも僕は用事がありますので、他の人に構ってもらって下さい。では」
そう言い残すと、涼は生徒会室から出て行った。廊下を歩きながら思ったが、入学式の時とはまるで別人だ。普段は猫被りをしているんだろう。だから、優雅だの気品だのと噂が流れるのだ。
猫被り、か……。
「人の事は言えない、よな」
× × ×
涼が生徒会室を出てから静まり帰った部屋で、琴乃は胸ポケットから写真を一枚取り出した。それは家族の写真。真中に夫婦二人と、その両端にくっつく様にズボンの裾を掴んでいる男の子と女の子。
瞬間、琴乃の胸がズキンと締め付けられた様な痛みが走った。この写真を見て感傷に浸ると、いつもこの胸の痛みが襲う。それもこれも……。
琴乃がブレザーの内ポケットからもう一枚写真を取り出した。先程とは別の男女が二人写っている。男の方の名前は瀬川琢磨、女の方は瀬川祥子。涼の義理の親だ。もっとも、義理なんて甘い物ではなく、本当は酷い関係だが。
「それにしても……すっかり変わったわね、涼」
そう言うと、何故だが目の奥に熱い物がこみ上げてきた。それは形となって、頬を伝って家族写真に零れた。一度涙を零した所為で抑えられなくなったのか、琴乃は声を上げずにその場で泣き崩れた。
× × ×
翌日、涼が自分のクラスに入ろうとすると、教室の前で一美と香織が立っていた。どうせ、昨日の屋上の件に関してだろう。
「おはよう、一美、香織」
後ろから声を掛けると、一美の方はビクッと体を震わせ、香織の方は一美を宥めながら此方を向いた。
「もしかしなくても、昨日の事について?」
「うん、何か罰とか貰っちゃった?」
一美が心配そうな顔つきで尋ねてくる。
「いや、特に何も無いよ」
というのは普通に嘘だが、文化祭の手伝いともなれば、そう直ぐには呼ばれまい。ある程度の時間が経てば、適当な理由に託けて罰を貰った、と言えば良い。ここはあくまでも凌ぐべきだ、と涼は思案した。
しかし、その矢先。
「一年五組の瀬川涼、今すぐに生徒会室に来てください。繰り返します、一年五組の瀬川涼、今すぐに生徒会室に来てください」
「……」
三人の間に沈黙が走る。涼は無意識に溜息をついた。
少しの間、呆然としていると今度は香織が訝しげな顔をして尋ねてきた。
「ね、ねぇ、本当に罰とか貰ってないんでしょうね?」
「少なくとも昨日は貰ってないよ。……ああ、そういえば、屋上の鍵返し忘れてた! 多分、というか確実に鍵の返却についてだと思う」
「涼……もしかしてボケてたの?」
「違うよ。昨日は生徒会長と二人で会話なんて緊張物だったし、それで思わず忘れてただけだよ。じゃあ僕は鍵返しに、って鞄は邪魔か。とにかく二人は教室戻ってよ。鞄を置いてから生徒会室に向かうから」
「分かった。でも、本当に罰とかなら私達も一緒だからね?」
「ああ、有難う香織」
涼がお礼を言うと、満足したのか二人とも納得した顔で教室に戻って行った。涼はというと、鞄を置くために教室へ入ると、早速何をしでかしたんだ、という顔で見られたり、冷やかしの声を掛けられまくった。
× × ×
「おはようございます、生徒会長様。朝からお呼び頂き大変迷惑です。うざいです」
生徒会室に着いた涼は、不機嫌さを隠さずに寧ろ強調する様に挨拶をした。正直、朝から一美と香織を誤魔化したり、クラスの連中から冷やかされて良い気分では決してない。それが目の前に居る人物の所為ともなれば、当然の態度だ。
「ご丁寧な挨拶と惜しみない暴言有難う。寝不足でイライラしているのかしら?」
「いえ、僕の目の前に居る琴乃とかいう人間によるものです」
「あら、会ってから二日目で名前で呼ぶなんて大胆。でも、私としては名前でいいからそのままでいいわよ」
「では、琴乃。今日は何の用で呼び出しのでしょうか? 屋上の件については、鍵も返してますし罰も文化祭の手伝いと聞きましたが、早速ですか?」
「いえ、その件についてはまだ良いわ。今日は少し個人的な用で呼び出しのよ」
「生徒会長の権限を使ってですか?」
「ええ。貴方は知らないと思うけど、私と涼って結構親密な仲なのよ?」
そこで琴乃がくすりと笑う。その笑みから取れる思惑は見抜けなかったが、どうせ琴乃の事だ、適当な事を言っているのだろう。
「僕の記憶の限りではそんな事は――」
「記憶喪失」
一瞬、思考が停止した。
「記憶喪失である人が『記憶の限り』なんて断言出来るのかしら?」
琴乃の口から思わぬ言葉が出てきて、思わず身構えてしまう。こいつ、琴乃は何者だ?
「お前、何で僕の記憶喪失について知っている?」
「そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない。それよりも、記憶喪失について、不便だと思わない?」
「思わない」
「私が涼の記憶を取り戻させる事が出来る、と言ったらどうする?」
「そんな事が――」
「出来るわ。私は貴方の知らない十二年間を知ってるわ。正確には十二年間と半年、よね?」
(こいつ本当に何者だ? 何故、僕の記憶喪失をそれもこんな明確に知っているんだ?)
「約十二年間の記憶の欠損、生きていく上では十分な不安材料にならない? 特に本当は香織なんて知らない子と恋人同士だった、なんて言われたら困惑するわよね」
「……どうしたら記憶が戻る……!」
「私の個人的な頼み、というより、願いを叶えてくれれば、涼の記憶を取り戻させてあげるわ」
「琴乃の願いは何だ?」
「この写真を見て貰える?」
琴乃から一枚の写真を渡される。写真には知らない男女が二人写っていた。
「まさか、この男女をくっつけろ、なんて言わないよな?」
「ふふ、まさか。それにとっくの当にその二人は夫婦になっているわ」
「じゃあ、何をするんだ?」
「殺して頂戴」
ふざけてるのか、と涼は思ったが、琴乃の顔は真剣その物だ。笑ってもいなければ、目を鋭くして涼を睨んでいる。
殺し――そんなのは立派な犯罪だ。殺せば、記憶を戻してくれるか……割りに合わな過ぎる。一歩間違えれば此方が死ぬかも知れないし、最低でも刑務所行きは確実だ。
「殺しは駄目だ」
「そう。じゃあ、私が殺すわ。貴方はそれを補佐して頂戴」
「……自分の言っている事が分かってるのか?」
琴乃は頷く。どうしてこいつは殺しに至るまでの感情をこの男女に抱いているんだ? いや、それはともかく、補佐でも犯罪は犯罪だ。
「お願い出来ないかしら?」
「補佐でも十二分に犯罪だ。殺しではない方法は無いのか?」
「……」
「話にならないな。もう始業のチャイムは鳴ってるし、僕は教室に戻らせて貰う」
涼が生徒会室から出ようと、ドアノブに手をかけると琴乃がその手を握ってドアノブから手を離す。
「待って! 貴方も私の事情を聞けば納得してくれるはずだわ!」
「納得出来ても殺しは駄目だ!」
再びドアノブに手を伸ばすが琴乃がドアの前に立つ。
「お願い! どうしてもあの二人を殺したいの!」
「邪魔だ、どけ!」
涼が琴乃を突き飛ばすと、琴乃が反射的に涼の手を掴んだ所為で縺れ合う形で倒れてしまった。
そして――涼が琴乃に覆いかぶさる形で涼と琴乃の唇が重なっていた。