天日の衣
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
積み重ねっていう奴は、つくづく大きい意味を持っているなこーくん。
な〜に、必ずしもプラスの意味で言っているわけじゃねえよ。振り返ってみて「なんで俺はあんな時間を……」などと、後悔する時が増えるというわけだ。長く生きてくるとな。
チリも積もれば山となる。ポジティブな意味にとらえて、エネルギーにするのも大いに結構。だが、多くのものに必要とされて、初めて山になるんだ。人が立ち入らなくても、他の動物たちには大好評だろ?
方向が合っていなきゃ、チリも積もってゴミとなる。てめえだけで満足して、てめえだけが勝手に消えていくなら構わんが、他の人までゴミの中に巻きこんじゃあ、しゃれにならん。
自分が積み重ねている「チリ」とは、どのようなものなのか。時には冷静に見られる視野なり、足場なりが欲しいものだな。頑張っていると自負しているなら、なおのことだ。
その積み重ねについて、ひとつ昔話を聞いたんだ。努力家のこーくんとしても、耳に入れといて損はないと思うぜ。
むかしむかし、ある山奥に小さな村があった。
木をこり、獣を追って暮らしていたその村には、ひとつ特徴的な風習が存在したという。
それは家の外においた物干し竿に、最低一枚は服をかけた状態にしておくんだ。晴れの日はもちろん、雨の日でも、風の日でも、雪の日でも。
服はそのたび竿にかけられた状態で、丁寧に汚れを落とされるのだが、家の中に取り込むことは絶対にしない。途中で竿から外れて地面に落ちたものでも、洗い直すことはせずに、そのまま竿にかけ続ける。
ひとつの服に関して、その苦行の時が三年間は続く。その拷問のごとき刑期が終わると、今度は紫色の風呂敷に包み、家の片隅にそっと置いておくのだ。
どうしてこのように雨ざらしになる衣服を、後生大事に扱うのか。そのような素朴な疑問をぶつけてくる子供たちに対し、大人たちは「じきに分かる」と答えるばかりだったから。
ある年の春。村にほど近い山道で、一人の男がうつぶせに倒れているのが発見された。辛うじて息があったものの、背中の骨はひしゃげ、喀血の具合から内臓をずいぶんと痛めたものと見られた。
村人たちの手当てもむなしく、男は数日後に命を落としてしまうのだが、意識がはっきりしている時に、彼は村人たちに告げた。
「不意に、巨大な足につぶされてしまい、痛さのあまり声を出すことも、身動きを取ることもできなくなり、あそこでぶっ倒れていた」と。
それを聞いた大人たちは、男の葬儀が済むと、あわただしく動き始めた。村の大人しか使わないけもの道のうちのひとつ。その両端に、一定の間隔を置きながらろうそくを立てていくんだ。
その作業は、昼間いっぱいの時間をかけて行われ、その間子供たちは家の中で待っているように言いつけられた。家によってはカギやつっかえ棒を使うという、徹底ぶりだったらしい。
そして、それぞれの家に親たちが帰って来たのは、夕方のこと。あの服を包んだ風呂敷を手に取ると、ついてくるように子供たちに声をかけ、その腕をとった。子供たちの中には反発する者もいたけど、それに対しては大人が数人がかりになってでも、力づくで押さえ込むことさえしたらしい。
拒む権利はないのだ。悟った子供たちは、普段とは違う大人たちの姿に、身震いするほどだったとか。
例のけもの道の入り口に連行される子供たち。すでに足元の存在すらおぼつかない、薄暗がりに浮かび、かすかに揺れるロウソクの炎は、彼岸へ渡された橋の欄干のように思えた。
子供たちは風呂敷の中身に、着替えさせられる。いかに「お世話」をされたといっても、三年間の雨ざらしだ。変な臭いやカビまみれならいい方で、腰も足も丸見えになってしまうような、ボロ布と化した服をまとう羽目になった子もいた。いずれも、文句を垂れたとたんに鉄拳が飛んで、黙らせられたけど。
不満と怯えに苛まれる子供たちひとりひとりに、しゃもじによく似た形の、小さな木べらが配られる。全員に行き渡ると長老が口を開いた。「これから子供たちには『肝試し』をしてもらう」と。
「三人で一組となり、このロウソクで照らされる道を、縦に並んで進むんじゃ。途中でロウソクが途切れてしまうが、構わずに前へ、前へと進め。やがて目の前に、こんもりとした小さな山が見えてこよう。その山は、木べらで削れるほどに柔らかい。そこから一掴み程度の土を削り、各々が持って帰って来るんじゃ」
前の組が土を持ち帰ったのを確認したら、後の組が入れ替わりに出発することになる。一番手は、家を出る時も先ほどの着替えも、文句タラタラだった三人組。いずれも顔面を殴られて、まだヒリヒリしている。
背中を押されるがままに、しぶしぶ出発。蛇行するけもの道と、それに沿って立ち並ぶろうそく。更には見張りの大人たちまでところどころに立っていて、出し抜くことは難しい。
どうにかして、大人たちを困らせたい。そんな気持ちを胸の奥ににじませながら、ずんずんと前に進む三人。
やがて、聞いていた通りにろうそくの欄干は、姿を消した。大人たちももうその奥には立っていないようだ。これは幸い、と三人はすぐに明かりなき道へと踏み込んだ。
歩き慣れていない山の中だが、バラバラに散らばればすぐには大人にも見つからないはず。ばかげた「肝試し」を台無しにしてやると、彼らは息まいていた。
ところが、いざわき道に踏み出してみると、どうだろう。
足が「ずぶり」と何かに漬かった。沼の中に足を踏み入れてしまった感触。足の裏からひざにかけて、ぞわぞわと冷たさが駆け上がり、三人は身震いしながら足を元の位置へ戻す。試しに、少し先へ進んで同じように脇へそれようとしても、結果は同じ。
ろうそくより先。自分たちの両脇は、すぐに水たまりと化していた。しかもどれだけの深さか分からない。
まっすぐに進むしかなかった。彼らは今さらになって、大人たちが見せた真剣な顔の意味を推し量り、下腹が緩み出すのを感じていた。
やがて三人は、大人五、六人ほどの高さのこんもりとした小山の前についた。恐る恐る横に足を踏み出してみると、ちゃんとした地面があり、横一線に並ぶことができたという。
すでにふんどしが湿り始めていた彼らに、やんちゃをする元気は残っていない。最初に申し渡された通り、木べらで山を崩しにかかる。
思ったよりも、柔らかい手ごたえ。まるで土を崩しているようで、三人はすんなり一掴み分を削り取ると、来た時と同じように一列になって引き返す。
帰り道は、誰も口をきかなかった。疲れたのか、足取りも行きに比べて重く、どこか動きもぎこちない。だが、ろうそくの道まで戻ってきた時には、思わず「ほうっ」とため息が出てしまったらしい。
道の入り口で待っていた長老は、大きな革袋を持ち、その口を大きく開きながら待っていた。促されるまま、三人は掴んできたものを袋の中へと落としていく。
にやりと長老は笑った後、後から出発するみんなに告げる。
「ろうそくから先、くれぐれも道を外れるな。さもなくば、こいつら以上にひどいことになるぞ」
言われて三人は、自分たちの膝から下がすっかり土に包まれて、固くなりかけていることに気づいた。
このまま動かせなくなってしまうのでは、と感じるほどの強度。慌てて水で流し落としたのだとか。
子供たちによる肝試しが終わって、数日後。かつてあの男が倒れていた場所に、奇妙なものが横たわっていた。
近くではこんもりとした小さな山に思えるが、遠くからだと、ふくらはぎを天に向けて転がった、巨大な脚に見えたという。それには、いくすじも、いくすじも切りつけ、削り取った跡がついていたんだ。
やがて、この巨大な山のような脚は、牛や馬のフンの塊であることが分かった。気が遠くなるほど集まり、固めでもしない限りは作れない、奇怪な代物。
それらの周りにわらが積まれ、周りの被害を考えながら、丸焼きにされるフンの塊。長老は子供たちに、このようなものがしばしば歩き回る時があり、被害を出してしまうことを話した。
あの三年間を通じて作られる服に関しては、夜、こいつの寝所へたどり着くための服装なのだと長老は話す。しかも、大人になってしまうと、これをまとったところで絶対に着くことはできないのだ、と続ける。
試しに、大人たちに連れられて、子供たちがあの肝試しの道を進んだところ、ロウソクとともにけもの道はとぎれてしまい、そこには代わりに、断崖が広がっているばかりだったという。