「私、何かしたかな」
窓の外では重たい灰色の雲から、その重みに耐えられず大量の雨が降り注いでいた。
教室中央列の、前から四番目──つまりは中央より少し後ろの席に座る葛城萌樹は、視線をそっと、窓側の一番前に座るやつへと向ける。
「動物の生態系は──」
今はお昼休みをすぐ後に控えた4時間目。生徒から人気の、若い男性教師による、生物の授業中だ。
クラスメイトたちが静かに真面目に黒板をノートに写す中、萌樹はペンを走らせるのを止め、じっとそいつを見ていた。
静かな教室に、教師がチョークで文字を書く音と、止みそうにない雨音がただ響く。
萌樹が見つめているそいつ。安藤昴は、至って真面目に授業を受けている。
おかしなところなんて何一つ見当たらない。
昴の少し色素の薄くさらさらの髪は、今日は珍しく、毛先に小さく寝癖がついていて不覚にもかわいいなんて思ってしまった。
男相手に可愛いとか。……無いから、うん。
「──葛城、」
「えっ」
すると唐突に、手を止めた教師が振り返り、萌樹を呼んだ。
萌樹は驚いて、反射的に視線を昴から教師へと移す。
「手止まってるぞ」
「は、はい」
それだけ言った教師が再び手を動かすと、まるで連動するように生徒たちの手も動く。
(ぼーっとしてた、やばい。)
そういえばもうすぐ期末テストが迫っていたはず。昴を見ている場合じゃないんだ。
萌樹はもう一度だけ、ちらりと昴を見て、それからノートにペンを走らせた。
昴は相変わらず真面目にノートを書いていた。
ちょっとくらいサボってもいいのに、と萌樹は思う。
ただ、今の萌樹にそんなことを考えている暇はない。
教師が黒板の右半分に説明や図を書いているのに対し、萌樹はまだ左半分すら書き終えてなかった。
先生が消す前に書かなくちゃ、と慌てながら、萌樹は授業を聞かなかった自分を少しだけ悔むのだった。
少しだけね、少しだけ。
「もーえーぎ! 購買行くー?」
授業も終わって昼休み。
ショートカットに短いスカートからはジャージか見え隠れする、見た目からして活発そうな少女が、授業中に間に合わずまだノートをとっていた萌樹に声をかけた。
「ごめん、先行っててー」
申し訳ない、という風に萌樹はペンを一旦止めて少女、七峰空良に告げる。
「じゃああたし、買ってくるよ? 何がいい?」
「いいのっ? じゃあテキトーにパンお願いしていい? あとコーラ。 なかったらとりあえず炭酸で」
萌樹は大の炭酸飲料好きだったので、購買に行くときは必ずと言っていいほどコーラを買っていた。
萌樹の中学からの親友である空良もそのことは知っていたので、「相変わらずだね」と笑った。
空良が教室を出た後、萌樹はノートを書き終えペンを置き、「つかれたーっ」と机に伏せる。
ああ、もう。全部あいつのせいだ、あいつの。
……なんて、ただの八つ当たりに過ぎないのだけれど。
「安藤ー!」
「っ!」
昴の名前に反応して、勢いよく起き上がる萌樹。
名前の主を見つけようと教室を一通り見渡した後、ハッとして、うつむき顔を抑える。
(ちょっと、意識しすぎだって……)
いや、それも無理はない。他の人だって、こんな状況になったら嫌でも意識してしまうだろう。
教室の後ろのドアの側に立ち、他クラスの男子生徒と和気あいあいと話していた昴が、何かを思い出したかのように振り返り、自分の席へと向かう。
その途中、萌樹の席の横を通った。
それに気づいた萌樹が、顔を覆っていた手の隙間から昴を見る。
目は、合わない。
もう、一週間もだ。
鞄から取り出したお洒落な革財布を持った昴は、再び萌樹の横を通り、待っていた他クラスの生徒と共に教室を出ていく。
それとちょうど入れ違いに。
「萌樹!お待たせ!」
沢山のパンを抱えた空良が、教室に戻ってくるやいなや、そう叫んだ。
「ちょっと、声大きい」
クラスメイト達が一斉に空良の方を見たので、パンとペットボトルを受け取りながらたしなめる。
「あはは、」
「ありがと、いくらした?」
「750円になりますっ!」
萌樹の斜め前の、自分の席から椅子を動かし、萌樹と対面するように配置しながら言う空良。
ちょっと訛ったこの喋り方は、どうやら購買のおばさんのモノマネらしい。
最近、気に入ったのか毎日のようにやっている。
残念ながら、似てるかどうかは萌樹にはわからないので、愛想笑いでやり過ごす。
「あれ、似てないー?」
萌樹の愛想笑いに気付き、大人しく椅子に座った空良の前に、100円玉を八枚置く。
「ごめん、50円がなかった。空良持ってる?」
「持ってるよーん、待ってね。 はい、おつり」
「どうも。ありがとね」