きばとないふ
狼たちは火を恐れ、こちらを包囲して用心深く歩き回っている。だが諦める様子は無いようだ。朝まで起きていることくらいはどうということは無いが、この状態はどうにもまずい。
歩き回る彼らは一様に腿などの肉付きが少なく、いかにも飢えているようだった。足を傷めた羊など望外のご馳走だろう。そして俺はそれを邪魔する厄介な障害というわけだ。
狂犬病などの危険な病原体を持っていないとも限らない。噛まれたりするような事態は避けたかった。追い払えるものなら追い払いたい。
低くうなりながら小走りにこちらへ駆け出した一頭へ、投石を試みる。野球のセットポジションに近い隙を小さくしたモーションから、出来るだけ鋭く――
「ギャン!」
肩の辺りに石つぶてを受けて、狼が鋭い悲鳴を上げる。怯んだそいつは包囲の円のやや外側へ後退した。
(さすがに、このくらいでは退散してくれないか)
知らず知らず自分が顎を強くかみ締めているのに気づく。二頭くらいで同時に飛び掛られて引き倒されたら、その時点で終わるだろう。
ダッフルコートは着たままのほうがいい。分厚い毛織の丈長なコートはナイフなどに対して十分に防具として機能するからだ。
グルルルとくぐもった唸り声を上げ、焦れた狼たちが輪を縮める。焼け付くような緊張の中で対峙が続く。
次の投石のために中腰で屈みこんだとき、群れのうち一頭がそれまでよりも大きく尻上がりの唸り声を上げ、突進してきた。
「グァルルルルゥワウガウ!」
飛び退って避けようとしたが、正直大学を出て以降、俺の体は鈍っている。回避が間に合わずデニムの左裾に食いつかれた。直接ダメージはないが、痩せた体の割りにものすごい力だ。
左腕で狙いにくかったが、火のついたままの粗朶を狼の頭に振り下ろす。火の粉が目にでも入ってくれれば、と思ったが命中したのは鼻先だった。落胆しかけるが、狼はものすごい悲鳴を上げて俺の足を離した。
(そういえば、犬って確か視覚にはあんまり頼ってないんだっけ)
彼らの知覚はむしろ鼻が主軸だ。神経が集中してものすごく敏感なのに違いない。人間で言うと足の小指をタンスの角に強打したとか、そんな所だろうか。
俺を強敵と認識したのか、群れは包囲を解いて森へ入った。緊張が切れてへたり込みそうになるが、森の暗がりの中にはまだ、光る目がこちらを伺っているのが見える。
「クッソ、こっちがへばるまで寝させないつもりか」
時折2匹ほどがちらちらと、空き地との境界に姿を現しては消える。
俺は焚き火のそばに下がってしばしの休息をとった。気づかないうちに汗をかいているのを初めて意識した。キュプラ繊維の作用で、本来なら冷える筈の体は心地よい熱気に包まれている。だがフリーダのほうは小刻みに肩を震わせていた。恐怖か寒さか。両方だろう。うずくまる羊をすがるように抱き、体温を分け合っている。
フリーダは意を決したように腰に手をやり、片刃の鋭いナイフを手に取った。彼女の身体に対比するとかなり大ぶりのものだ。
「トール……」呼びかけながらそのナイフを俺に差し出した。
意図するところは大体わかる。俺に狼を仕留めてほしいのに違いない。
だけど。そのレンジの武器を使うということは近接格闘戦だ。そんな訓練は間違っても受けてないし、噛まれるリスクも飛躍的に増大する。
一対一ならともかく囲まれて袋叩きよろしく噛み裂かれる状況は、俺の手に余る。いや誰の手にだって余るだろう。
それでも万が一の瞬間に、石ころや枯れ枝しかないよりはいい。しぶしぶそのナイフを受け取り、柄の握り具合を試した。滑り止めを兼ねて、独特の幅広な紐状の模様が彫刻されている。手にしっくり来る仕上げだ。刃渡りは40cm弱。ちょっと心強い気分になる。
バカな、錯覚に決まってるじゃないか。中二病もほどほどにしろ、こんな物をもったからといって、積極的に野生の狼と戦おうなどと考えられるものか。
地道に石を拾って次の襲撃に備える。こちらが疲れを見せたら必ずまた襲ってくるはずだ。火のそばを離れると危険なのであまり遠くへはいけない。この辺りの石を投げつくすようなことになったら……その時は?
どれくらいの時間がたったろう。ふと焚き火に目をやると、枯れ枝の大部分が燃え落ちて白っぽい灰と消し炭になりかけていた。火はまだ燃えている。狼のほうばかり気にして焚き火を見ていなかったようだ。フリーダはどうしたのかと、後ろを振り返った。
羊を抱いたまま眠っている。疲労が限界に達したのだろう。可哀想に、彼女にとっては散々な一日だったに違いない。しかも、まだ終わっていないのだ。予備に取っておいた枯れ枝を焚き火に補充するが、元の量の半分程度しかない。これまで燃やしていたほどの火は望めないか、さもなくば朝までに火が消えてしまう。これはいよいよ後がない。
静まり返った森から一頭、また一頭。再び狼たちが姿を現した。忌々しいほど、こちらにとっていやなタイミングをついてくる。まずい。
「フリーダ!起きろ!」
通じないとは知りつつ日本語で叫ぶ。名前に反応して顔を起こし、どうやら状況を飲み込んだらしい。
焚き火から彼女が燃えさしを一本とった。俺もとっくに消えた先ほどの枝に替えて、もう一本を掴む。右手にはフリーダに託されたナイフ。やるしかないならやってやる。
「イ゛ヤ゛アアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ!」
バンド全盛期のライブさながらに、耳をつんざくシャウトを上げた。アドレナリンがどっと噴出する、などという感覚が体感できるわけではないが、可笑しいほど腹が据わった。
人間の咆哮に応じて、狼たちもいよいよ殺気立って吼え猛った。包囲の輪をぐっと縮め、こっちの死角をとろうとぐるぐる廻りだす。
と、その喧騒の中、山側からの風に乗って人のざわめく声が聞こえた。油の焦げる匂いもかすかに漂ってくる。
ホルガーたちだ!ようやく異常を察知して、捜索に出てくれたに違いない。
(フリーダァーーー!)
(トーーーーール!)
まだ遠くおぼろげだが、確かにそれは俺たちを呼んでいる。なぜか涙があふれた。
ああそうだ、こんなダメ人間の俺を、彼らはフリーダと同様に名前を呼んで探してくれているのだ。
もう一度だ。船が村に着いたときの船員の叫びを思い出し、肺の空気すべてを吐き出す勢いで叫ぶ。
「アアアアアンッスヘエエーーーーーインムッ!」
崖の上、遠くからまた雄たけびがそれに答えた。煙の匂いが強くなる。
突如、二頭の狼が俺めがけて殺到した。なぜそんなことが起きたのかはよく解らない。
長い飢えのために群れの命令系統が崩壊したのかもしれないが、この時は考える余裕はなかった。一頭をかわしたがもう一頭は、跳躍して俺の喉を狙った。とっさに左腕を上げてガードする。
狼の鋭い牙がコートを貫いて俺の皮膚と肉に食い込み、突進の勢いで体勢が崩れた俺は危うく焚き火に頭を突っ込みかける。フリーダが悲鳴を上げた。
熱い。いや痛い。ナイフを狼の首につきたてようとしたが、転倒の際に手放してしまったらしい。必死に身体を起こし、いや転がり、獣の頭を左腕もろとも焚き火にねじ込んだ。狼が絶望的な悲鳴を上げる。周りには男たちがどすどすと崖を伝い降りて来ていた。犬そのままの鳴き声と、剣尖の立てる風音が交差する。
短い乱戦のあと、狼はさらに二頭の死骸を残して森の奥へと逃れたようだった。俺は落としたナイフを探し当て、力を失った野獣に止めを刺した。フリーダが気になって視線をめぐらすと、彼女は身体の前に燃える枝を掲げた姿勢のまま、顔をべとべとにして泣きじゃくっていた。
その後のことは断片的にしか覚えていない。村から捜索隊が持ち込んだロープで俺たちは崖を上がり、俺はホルガーに一発殴られた。それ以上はフリーダが必死にとりなして沙汰止みとなった。羊は何とか命をとりとめ、次の年には子を三頭生んだ。
俺の仕留めた狼の毛皮は、残念ながら焚き火の火で無残に焦げ目がついて使い物にはならなかったが、腰の辺りの僅かな部分はいささかしまらないトロフィーとして、俺のものになった。
狂犬病こそ発症しなかったが、肉食獣の不潔な歯牙で噛まれた俺は、熱を出して致死性感染症への恐怖に半狂乱になりつつ数日寝込んだ。
アンスヘイムの村はその冬風変わりな新メンバーを迎え、それ以外はいつもと変わらない厳しい冬を、しかしながら平穏に過ごした。
俺はその期間の大部分を、フリーダとインゴルフにノルド語を習いながら日々の労働に明け暮れて送ったのだった。