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がけのしたのふたり

 かろうじて俺の体は切り立った斜面に接したままで、直接地面に叩きつけられることは避けられた。膝や肘を岩でこじられ顎をすりむきながら、逆エビに反り返った情けない姿勢で崖下に到着する。



 痛みに顔をしかめながら体を起こす。顎のすり傷から少しだけ出血していることを除けば体に異常はなさそうだったが、ダッフルコートの前面にかなり残念な感じのすり切れが生じ、前あわせを留めるトグルとループが2個ほどちぎれていた。


 弁当は……一応無事と言える範囲だった。蜂蜜酒の桶から中身がこぼれて袋が濡れていたが、フリーダがあわててまっすぐに起こしたようだ。自分の分を崖の上においてこなくて良かった。コートのポケットに残っていたコンビニ袋で包んで、ベルトに結わえておいたのだ。少しつぶれていたが味が変わるわけじゃない。



 自分が落ちてきた斜面を振り返ると、やはりどう見ても徒手空拳では上れそうに無かった。手がかりになりそうな目立った凹凸が無く、憎らしいほど急角度だ。助走から踏み切ってジャンプすれば崖上の草の根に手が届きそうだが、勾配の関係で、同時に体をしたたかに岩にぶつけるだろう。


「じたばたしてもこうなってしまったものは仕方がないか。飯にしよう」

 つい日本語でフリーダに呼びかけた。パンをちぎって口に運ぶ。天然酵母らしく、あまり膨らまずにみっしりと目の詰まった黒っぽいパンで、酸味が強く歯ごたえがある。日本で言うと手作りパンの店にたまにあるようなものだ。

「うん、うまい」

 この時代に来て三食目。味付けがいささか単調だが、とにかく飯がうまいのが嬉しい。そんなことを考えながらモグモグやっていると、フリーダに後ろから頭を殴られた。

「痛ってえ」

 結構な力だ。何をするのかと振り向くと、涙をぼろぼろこぼしながら、崖と羊を交互に指差し、村のあるであろう方角を仰いで、ノルド語にしても支離滅裂な口調で俺を罵倒しながら両腕を振り回して殴りかかってきた。俺が救助を呼ばずに間抜けにもこの崖下に落ちてきてしまったことに絶望し、嘆いているのだろう。


 たまりかねて腕をつかみ、とっさに抱き寄せる。「ヒッ」と怯えたように息を漏らし身をすくめる彼女に、俺は傍らの袋を取ると、取り出したパンを押し付けるように彼女に渡した。

「いいから食えって」

 蜂蜜酒のせいで少し酔っていたのだろう。俺は通じないのも構わずに日本語で彼女に促し、自分も腹ごしらえを続行した。こうなったらもう、村の連中が異変に気づいて探しに来るのを待つしかあるまい。


 全部は食わずに、半分ほどをコンビニ袋に戻す。蜂蜜酒をもう一杯飲み、空いた角杯を新しく満たしてフリーダに渡した。食って飲めば少しは落ち着くだろう。涙目のまま角杯をあおる彼女は、酒のせいか少し紅潮している。 それを見ているうちに俺は、さっき抱き寄せたときに感じた彼女の肩の柔らかさを思い出して、少し落ち着かない気分になった。


 しばらくお互いに無言になる。足を傷めた羊はうずくまって時折切なげに鳴いていた。フリーダが悲しそうにその羊の首を撫でている。だいぶ傾いた日が雲に遮られてかげり、海側からどっと冷たい風が吹き付けた。

 崖上に時折注意を払うが、救助が現れる様子はない。これは夜明かしもありうる。


 俺自身には喫煙の習慣はないが、照井がライブハウスの楽屋に置きわすれていた使い捨てのガスライターを、どこかのポケットに突っ込んだままだった覚えがあった。

 ライターはすぐに見つかり、それはまだ液化ガスを半分ほど、透明な紫色のプラスチック容器に残していた。

(19世紀の小説みたいで気が引けるが、まああるものは使うさ)

 俺は立ち上がってそこいらの枯れ木や乾燥した草などを集め始めた。フリーダも俺の意図に気がついたようで、手伝いに加わる。落ちた場所から10mほどのところに、風除けになりそうな岩があった。

 俺はそこをシェルターに定めた。羊も残してはいけないので四苦八苦して背負い、移動させる。このまま雨でも降り出したら多分こいつは死んでしまうに違いない。


 夜になると地表には山側から風が吹く。俺はそれを計算して、海側に面した場所に焚き火の準備をした。ふと思いついて、コンビニ袋から食いかけの魚を取り出す。マスのようなその魚の皮は、脂が乗ってテカテカ光っていた。 

 うん、いい火口になりそうだ。乾いているように見えても、その辺に落ちてる枯れ木や草は、そう簡単に火がつくものではない。そのことは小学生のときに体験したキャンプで、苦い体験とともに頭に刻み込んでいた。


 とうとう日が落ちた。フリーダは半ば諦めたように膝の上に組んだ腕に頭を半分沈め、体育座りに似た姿勢で休息している。すぐそばには羊がうずくまっている。少し弱ってきているようだが大丈夫だろうか。

 俺は拾い集めた中で一番大きな枝を土台に、細い枝を積み上げて、根元に乾燥した柔らかなコケを集め、燻製の皮をねじ込んで火をつけた。

 火打石も使わずに起こった火を見て、フリーダが驚きの声を上げる。魔法かと疑っているようだ。


(フフフお嬢さん、こいつは魔法なんかじゃあない。1000年の未来から時の流れを超えて持ってきた100円ライター、文明の利器さ)

 言葉が通じないのは本当に不便だ。映画やドラマならこういうときは、お互いの身の上話や共通の趣味の話などで間を持たせるところなのだろうが、今の状態では気の利いた冗談ひとつ言えない。


 それでもまあ、焚き火の暖かさと明るさは、不思議と俺たちを落ち着かせてくれた。薪の中から細い枝を選んで魚の燻製を刺し、火のそばに立ててあぶる。温まって皮に焼き目がつき柔らかくなったそれを、ちぎってフリーダにも渡した。角杯に蜂蜜酒を汲んで回し飲みする。


歌でも歌うか。


 ヴァイキングメタルよりは、中世風のメロディがいいかもしれない。俺はイギリスの有名なコメディグループが主演した映画の、挿入歌を歌い始めた。

 鬱蒼とした森の中を進むキャメロットの騎士ロビン卿の後ろを、お抱えの吟遊詩人たちが楽しげに飛び跳ね歌いながらついていく――


 偶然にもロビン卿が吟遊詩人たちに歌をやめるよう命じるところのタイミングで、急にフリーダが声を上げた。

「Hatta! Hlusta adeins hljod. stodva lag!」

 声を絞って半ばささやくようなその様子にひどく切迫した物を感じて、俺も思わず歌をやめた。


 ウォオオオオオン――


 犬の遠吠えめいた声が聞こえる。まさか。


 背中を嫌な汗が流れ落ちる。時間にしておそらく一分かそこら、胃の痛くなるような静寂が続き、そして――


 フリーダが俺の袖を引っ張り、前方を指差した。月明かりの下で暗く沈みこんだ、海側の森。その木立の中に何対もの燃える眼があった。

 見るのは初めてだが俺にもわかる。狼だ。羊の匂いをかぎつけて来たのだろう。山側から吹く風に乗ってそれはやつらの元に届いたに違いない。


 森から姿を現し、じわじわと包囲の輪を狭め始めた六頭の獣を前にして、正直体が震えた。出来ることなら後をも見ずに逃げ出したかった。


 だが無理だ。ここから村へとつながるルートはわからないし、何よりフリーダがいる。俺はごくりと唾を飲み込み、焚き火から長めの燃えさしを掴み、足元にまばらに転がる小石を拾い上げた。



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