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ゆんぐはがほくそえむてんけいてきじれい

 駅から徒歩15分ほどの安アパートに帰宅すると、照明のおちた部屋の中で、学生時代に買ってそのままの固定電話が留守番電話の着信を知らせて赤ランプを点滅させていた。

 着信履歴を見ると実家からだ。このアパートの番号は教えてないはずなのに、どこから突き止めたのだろう。


 再生ボタンを押すと、親父の声がした。

(トオルか。大学でてから一度も帰らん、連絡もろくにせんとはどういう訳か。……母さんが入院した。脳梗塞げな。いま市民病院のICUに入っとる)


 後頭部を鈍器で殴られたようなショックを受けた。留守メッセージの最後には親父の携帯の番号が口頭で添えられていた。

「……やっと携帯持つ気になったんだな」

病院内で電源は切っているかもしれないが、とりあえず電話をしてみよう。


「もしもし、トオルです」


(トオル?よかった、留守電聞けたのね)

あれ? この声は。

「ケイコ? 何でそこに?」

(うん、帰省中に震災があったのは知ってるでしょ。危なかったのよ。津波にさらわれかけて、携帯なくしちゃってね。連絡取れなくてホントごめん。実家のあたりはあの後立ち入り禁止区域になっちゃって、無事だったおばあちゃんと一緒に避難先探してて――卒業旅行で一緒に九州に行ったときに、あなたの実家に寄ったのを思い出して……連絡取らなくてごめん。実家との連絡避けてたみたいだったから私からも教えないでいたの)


 生きてた! 生きててくれた!


「気にするなよ。うちを頼ってくれて嬉しいよ……ああ、俺、なんてバカな親不孝モンだったんだろう」

(おじ様、心配してたわ。帰ってらっしゃいよ。今から皆で助け合ってやっていけばいいじゃない)

「そ、そうだな。まずお袋が退院できるまでみんなで支えなきゃ――」

(と言うわけで、迎えの船をよこしたから。そろそろ玄関前に着くころじゃないかな)


 な ん だ っ て ?


「船?!」


 スマホをつかんだまま玄関へ出る。すると恐ろしいことにアパートの2階すれすれまで波濤逆巻く海が押し寄せ、そこには黒光りした全長50mもあろうかと言う巨大な巨大なヴァイキング船――ロングシップが、上半身をはだけた筋骨たくましい戦士たちを満載して波に揺れていた。

 彼らは一様に、牡牛も青ざめんばかりの雄渾な角をつけた見事なヴァイキング兜を頂き、剣の柄で盾をたたいてリズムを取りながら、何かテンポの早い歌を轟々とすばらしいデスボイスで唸っている。


 船尾では、樫の古木をそのままくり貫いた胴に「Pearl」と刻印された、いかめしいドラムセットを照井が刃を上に向けた手斧で叩き、フィルインに交えて鳴らしたロー・タムの反動をそのままに、返した腕で背後にある巨大なゴングを――


ジャアアアアアアアアアアアアン


「うわああああああああ!?」



 絶叫とともに目を開くと、そこは天井板がなくむき出しのはりが見える薄暗い木造の屋内だった。

 口元にかかったごわごわした荒織りの毛布と、狼か何かの毛皮の感触が、俺に現状を再び認識させた。


 ばね仕掛けの何かのように体を起こす。絶叫したその形のままに開いた唇からわずかに涎を滴らせ汗びっしょりの顔をした俺を、土間からフリーダが呆気にとられた様子で見つめていた。

 手には短い薪雑把まきざっぱを構え、ピカピカした銅製の鍋蓋を叩いた形で固まっている。


 どうやら日の出を過ぎ食事の時間になっても起きなかった俺を、たまりかねて無理に起こそうとしたらしい。してみると照井が叩いていたドラムの正体はあの鍋蓋だ。


 ひどい喪失感と罪悪感が胸に渦巻いているのを感じた。現実には、ケイコは明らかにあの震災で命を落としているはずだ。それが解っているのに、自分の身勝手な深層意識は実に都合のいい役どころを夢の中の彼女に押し付けていた。


 普通は悪夢を見たら起きた後安堵するものだ。だが俺は足場のない高所に取り残されたような心細さを感じた。今いるこの現実は悪夢よりもさらに常軌を逸している。

 それでも平穏な日常らしきものがそこにあることは、今の俺にとって例えようもなくありがたいことだ。いつの間にか何かの液体が頬を伝ってデニムの膝に滴り落ちていて、俺はあわててシャツの袖で顔をこすった。

 


 土間へ降りようとして靴が無いことに気がついた。

「あれ?」

 不審に思って辺りを見回すと、テーブルの上の食事――薄い平焼きのパンと昨日の肉スープの残りらしきもの――を尻目に、誰かが炉の明かりのそばでためつすがめつ俺の靴を検分している。茶色の髪に少し赤らんだ鼻のその男は、確か船にいた覚えがあった。


 腰のベルトに手挟んだナイフを取り出して、靴のアウトソール(靴底)とアッパー(甲革)を縫いとめる糸を切ろうとしている様子に、俺はあわてて靴下が汚れるのも構わず土間に駆け下り、腕を振り回して彼を制止した。

「Hold! halt! stop!」


 どの単語かが彼らの使う言語に近かったのだろう。あるいは俺の剣幕が功を奏したか、彼はさすがにナイフを引っ込めた。


 そういえば彼らの靴は、先のとがった原始的な皮袋めいたもので、モカシンによく似た縫い方でかろうじて足の形に合わせてあると言った様子だ。安物とはいえ、現代のきちんと縫われた合成皮のカジュアルシューズは興味を引いたのに違いない。してみるとこの男は、皮革や布製品に類するものを扱う職人なのだろう。

 何とか靴を取り返して履き、テーブルに着くと、男と同じ食事が用意された。男も俺のすぐそばの席に陣取ってなにやら真剣この上ない剣幕で俺の靴を指差しながらまくし立てる。


 男の名はロルフと言うらしい。興奮して早口でしゃべるので、もともと片言もわからないノルド語がもう音も聞き取れない。とにかく、彼の様子からは俺の靴にいたく感銘を受け、製法や構造を学びたがっているらしいことは分かった。


 分かったが――


(困ったなあ)

 靴の製法には正直明るくない。もし今俺が履いている靴を彼が再現したいのなら、最終的にズタズタに切り刻まれるのを覚悟で現物を提供するしかないのだ。


 ふと思いついてポケットに手を突っ込む。もはや何の役にも立たないであろう濡れたスマホが指に触った――これじゃない。別のポケット。防水になっている内懐のポケットに大判の手帳が入っている。これだ。


 まくし立てるロルフに手を向けて何とかとどめ、手帳の紙を一枚ちぎって胸元からボールペンを取り出し、革靴の下手な絵を描いてみせる。

 写実的な画法など知らなかっただろう目の前の男はさらに目を剥き、呼吸を荒くした。

 それには気づかぬ振りを決め込んで、袋状の内革と甲革、それに木材あるいはコルクを皮革で包んだ靴底ソールの模式図をなんとか示して見せた。縫製の仕方までは分からないので、プロの判断に任せよう。

「オーディン!」

 ロルフは感極まって叫ぶと、メモを引っつかんで屋外へ駆け出していった。


「靴もオーディンでいいのかねえ」

 まあ、旅人の神だしそんなものでいいのかもしれない。餅は餅屋、北欧神話は北方人だ。


 平焼きパンのさくさくした食感は思いのほか俺の好みだった。満足して食事を終える頃には、インゴルフは既に食事を終えて屋外のどこかへ出ていってしまっていた。がらんとした家の中に俺とフリーダだけが残っていた。


 立ち働いている彼女をなんとなしに観察する。現代人の感覚に照らす限りフリーダはなかなかの美人だ。北方人に特有の白い肌。後頭部で優雅な形に結った金髪はそこから肩へポニーテール風に流れ落ちている。広めで明るい額の下では青みを帯びたグレーの瞳が、時おり炉の明かりを映して輝き燃えていた。

 肩の辺りの肉付きが薄い感じや首周りの皮膚の張りからは、彼女はまだせいぜい十三、四歳の少女のように思われた。細腕ながらにこの家の女主人として、家事一般を一手に担って働いているのだろう。


 食卓を片付けると、フリーダは俺を促して外へ連れ出した。何か仕事をさせたいらしいのは雰囲気で解る。ついて行った先は30頭ほどの羊が飼われている小屋囲いだった。

 

 羊と言っても、メリノなどの後代に改良された種と違い、頭に太い角を生やし、縮れの少ない荒い毛の生えた野性味あふれる品種だ。こいつの毛を糸に紡ぐのは大変だろう。角の小さな、体高(肩までの高さ)の低いものが「Anlo」、角の発達した体高の高いものが「saudfe」と言うらしい。

(Anloが雌羊かな?)

 そう見当をつける。フリーダは俺に手伝わせながら雄羊を囲いに残し、雌羊を従えて村の後背にある急勾配の斜面へと向かった。途中、納屋らしきものの傍らに手押し車が置いてあるのを指差されたので、それを俺が押していく。

 なれない地形によたよたしながら彼女と羊を追った。21世紀の都市部で暮らした人間の足には、いたるところに岩の露出したこの辺りの不整地は厳しい。

 何度か小石にけつまずいて膝を汚したが、フリーダは特に俺を笑うでもなく、軽い足取りで羊を草地に導いていく。よくよく見ると、この手押し車とほぼ同じ寸法の車輪が穿ったものらしい深いわだちが草に隠れているのが分った。それは斜面を横切って山のほうへ延びている。

(何だ、これに沿っていけば良かったのか)

 俺は苦笑しながら行く手の山を眺めた。


 辺りに漂う針葉樹と腐植土の匂い。胸深く吸い込むと、北ヨーロッパのほとんど手付かずの自然の中にいるのだと実感できる。からりと晴れ上がった上天気だが、時折ひどく強い風が吹き付けて首をすくめさせた。

 低地の所々にしがみつくように生えた広葉樹が、葉を黄色や赤に染めているところを見ると、ここでもやはり季節は秋深い頃のようだ。


 轍が行き着いた先は、斜面から不意に突き出たように切り立った、暗い灰色の岩壁の下だった。何度も崖崩れが起きた場所らしく、大小さまざまなサイズの岩が転がっている。

 天然の採石場といった感じだった。フリーダがそのうちのひとつを指差し、次に手押し車を指差した。大体漬物石にするのによさそうなサイズの岩だ。これを車に積み込んで村まで運べ、と言うようなことらしい。

 やれやれ、食った分は働くか。多分建材とか、かまどの補修とかに使うのだろう。


 そういえば、あの平焼きパンは味こそ申し分なかったが、どちらかと言えば保存食に向いた物だ。確か人類最古の発酵パンは紀元前には既に存在したはずだし、あの家では今パン焼き釜が破損しているとかかもしれない。


 石を動かせる限界まで積み込んで、俺は村までの下り道を慎重に荷車を押して行った。


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