一九四五年夏 阿見空襲
「いってきます」
香奈はそういって釣竿とバケツをもって鳴門屋をでた。あの一件から数か一か月ほどが経過していた。そこにいる彼女は部屋でふさぎ込んでいた彼女と同一人物だとは思えないぐらい元気だった。それは哲生の思いを知ったからだろうか。
「香奈ちゃん釣り」
「はい」
「香奈ちゃんはあそこが好き?」
彼女は何も言わずに首を縦に振りこういった。その彼女の顔には幸せが充ちていた。
「だってあそこにいけば哲生が守ってくれるんですもの」
「そっか。哲生は優しいな」
「はい」
「気を付けていくんだよ」
香奈はそんな会話を記者と交わしたばかりだった。
でもその朝は倉町の優しい言葉を打ち砕いた。それは朝の八時のことだった。彼女の住む阿見村にけたたましいを音が鳴り響いた。
香奈は空を見た。その時、彼女の脳裏には二月の空襲が浮かんだ。あの時は海軍の航空隊が米軍の飛行機を追い払った。その航空隊には哲生が所属する部隊もあった。もちろん彼も出撃していた。が、今回はその彼は出撃していない。もう、哲生はもういないのだ。その彼は沖縄で散華し海鷲から神鷲となって帝都も靖国神社に祭られている。
それまで彼女は空襲が怖くなかった。いや、彼女にとってもそれは脅威であることは違いないかった。彼女の中には必ず哲生が守ってくれる。そんな安心感があった。
「香奈ちゃん」
そう呼んだのは堀口だった。あの予科練の文官教員の堀口だ。彼は予科練生を鹿島神社の防空壕に誘導していた。
彼はいわば予科練の教師だ。そして予科練生はみな彼の生徒だ。その彼の姿はその生徒を守るという気迫に充ちていた
「先生」
「ご家族は」
「お店です」
「そうか。香奈ちゃんだけでもこっちに」
彼はそういって香奈を予科練生と同じ防空壕に誘導しようとした。
「いいんですか」
香奈がそういうと堀口はそんなことを言ってるばわいじゃないといって彼女の肩を押し出したのだ。香奈はその堀口を振り返りながら七つボタンの予科練生に混じりその防空壕がある神社を目指した。
その道中、勾配のきつい未舗装の砂利も敷かれていない道が続いていた。その防空壕の中でも香奈は彼らに哲生のことを尋ねられた。どうやら彼らにしてみたら沖縄で散華を果たした彼は英雄らしかった。でも香奈はその彼らの言葉に素直に喜べなかった。香奈の気持ちの中に哲生に生きてほしかったという気持ちがまだあった。香奈はそれは未練がないとは言えなかった。




