一九九五年初春 卵焼き
「いらっしゃい。あっ」
そういったのは秋絵だった。
先月までこの店は店主の芳郎、女将の静、従業員の里美と香奈。この秋絵は週末の日曜。それ以外にも特にいがしいときだけ坂下秋絵が手伝いに来ていた。
この店の従業員が減った。この店のあとを継ぐはずだった里美がいなくなってしまった。それまで里美がやっていた仕事は香奈が引き継ぎ秋絵も平日もこうして秋絵が手伝いに来ているのだ。彼女は結婚し夫も息子もいる。夫は軍艦に乗りっぱなしでいつ帰ってくるかわからない。息子の一人は台湾。もう一人は筑波で飛行機乗りになっている。彼女の時間を縛るものは何もなかった。
哲生は暖簾をくぐると軽く頭を下げた。この日は平日で時間も早かった。陽が傾くにはもう少し時間が必要だった。ここに来る客はほとんどいなかった。そして今現在は従業員以外いない状態だ。
彼は秋絵がここにいることを知っていた。そのことはこの前、宍戸に倉町が来た時にきいていた。それは哲生にとって好都合だた。母親である秋絵に会えそして静にも会うことができるのだ。彼の思い人でもある八恵は不在だった。
「哲生・・・」
そういったのは母親である秋絵だった。
「秋絵さん座ってもらったら」
そういったのは静だった。
それを聞いてあわてて秋絵は哲生を座らせた。
「哲生今お茶いれるからね」
そいうと静にいいよあたしがあるからすわといでと秋絵は着席を促された。
「すいません」
そいうと息子を座らせたテーブルの席に自分も腰を下ろした。
「どうしたの急に。くるなら連絡くれればいいのに」
秋絵がそいうと静がお茶をもってそこに割り込んできた。
「そうだよ。一言いってくれれば香奈にお使いなんていかせなかったのに」
そいって彼女は哲生と秋絵の前にお茶おいた。
「ごめん、予科練に用があってきただけだから」
「そうかい。それでわざわざよってくれたんだね」
静がそういうと今度は秋絵が彼に話しかけた。
「今日は泊まっていくのかい」
「ごめん。明日、訓練あるから」
「そうかい。哲生は教員だったね」
「うん、新兵が待ってるから」
「そうかい」
そういった秋絵は何か寂しそうだった。
「それじゃ哲生」
秋絵はそいうと哲生は無言で母の顔を見た。
「何が食べたい。今、かあさんが何か作ってあげるから」
「えっと、じゃぁ」
「なんだい」
「卵焼き・・・」
秋絵はその言葉を聞いて黙り込んでしまった。当時、卵は高級品。滅多に食べられるものではなかった。秋絵は女将である静の顔を見た。
「秋絵さん、作っておやり」
その静は秋絵に優しくそういった。「いいんですか」
そういうと二人の顔を見た。静は無言でうなずいた。厨房の奥から顔を出している芳郎も無言でうなずいている。
「ありがとうございます」
そういうと秋絵は席をたった。そして芳郎がいる厨房に入って行った。




