二話
平原は、フウロから通ってきた道よりも丈の長い草が鬱蒼と生え、ところどころ山のように巨大な岩が立ち並んでいた。岩と岩を飛び越える獣の群れ、遠くの湿地に見える小型の竜。普段なら決して近くで見ることのない魔物たちがここでは幾千幾万といる。
リヒトは平原に踏み入って数十分が経過していたが、すでに五体の魔物を撃退したあとだった。
フウロで幾人の戦士と力を競い合い、その実力を認められていたとはいえ、実際の魔物との戦闘はわけが違う。駆け出しの魔導士は、これから先の道のりに薄っすらと不安を覚えるのと同時に、高揚感も手にしていた。
少女は、親の顔を知らない。
物心つく頃には、フウロの老夫婦の娘として育てられていた。
二人はリヒトとの出会いを話してはくれなかったが、『拾われた子』だというのは子供ながらに理解できた。
近所の子供に意地悪なことを言われるたび落ち込むリヒトに、二人はいつも言ってくれた。
「お前は神様に選ばれた子だ、卑しい捨て子なんかではない」
幼いリヒトにその言葉の意味は分からなかった。けれど、二人が実の娘のように自分を愛してくれていることは感じていたし__「選ばれた」ということなのか、リヒトは幼い頃から魔法に長けていた。特に、氷の魔法。
手の中で小さな雪の結晶を作り出したあの遠い日__それから少女は鍛錬を重ね、フウロいちの魔導士へと成長したのだった。
どすん。
思い出に浸っていたリヒトを、突然振動音が現実に呼び戻した。
どうやらそれは、すぐ近くから聞こえてくるらしい。
ずん、ずん、と心臓を直接叩くような巨大なその音に、リヒトはあたりを見回す。
「くそっ、離れろ、このっ!」
ふと聞こえた声の方向にふりかえって、リヒトはあっと声を上げた。
クリムゾン、俗称でそう呼ばれる地上の小型竜が、ソルジャーのような見た目をした少年の剣に噛みついていた。振動音は、クリムゾンのものらしかった。剣を渡すまいと少年が暴れるたびに、竜はじたばたと足を踏み鳴らす。
少年は剣を取り戻そうと必死にもがいているが、それが逆効果のようだ。興奮状態のクリムゾンは地団太を繰り返し、そのたびに木々が揺れる。
どうする?心の問いに答える前に足が動いていた。黙って見ていられるわけがない。
「伏せてっ!」
突如響いた見知らぬ声に、少年は驚いてこちらを見た。宝石のように真っ赤な瞳。一瞬その赤が揺れて、しかしすぐに彼は剣から手を放しその場に屈みこむ。と、丁度ぴったりのタイミングで、リヒトの放った氷のつぶてがクリムゾンに命中した。
グゥゥ、と深い唸りをあげて、赤い鱗の竜がこちらを向く。途端に、開いた口から剣が転がり落ちた。赤目の少年がすかさずそれを拾い上げる。
「ほら、今よ!」
クリムゾンの注意は完全にこちらに向いている。一発、もう一発とつぶてをぶつけながら、リヒトは少年に叫んだ。彼は小さく頷いて、思い切り助走をつけ地面を蹴った。細い痩躯が宙に舞い上がる。
「おりゃあああっ!!」
少年の振り上げた剣が大きなIの字を描いて勢いよく降ろされる。旋風のような一撃。剣は竜をまっすぐ縦に貫き、クリムゾンは果実を握り潰すような鳴き声を上げ、一瞬光ったかと思うと、あとは粉になって消えた。
良かった。リヒトはほっと息をなでおろす。しかし少年は殊更に安堵したようだった。
額の汗を拭い、大剣を背の鞘に引っ掛け、あの宝石のような赤い目を輝かせリヒトの元へ小走りでやってきた。
「君! えっと、あ、ありがとう! 危ないところだったよ!」
「ええ、本当。別に礼なんていらないのよ」
絹のような白く細い髪に、真っ赤な瞳。ハイネックでノースリーブの黒い上着に、だぼっとした薄汚れたズボン。そして、背中に抱えた大きな黒い剣。彼の格好は、港でもよく見るソルジャー達のそれとよく似ていた。
リヒトは簡素に自己紹介をすると、少年に名を尋ねた。彼は子供のようにキラキラした瞳を少し細めると、どこか照れたように言う。
「セオ。セオ・フランムって言うんだ。ここから少し西の……ローズマリーって村、知ってる? 俺、そこから来たんだ」
「ローズマリー? 名前だけ知ってるわ。私、フウロから来たの。結構近所なのね」
「フウロって言ったらお洒落な港町じゃん、かっこいい! こんなところでご近所さんに会うなんて思わなかったよ」
こんなかっこいいご近所さんにね、とセオは付け足した。
その悪戯っぽい笑みに思わずリヒトも吹き出してしまう。
ここで立ち話をするのもどこか気まずいので、どちらからともなく、二人は横に並んで歩きだした。
セオはローズマリーという西の小さな村出身で、フリーの戦士をしていると言った。フリーの、というのも、戦士というのは村や町ごとの兵に努めるのが一般的で、中でも聖府の軍人になることは最高の名誉とされていた。そういった枠組みに入らず、クエストと呼ばれる依頼をこなしながら自由に活動するのが、いわゆるフリーの戦士。
彼は村々を回ってクエストを受けていると話した。なんでもまだ戦士になって二年そこらで、全てが上手くいくわけでもないとか。先ほどの戦闘の様子を思い出し、リヒトはなるほどね、と小さく笑った。
セオは確かに少々情けない様子だが、一人でいるよりはいくらか気持ちが楽だった。
話してみると彼は同い年で、好きな本も歌もリヒトと被るところがいくつもあった。それにこの、人懐こい笑顔。これなら依頼に失敗しても、私なら許してしまいそうだ__そう思ったりもした。
「ねえ、セオ。あなたはどうしてここにいるの? 北へ向かうってことは、あなたも王都行きなの?」
「ああ、いや……北というか、平原の中腹を超えたら西へ向かうんだ。アカデミアに用があって」
「アカデミア? って、あの機械都市、よね。クエストなの?」
「うん。結構厄介なものらしくてさ。そもそも辿り着く前にこんなのだから笑っちゃうけど……」
アカデミア、とは、大陸の北西に位置する巨大な近代都市だ。急速な開発が進み、街のシステムのほとんどは機械化されているという。そして都市全体が研究機関でもあるので、学園都市アカデミアとも呼ばれる。
リヒトは少し考えてセオを見た。アカデミアの厄介なクエストといえば、新聞で依頼をちらりと見たことがあった。確か、結構な厳しいものだったはずだ。セオ一人で大丈夫なのだろうか?
「……そのクエスト、さあ」
「ん?」
「私も着いて行っちゃ、駄目かしら」
本当は少し、彼に興味を持ち始めていたのもあった。
リヒトは王都に絶対の用事があったが、それはまだまだ先の日付けのことだ。アカデミアで少しの間滞在しても問題はない。
不安げにセオを見上げる。さすがに断られるかとも思ったが__彼の返事は意外なものだった。
「も、もちろん! 本当に来てくれるの!? わ、すっごい嬉しい!」
ぱああ、と顔を輝かせて言う。屈託のない笑顔。
思わずきゅんとしてしまう。リヒトは大きくそれに頷いた。
一人じゃ不安だったんだよ、と漏らすセオのふにゃふにゃの表情はまるで子犬のようで面白い。
少女は鞄を背負い直し、セオの背中をぱん、と叩いた。
「そうと決まったからには、さっさと進むわよ!」
「うわ、ちょ、ちょっと待ってリヒト! はやいはやい!待ってってば!」
どこまでも広い平原を、駆け出したばかりの戦士たちが進んでいく。
この小さな出会いがいずれ世界を揺るがすことになるとは、彼らはまだ、知らない。