一話
初夏の緑が、眼前にも足元にも眩しい。春を名残惜しむ蝶たちがブーツのすぐそばを掠め飛んでいく。
照り付ける太陽は容赦ない。オフショルダーのワンピースから出た肌を、じりじりと焦がす。
港町フウロを発って、もう二時間は歩いただろか。ふと足を止め、顔を上げる。首に薄っすらかいた汗を拭いながら、リヒトは後ろへ振り向いた。
若草色の絨毯の上に、幾十年もかけて踏み固められた道がずっとまっすぐ続く。見慣れた海も石畳も、磯の香りも、もう遠い。ここまで、来ちゃったんだ。唇をきゅっと噛みしめて、前に向き直る。もう一度振り返れば、覚悟が揺らいでしまう。リヒトは静かな草原を、少し足早に進んだ。
女神がかつて闇と混沌に支配されていた地上を平定し、クリスタルの歴史が始まって二千年。
魔力と言われるエネルギーを持つ石__クリスタルによって繁栄した人類の文明。今年は百年に一度、女神とクリスタルのもたらした平和を祝う年である。また、大陸の北部に位置する王都カトレアでは、二つの月が紅く染まる三日間に大陸最大の祭典__「聖夜祭」が開かれる。
百年に一度の大イベントとあって、東の果ての島々から西の砂漠まで、王都にはたくさんの観光客が集まる。リヒトもまた、しかし彼らとは違った目的のために、一人王都を目指していた。
ここは棲む魔物も気性が穏やかなのだろう、草原は落ち着いた静けさを持っていた。
ときおり聞こえる鳥の声。草木のこすれる音。見上げる空はどこまでも高く、鳥竜の影が頭上を通り抜ける。どれもこれも、フウロで見られるものとはまるきり違っていた。
フウロは大陸の最南端に位置する港町である。
白い石畳に色とりどりの家の屋根が映える、小さくも美しい町だ。
東の島々から入ってくる不思議な品物や、鮮やかな魚や貝。港にはいつも、そんなものたちが並んでいる。リヒトも近所の子供に混ざって、よく船着き場へ遊びに行ったものだ。
匂いも花も空も、フウロとは全然違うのね__リヒトは改めて感心した。そして同時に、今まで自分が見てきた世界の小ささを思う。もっとも、これは序の口ですらないことをまだ本人は知らないのだが。
少しずつ濃くなる緑を横目にリヒトは立ち止まって、しばらく前から気にしていたことに意識を留める。ワンピースの胸元の部分をちらりと捲って、(もちろん人目がないか確認してから、)肌に目を走らせ、少女ははっと息をのむ。
「消えてない……」
左の鎖骨から拳一つほど下にさがったところに、その文字は__「A」というアルファベットひとつは刻まれていた。二週間前に現れたそれは、水で流そうとこすろうと日が経とうと、消えることなくリヒトの肌にしっかりと刻まれている。
やっぱり、夢じゃない。選ばれたんだ。唇をかみ、胸元を正す。
その文字の示す意味を思い、弱気になりそうになる気持ちをおさえて、彼女は足を速める。
少し先に、木で出来た背の高い大きな門がある。あそこを超えればその先に広がるのは大平原、大陸の本当の入り口だ。今更怖気づくわけにはいかなかった。
胸のペンダントと、腕に光る二つのブレスレット。大丈夫、おじさんとおばさんが、私を守ってくれる__リヒトは故郷に残したあの優しい老夫婦の顔を思い浮かべた。身寄りのなかった彼女を、親代わりに育ててくれた二人だった。大丈夫、大丈夫。私は一人なんかじゃない。
何度も念じながら、重くなりそうな足を前に進める。
門番の兵士は、近付くリヒトに気付くと、だらしなく壁にもたれていた背筋をしゃきっと伸ばして咳払いをした。「通行料を」と告げる低い声は、確かに威圧的ではあるが機械的で、単調な任務に彼が退屈しきっていることを薄っすら感じさせた。
「お嬢さん、この先のエオニ……エオニオティタ大平原はな、おっそろしい魔物がそこら中に蔓延ってるんだ。止めはしないが、どうなっても知らないぞ」
手にした槍に体重をかけ、兵士は唸るように忠告する。
世間知らずな娘だ、とでも言いたげなその目にリヒトは若干むっとしたが、表には出さない。
ありがとう。大丈夫よ。兵士に簡単に言葉を返すと、リヒトは銀貨を二枚、彼のそのごつごつした手に乗せ、門に一歩足を踏み入れた。
途端に吹き抜ける風。耳元で一つにまとめた少女の長い髪をすり抜け、ワンピースの裾を躍らせ走り抜けていく。一段と濃い緑のにおいが舞い込んできた。
「わあ……!」
眼下に広がる景色にリヒトは息をのんだ。
エオニオティタ__「永遠」の名を冠するにふさわしい、壮大な平原がどこまでも、どこまでも続いている。
門の前の少し開けた丘の先に、勾配の急な坂が見える。その先は緑で一面に覆われ、ところどころ大きな沼や大木、岩の山なんかが点在している。ゆうゆうと岩を飛び越えていく狼たち、沼地で水を飲む細い馬、空には大きな翼を広げた竜のシルエットが遠くに見える。
地平線ははるか先。フウロから見る海とどこか似ている、そんな気もした。終わりのないように見える広大な、広大な平原。リヒトは足がすくむ思いがした。生半可な気持ちで足を踏み入れれば死を招く、そんな恐怖もあったが、彼女の胸にこみあげてくるのは好奇心と高揚だった。未知のものというのは、どうしてこんなに心を強く惹きつけるのだろう。
心なしか、胸の紋章がちくりと痛んだ気もしたが、少しも彼女には気にならない。
さあ、行くのよ。一度大きく息を吸い込むと、リヒトは強く地面を蹴り、平原に向かって飛び出していった。
__始まるは、記憶の物語。この先何度も、何度も思い出すことになる物語の、その最初の一ページ。それは今まさに、一人の少女によって開かれようとしていた。