ぼくらの大地
ぼくたちの世界はなんて狭いのだろう。象のからだを登ったとき、そう思った。
その背中はぼくらには十分なほどの大地のようであり、歩き出す度に地震が起こる。そうしてしばらく揺れてから、ときどきぼくらの足元からしょっぱい水が湧き出てくる。これはぼくらとは縁もゆかりもない、ホニュウルイだけが掻く「汗」というやつらしい。本当、あいつらは不思議だ。からだ中から水が溢れてくるだなんて。きっとのどが渇いて苦しいなんてことはないんだろうな。
昨日、ぼくの知り合いから聞いたことなんだけれど、昨日、彼は間違って象の長~い鼻の中に入ってしまって大変だったそうだ。あいつらは鼻の中に黒い森林を育てているらしい。鼻の中に吸い込まれたとき、彼はたくさんの黒い木々にぶつかって痛い思いをしたんだって。ぼくらの仲間の中の最も賢いやつが、それは「毛」というもんだよと教えてくれた。あれだ、蛾の幼虫がからだの周りに生やしているやつと一緒だ。ぼくはそれを連想して、かつてこの星を支配していたやつらが頭と目の上にだけ生やしていたあれもそうか、というのを思い出した。
ぼくは家に帰ったらまず明かりをつける。すると、兄貴が顔を見に居間へ出てくる。ぼくの兄貴は家事も手伝わずに、いつも部屋にこもっている怠けモノだ。だから背中に付いてる羽根だって、後から生まれたぼくよりピカピカなんだ。そうしてピカピカな羽根を持っているから、今度は女の子にモテモテなんだ。けれど兄貴は「一人のほうがラクなんだ」とか言って彼女らを部屋の前から追い払っている。ぼくの兄貴は、実におかしなヤツだ。
ぼくたちは、兄貴のほかに妹を混ぜた3人家族だ。しかし妹は働きに出ているから帰りが遅く、いつも夕飯時は兄貴と過ごす。兄貴はぼーっとして何も言わないけれど、ぼくはその日に経験したことを兄貴に話して、日記代わりにしている。兄貴はただぼーっとしているだけだけれど、相槌を打ってはくれるんだ。
だけれど、その日だけは違った。ぼくが今日象の背中に乗って遊んだことを話すと、兄貴は凍りついたような顔をして、ぼくを睨んだんだ。
「おまえ、母さんがどうやって死んだか忘れたのか」
もちろん忘れたわけではない。母さんは象に踏まれて死んだんだ。それもたくさん卵を抱えていたものだから、おなかにいた赤ちゃんも大勢、いっしょに。
「それも象の鼻に入っただって。いい加減にしろ。おまえの友人は死にぞこないだ」
確かにぼくの友人は馬鹿だ。何せ、象の鼻に吸い込まれたおかげで下半身を失ったというのだから。だから今日、ぼくは彼と出会って驚いた。何に驚いたって、からだが半分途切れてしまっているのにもかかわらず平然とニコニコしてその時のことを話すからだ。友人は、じきにからだの栄養が足りなくなって死ぬだろう。だからぼくは今日、彼と別れるとき、「じゃあね」ではなく「さようなら」と言っておいたんだ。
ぼくらがそんな話をしていると、妹が帰ってきた。今日もサービス残業だったそうで、くたくたになりながら居間の隅っこで寝そべってしまう。でもぼくらの生活源は唯一の働き手である妹だけなので、ぼくは「明日は休めば?」なんて言えない。兄貴も、何も言わずにまた部屋へ行ってしまった。
「おにい、母さんの話してたの?」
「そうさ」
どうやら少しだけ聞かれてしまっていたらしい。母さんのことを話題に出すと、最も悲しむのはこの妹なのだ。
「ねえ知ってる……? 今朝、そこの塚が象どもに食い荒らされてたって」
「その塚って、あの大家族の?」
「うん。私の知り合いが言ってたんだけどね。象たちはもう、私たちくらいしか食べる獲物がいないらしいの。ほら……昔はこの大地に、ホンモノの緑の木が生えてたって話、母さんから聞いたでしょ?」
ぼくが木をどんなものか知っているのは、絵本の影響だ。昔はこの土の上に、本当にあんなものがそびえ立っていたらしい。その木には、おいしい木の実や葉っぱがたくさん付いて、象たち動物はそれを食って生きてきたらしい。ぼくらがごく稀に見かける、噛むと固くて歯が折れちゃいそうなあのカサカサした塊は、種って呼ばれていて、木たちの卵だったらしい。卵があるってことは、木は生き物なんだ。
「なんかさ、昔は……足に変なもの付けた、毛が抜けたような猿たちが地上を歩いていたでしょう?」
「ああ、それは知ってる」
「あいつらって、どこ行っちゃったんだろうね?」
それはわからない。あの猿たちは、勝手な見方だけれど、何だかぼくらに似ている気がして好きだったんだけどな。ぼくらのようなネットワークを持っていて、朝から晩まで外に働きに出て、生きるためにつらいことも乗り越えていくんだ。
でもあの猿たちは、いつの間にか地上から姿を消したんだ。
いや、厳密に言えば生き残りはいる。何だか気力のないヨボヨボになった猿たちだ。頭の毛なんかも、歯も抜けちゃって、いつも二足歩行で歩いていたはずなのに、支えの棒がないと歩けないんだ。あいつらも、同じ種類の猿なのかな。だとしたら、どうしてヨボヨボになった猿たちは、消えなかったのかな。
ぼくらも、いつの日か、消えちゃうのかな。