グローブラビット
「くぁーっ、疲れた!」
俺は鍋を洗う仕事の手を休めて、腰を伸ばす。
思わず漏れてしまった声を聞かれたのか、斜め後ろから呆れた声が聞こえてきた。
「おいおい。ユーゴ。まだ昼前だろ。後、半日以上あるんだぜ?」
振り向くとバス先輩が、次の作業に入るために腕捲りをしていた。
「あちゃあ。先輩でしたか。お疲れさんです」
「しっかりなー」
「うっす!」
頬をぽりぽり掻き、バス先輩に返事をしながら、足元のデカイ鍋をよいしょと持ち上げた。
俺は今、半年前だったら絶対に逃げ出していた仕事を、異世界でしている。
店の名前は『レッドの鍋』。
レッドは店の主人の渾名で、髪色が赤いからきているらしい。
らしいっていうのは、現在、親父の頭に毛が無いから髭で判断。確かに赤毛ぽい。
仕事というのは、そのレッドの鍋って店、料理屋件居酒屋風酒場の厨房の下働きだ。
内容は、洗い物全般と、魔獣の肉を切ったり茹でたり、変てこな草や実を剥いたりすり潰したり様々だ。
これがまた火を使う時は熱いし、勿論力は使うし、汚れるし、滅法忙しない職場なのである。
高校に入学してから、小遣い欲しさに初めてバイトした場所は、所謂ファミレスと呼ばれるチェーン店だった。
そこではマニュアル化された接客をするのみだったのだが、俺が選ぶバイト先も、飲食業、ファミレスが多かった。
大学に入ってからバイトした飲食店は、ヘルプで厨房にも入ったのだが、俺が任される仕事は、実際に調理する事は少なく、パウチされたお一人様の分量をレンジでチンしたり、火を使う場合も既に味付けされた料理を、フライパンや鍋に入れて暖めたりするだけだった。
別に特別料理する事が好きだったわけではなかったのだが、賄いが目当てでバイトしていたから、自然と飲食関係の職場が多かったってだけだ。
俺が日本に居た時の名は佐伯優吾。
それ程頭も良くないし、運動神経もそこそこ。
へらへらと適当に過ごしていたら就職しそこなったんだが、合コンに誘われなくなった。ちぃーっと、その辺は世知辛いと思うんだけどな。
俺は見かけもスペックも平々凡々だったが、趣味はそれなりに幅広かった。
友人知人が多かったのもその関係が大きい。
だからかな。就職失敗しても楽観的でいられたんだと思う。
んで、買い物帰りに異世界に飛ばされた俺は、やっぱり料理屋で仕事をしていたのだ。
「ああ! グロラビ足りねぇよ!」
在庫を取りに行ってみると、ランチにも好評で、夜の酒場でつまみにも良く出るグローブラビットの肉が残り少なくなっているのに気が付いた俺は、慌てて厨房に戻り、バス先輩と親父さんに声を掛ける。
「親父さん! グロラビが」
「ほら、狩って来い」
言い終わる前に親父さんが作業の途中で包丁を投げてきた。
「ぎゃああ! 刺さっちゃうって、マジ、怖いから!」
「うるせぇ! さっさと狩って来い!」
「っす!」
狩って来い、というのは、買って来いじゃあない。
文字通り『狩って』来るのだ。
立っていた横の壁に突き刺さった包丁を引き抜いて手に持つと、前掛けを脱いで厨房を飛び出し俺は街の外に向かって走り始めた。
日本だったら考えられない格好である。
包丁片手にゼイゼイ言いながら走り、衛兵の居る街の門を潜る。
「お。今日もか。頑張れよー!」
暢気に俺を見送る門番に片手を挙げてひらひらさせながら、目的のグローブラビットの居る草原まで目指しひた走る。
「ったく。人使い荒いっつーの!」
グローブっていう位だから、想像出来るだろう。
前脚がやけに発達している大きな兎の魔獣だ。
こいつらは繁殖力が半端なく、街の傍の草原に行けば案外簡単に見つかる。
ただ、素早い。巣穴に逃げられてしまうと面倒だった。
あの耳が可愛いなんて思わないぞ。
よっし、頑張るか!
俺は草原の中にひょこひょこ見えているグロラビの長い耳を目印にじりじりと近づいていく。
ピクリ、とグロラビの耳が動いた瞬間俺は足に力を込めて地面を蹴った。
(逃げんな、よっと!)
俺の気配が四方に感じないグロラビは一瞬行動を止めて固まる。
俺は真上だ!
頭の後ろに構えていた包丁を、ダーツっぽい投げ方で飛ばす。
俺に見えている赤い部分、敵の身体の中心へ刺さる様にだ。
グサっとそこに包丁が命中し、グロラビが草の上にドサリと倒れる。
この世界の魔獣には魔核と呼ばれるものが身の内にあって、そこが急所になっている。
そこを攻撃すれば倒れるのだ。
俺には敵の魔核や魔素が赤く色づいて見えるという、先天性技能がある。
他にも異世界特典だか知らないが、案外戦闘に便利な身体能力になっている。
だが、この世界は強い奴はゴロゴロいるし、対する敵の魔獣も強い。
そして敵の大きさが問題だった。
ペットの猫や小さい犬なら可愛いと思うし、怖いと思わないのだ。
俺の実家は大型犬を買っていたが、奴は力がやたら強く、この牙で噛まれたら穴が開くだろうな、と、そういう想像をしてしまう位の牙の大きさだったのだ。
それが、この異世界では、最弱の魔物グロラビでさえ中型犬並もあるんだ。
そういう魔獣が、白い部分の無い真っ赤な瞳でこっちをロックオンして何匹も襲って来る。
それも殺そうとして俺に向かって来るんだから、恐怖以外の何ものでも無い。
異世界の街トッタの外にトリップして倒れていた俺は、グロラビ相手に何も出来ず、本当に怖くてプルプル震えた。
スウェットの上下に裸足でサンダル履いて、コンビニ行く途中で気が付いたら異世界だったんだ。武器なんて持ってる訳が無い。
しかし、異世界のこの感覚に慣れなきゃ、俺は野垂れ死ぬだろうと早々と悟った。
案の定、俺はグロラビに殺されそうになっている所を、肉を欲っしグロラビを狩りに訪れていた大男のバスガードさんが、大兎に襲われている俺を助けてくれたのだ。
その後、図々しくもバス先輩の働くレッドの鍋という料理屋にくっついていって、頭を下げて雇って貰ったのだった。
トッタの街はメレン国の王都だ。真ん中がお城で円を描くように周りが貴族街、その外が平民の街になっている。
この異世界は所謂ファンタジーなゲームの様な現実世界だ。
もう一度言う。
これは現実なんだ。
転べば痛いし、怪我をすれば血も出る。
死に戻りなんてゲームみたいに生き返らない。
トリップしてきた当初は、朝目覚めるたびに夢であって欲しいと願ったもんだった。が、帰る手だてなんて思い付かないし、方法も分からない。
兎に角、俺はこの世界で何とか飢えずに生き延びなければならない。
だからそれを目標にする事にしたのだ。
俺が住み始めたメレン国は、人間主体の国だが、人種は様々だ。
平民街には人間以外の種族も住んでいる。
亜人と言われる獣人は街にも住んでいるが、各種族で纏まって集落を作り、独自の生活をしている者が多い。
精霊種と呼ばれるエルフ、ドワーフ達は人間よりも長寿で、街にもやはり少数しか住んでいない。
森や辺境の隠れ里があってそこに国があるらしい。




