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校正者のざれごとシリーズ

校正者のざれごと――電車での恐怖体験と「儀礼的無関心」

作者: 小山らいか
掲載日:2026/09/21

 私は、フリーランスの校正者をしている。

 シルバーウイークを控え、ここ数日は私の所属する校正プロダクションも非常に慌ただしくなってきた。ふだん私は自宅で仕事をしているが、事務所に急ぎの仕事が多く来ていることもあり、今週は事務所に朝から出社している。

 事務所は出版関係の会社が多い都市部にあるのだが、私は郊外に住んでいる。朝出社するとなると、数十分は満員電車に揺られることになる。

 

 まず、ひとつめの恐怖体験から。

 その日は、乗ってすぐたまたま前に座っていた人が席を立った。ラッキー。パソコンの入った大きなバッグやゲラ(校正紙)の入った袋を抱えて席に座る。次の駅に着くと、小さなスーツケースを引いた女性が乗ってきて私の前に立った。旅行か何かだろうか。後から次々と人が乗車してくるので、女性は私のすぐ前、至近距離にいる。

 彼女は片手にスターバックスの紙コップを持っていた。時々口をつけて飲む。この満員の車内で。なかなかのツワモノだ。そして私の膝にはゲラが。もし、急に揺れでもしたら。

 不安のなか、そっと彼女の様子を窺っていた。すると、彼女はあろうことか立ったまま居眠りを始めた。え? 紙コップを強く握りしめたまま。

 さすがに寝ちゃ駄目でしょ。お願い、起きて――。はらはらしながら、心のなかでつぶやく。そのまま数分。緊張が続く。

 そんな私の心配をよそに、次の駅へ到着すると、何ごともなかったように彼女は電車を降りていった。ほっとひと息。

 

 つづいて、ふたつめの恐怖体験。

 やはり混雑した電車のなか、私は座っている人の前に立っていた。後ろの空間もほぼ人で埋まっていて、座っている人の膝に足が触れないぎりぎりの立ち位置。目の前の人は寝ていたのだが、その隣に座る男性は参考書のようなものを広げて熱心に勉強していた。濃い緑色のマーカーで部分的に線をひき、赤シートで隠している。電車のなかでこんなに勉強するなんてすごいなあ、と思いながら眺めていると、彼の手がふと止まった。

 うつむいて参考書を見ながら、いつの間にかうとうとしていたらしい。緑色のマーカーを持ったまま。彼の前に立つ女性は布製のバッグを手に提げている。淡い水色のバッグだ。彼女はスマホを見ていて気づいていない。でも、彼女のバッグと蓋の外れた緑色のマーカーはほんの数センチの距離だ。いや、このままでは……。

 すると、電車の揺れとともに彼は目を覚ました。よかった。ところが、またすぐにうとうと。だから、危ないって。マーカーって水性だよなあ。洗って落ちるといいけど。いや、ここは何らかの行動を起こすべきか。そんなふうにぐるぐると頭のなかで考えていると、彼は再び目を覚ました。今度はマーカーに蓋をして、本を閉じてちゃんと(?)寝た。バッグの女性は相変わらずスマホに集中している。わずか1、2分の攻防が終わった。

 

 思えば、混雑した電車のなかというのは不思議な空間だ。体がふれるほどの距離にいながら、お互いに干渉せず、でもまわりに不快感を与えないように節度も保っている。

 このような人々のふるまいを「儀礼的無関心」という。

 電車のなかで化粧をすることに対して議論になったりしているが、多くの人がそんな秩序を守っていることで、公共の空間が平和に保たれている。エレベーターなどもそうだ。あんなに狭い空間に一緒にいながら、会話もなく、お互いを凝視することもなく、なんとなく距離を保ってやり過ごす。

 

 最近話題になっていたテレビドラマは、コインランドリーが舞台だった。そこも、ふつうならお互いに適度な距離を保って過ごす、「儀礼的無関心」が発動されるような場所だ。でもドラマでは、ふとした拍子に交流が生まれ、関係が築かれていく。人見知りの私には到底考えられないが、そんな展開は現実にもありそうだと思わせる。9月に入ってから私も何度かコインランドリーを利用したが、なかに入るだけでちょっとそわそわしたりして(もちろん何も起こるはずがないのだが。影響されやすいのだ)。

 

 シルバーウイーク前、ようやく最後の出社を終え、エレベーターを待っていた。扉が開くと、上の階から乗ってきた男性が。目を伏せ会釈して乗り込む。定員6名ほどの小さなエレベーター。目を合わさぬよう、乗ってすぐ何となく階数表示を見上げる。

 扉が閉まると、乗っていた男性は前を向いたまま、「ずーっと雨ですね」と小さくつぶやいた。落ち着いた声。どことなく、リリー・フランキーさんに似ている気がする。これも某ドラマの影響か。「本当にそうですね」と返してみる。

「嫌になっちゃいますよね」

「はい。滅入りますね」

 そんな他愛もない会話。エレベーターはほどなく地上に到達し、「開く」のボタンを押してくれた男性に会釈をして外に出た。何となく足取りが軽くなる。

 帰りもやはり満員電車に揺られて帰った。ぼんやり外を眺め、好きな音楽を聴きながら。

 

 これからしばらくは在宅。人と接することもない。明日からのシルバーウイークには、もう一度ドラマでも見返してみようか。今日渡された分厚いゲラを机の隅に追いやって。


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