濡れ衣で名指しされ、粗い目抜きはしないと申しました。秋にお宅の反物は滑ります
返された反物へ、加禰の指が伸びた。その途中で、名を呼ばれた。
「経糸を抜いたのは、この者です」
座の上手で、鵙屋の伍市が加禰を指していた。買い手と織屋が並ぶ前へ、夏の初めに納めた一巻がほどかれている。傍らには見本の筬。加禰が十一年、欠けも曲がりも見逃さずにきた一羽一羽だった。
「端から三尺ほど、目が粗い。うちでは決めた本数を渡しております。抜けるとすれば、機に掛けた者の手でございましょう」
「加禰が、か」
買い手の一人が問うた。伍市は間を置かなかった。
「ほかにありません。ですが、目のわずかな違いなど、仕立ててしまえば分からぬものです。糸が通っていれば売れます」
二人がうなずいた。景丸も伍市の後ろで、同じ角度に顎を引いた。
そこでようやく、加禰の指が反物に触れた。
端は固い。そこから指二本ぶん内へ入ると、布がわずかに逃げた。さらに撫でる。三尺目で戻り、四尺目でまた逃げる。抜けた糸の跡なら、こうは揺れない。
「何か申すことは」
伍市の声が座を渡った。加禰は返事をせず、反物の耳を爪先で起こした。返しは一筋。途中だけ、糸の寝る向きが違っている。
「人前ゆえ、言いにくいこともあろう」
景丸が口の端を持ち上げた。
「わたしなら、早く謝ってしまうけどね。反物は戻る、店の名にも傷がつく。叔父上も困っておられる」
加禰は反物を巻き戻した。巻き芯の脇へずれていた端を揃え、卓の中央へ置く。
「粗い箇所は、ここからでございます」
「だから、そこを抜いたのであろう」
「ここから三尺。次は四尺目でございます」
伍市は買い手を見た。
「このように、細かなことばかり申します」
座の端で誰かが鼻を鳴らした。加禰は筬へ手を伸ばさなかった。反物の上に残った右手だけを引き、膝へ重ねた。
* * *
鵙屋の柱へ、新しい手間賃が貼られた。織り上げた一反につき、同じ額。名の下へ反数を書き、月の終わりに数えるとある。
「今までは、年季だの勘だので差をつけすぎていた」
伍市は覚え帳を開き、加禰と景丸の前へ置いた。二人の名の横に、同じ銭の額がある。
「これからは分かりやすくする。一反は一反だ。十一年織った者の一反も、半年の者の一反も、店へ入れば同じ品になる」
加禰の前には湯呑みがあった。冷めて、縁に薄い膜が張っている。湯呑みを持ち上げ、まだ口をつけてはいなかった。
「景丸は今月、六反。加禰も六反。したがって同額だ」
「これで腕前も同じだ」
景丸が貼り紙を指で弾いた。紙の下端が柱へ当たり、乾いた音を二度立てた。
「加禰は十一年も先に始めたのに、半年で並んでしまって申し訳ないな」
伍市は咎めなかった。覚え帳の端を景丸へ寄せ、印を押す場所を示した。
加禰は湯呑みを置いた。機から下ろしたばかりの反物が脇の台にあり、その端を一度撫でる。張りは揃っていた。
「承知しました」
景丸は先に覚え帳へ印を押した。加禰もその下へ押す。朱が薄かったため、伍市は印箱の肉を押しつけてから、もう一度と命じた。
二つ目の朱は濃くついた。十一年と半年の間には、紙一枚ぶんの隙間もなかった。
その日の夕刻、景丸は六反目を先に蔵へ入れた。耳が台へ擦れていたが、伍市は札に六と書き足しただけだった。
加禰は自分の巻きの耳を薄紙で包んだ。紐を結び、余った先を短く切る。それから景丸の巻きへ落ちていた糸屑を一つ拾い、屑籠へ入れた。
* * *
三日後、柱の貼り紙が二枚に増えた。
一枚目には筬の羽数。二枚目には経糸の本数。伍市は買い手を店へ招き、その前で景丸に読み上げさせた。
「筬は千二百羽。経糸は二千四百本」
景丸の声は表まで届いた。
「一本の違いもないよう、ここへ書いておきました。迷う余地がありません」
伍市は貼り紙の端を撫でて伸ばした。来客の一人が、機の上の糸をのぞき込む。
「目の詰みは、誰が見ても同じになるのかね」
「同じになります。羽数と本数が同じなら、出来も同じです。これで誰でも織れる」
反物なんぞ、糸が通っていれば売れる。伍市は筬を指し、景丸にもう一度、数を言わせた。
「千二百羽、二千四百本」
加禰は隣の機で、緯糸を一本通した。筬を打つ前に耳へ指を置き、張りを戻す。来客がそちらを見たが、伍市は貼り紙の説明を続けた。
「加禰」
「はい」
「明日から、この手順どおりにせよ。自分だけのやり方は要らぬ」
加禰は筬を打った。音が収まってから、柱の二枚を見た。
「承知しました」
次に三軒へ納める巻きは、その日のうちに整えた。加禰は札の裏へ短く書く。耳は一筋で返すこと。雨の翌日は張りを見ること。端から三尺、四尺目を指で確かめること。
「そんなものまで書くのか」
景丸が札を裏返した。
「数はここにある。千二百羽、二千四百本。それで足りるだろう」
「三軒へ、お伝えください」
「何を」
「次の巻きも、同じ詰みでお渡しすると」
景丸は札の表だけを読み上げ、荷へ結んだ。裏の言伝は紐の下へ隠れたが、加禰は結び直さなかった。
翌朝、三軒の呉服屋がそれぞれ巻きを受け取った。値を言う前に、端を撫でる。耳から三尺、四尺と指を進め、三人とも同じ場所で手を止めた。
「いつもの目だ」
一人がそう言い、値を置いた。伍市は店の覚え帳へ売上を書き、柱の数字を客にも見える向きへ直した。
* * *
次の座で、返された一巻が再び中央へ置かれた。前より多くの者が集まり、伍市は同じ巻きの粗い箇所を上へして広げた。
「先日の件です。鵙屋として、曖昧にはいたしません」
加禰は下座に座った。反物の端は、前と同じように卓から指二本ぶん垂れていた。
「加禰」
座を預かる買い手が呼んだ。
「この経糸を抜いたのでございますか」
加禰は垂れた端を持ち上げた。伍市も景丸も見ず、粗くなった三尺を座の明かりへ向ける。
「わたしがやるなら、そんな下手はいたしません」
伍市の指が卓を打った。
「下手とは何だ。抜いたことを認めるのか」
「糸を抜かず、糸数を合わせたまま、目の詰みだけを落とすならば」
加禰は反物を置いた。
「わたしなら、三つ申し上げます」
座の者の一人が身を寄せた。加禰は傍らの筬を取り、上端を両手で支える。
「一つ。筬を一羽落とします」
「一羽を、抜くのか」
「いいえ。通さずに落とし、その分を両隣へ移します。経糸の総数は変わりません」
反物を返した買い手が、粗い箇所へ指を当てた。一筋だけを探す指が、三尺の間を往復する。
「抜け跡は出ないのか」
「出しません。羽間を選べば、表からは続いて見えます。ここでは、この羽ではございません」
加禰は筬の中央から一羽を爪で押した。隣の羽がかすかに鳴る。買い手は反物から筬へ目を移し、そのまま口を閉じた。
「二つ」
加禰は反物の耳を折り返した。
「耳の返しを二本にします」
織屋の一人が、垂れた端を取った。
「二本で返せば、耳が立つだろう」
「同じ張りでは立ちます。二本目を内へ寝かせ、打つたびに指で戻せば、端は一筋に見えます」
「その間、手を止めるのか」
「止めません」
織屋は自分の親指を耳へ当てた。二本の所在を探し、次に加禰の右手を見た。加禰の指先には、糸に擦れた浅い筋が残っている。
「この耳は」
「一筋でございます。途中だけ、返した者の指が遅れています」
景丸の組んだ膝が離れた。伍市が何か言いかけたが、加禰は反物を元へ戻した。
「三つ」
窓の外で、軒から雫が落ちていた。座の畳にも、濡れた履物の跡が黒く残っている。
「湿りの日に、張りを半分緩めます」
「半分もか」
糸を扱う者が首を上げた。
「はい。機先だけを緩め、打つ前に戻します。糸は同じ本数、幅も同じ。乾けば見た目は整いますが、端から撫でた指が途中で滑ります」
伊和が反物へ手を置いた。三尺目で止め、四尺目で押し返す。次に、加禰の手の甲へ視線を落とした。
「毎度、張りを戻せるのか」
「戻せます」
「目を見ずに」
「耳へ触れれば」
座の奥で、最初に伍市へ相槌を打った男が息を吐いた。
「……そりゃ、あんたにしかできん」
別の者が筬を受け取り、一羽ずつ光へ透かした。もう一人は返された巻きの耳を開き、二本目の跡を探した。誰も伍市を見なくなった。
「ならば、これは加禰の仕事ではないな」
買い手が言った。
「この粗さで抜くくらいなら、三つのどれかを使う。そういうことか」
加禰は答えなかった。反物の端を卓へ戻し、折り目だけを伸ばした。
「景丸」
織屋が呼んだ。
「粗くなったところは、筬のどの羽間だ」
景丸は筬を見た。貼り紙を読むときの声は出なかった。
「耳は何本で返した」
「それは」
「湿りの日の張りは」
景丸の口が二度動いた。
「本数は合わせた」
伍市が振り向いた。景丸の手が、膝の上で貼り紙を読む形に開いている。
「何を合わせた」
「だから、千二百羽に、二千四百本を。抜いたところも、数だけは」
そこで景丸の声が切れた。
伍市の顎が下がった。
「いや、数が合っているなら、品としては。その、店では手順を定めて」
座を預かる買い手が、返された巻きを伍市の前へ押した。伍市は受け取らず、両手を袖へ入れた。
* * *
加禰は座から鵙屋へ戻ると、機の前へ座った。景丸を呼ばず、伍市の覚え帳も開かなかった。
杼の先に残った糸を外す。糸巻きを箱へ納め、蓋の向きを揃える。筬の溝へ細い刷毛を通し、十一年使った油布で枠を一度だけ拭いた。
景丸は柱際に立っていた。貼り出された羽数と糸数の紙が、その肩へ触れている。
「わたしは、言われたとおりにしただけだ」
加禰は刷毛の穂先を整えた。油布を四つに畳み、箱の右隅へ置く。
「叔父上が、数を合わせろと言った。抜けたぶんを戻せばよいと思ったんだ」
筬を元の掛け金へ戻す。杼は細いものから順に並べ、最後の一本だけ裏返っていたのを直す。景丸のほうへは顔を上げなかった。
伍市が店の間から出てきた。
「今日のところは休め。座の者も、話が大きくなって加減を失っただけだ。次の注文がある。おまえが織れば収まる」
加禰は立った。畳んだ反物が台の端にある。いつものように、その布へ右手が伸びた。
指は、触れる前に止まった。
「わたしはこの一羽を、十一年、わたしの機だと思うて通しておりました」
加禰は手を下ろした。風呂敷には替えの足袋と針包みだけを入れ、店の杼も油布も持たなかった。
暖簾の外に伊和がいた。手には糸見本の小さな束。加禰が敷居を越えると、その束を懐へ戻した。
「姐さん。おれたちはあの店に売ってたんじゃない。あんたの指に売ってたんだ」
加禰は足を止めた。伊和は鵙屋の看板を見ず、通りの先を顎で示した。
「機の講に、空いている一台がある」
「持ち主がおられましょう」
「今、立っている」
伊和はそれだけ言って歩き出した。加禰も並んだ。後ろで伍市が名を呼んだが、二人の間に戻る足はなかった。
* * *
秋の初め、鵙屋から納められた一巻を、三軒の呉服屋が揃って見に来た。
伍市は柱の紙を新しくしていた。千二百羽、二千四百本。前より太い墨で書き、景丸に一行ずつ読ませる。
「数は合っております。今度こそ、間違いはありません」
一軒目の者が巻きを開いた。値を言う前に端を撫で、三尺ほど進んだところで手を戻す。指の腹が布に掛からず、するりと先へ出た。
二軒目も同じ場所を撫でた。三軒目は耳を挟み、内側へ押す。詰みは戻らなかった。
「前の札に、何とあった」
一人が問うた。
伍市は覚え帳を繰った。
「札とは」
「耳は一筋。雨の翌日は張りを見る。三尺と四尺を指で確かめる」
景丸が柱の数字を指した。
「それも、この数に含まれています」
三人は返事をしなかった。巻きの端を元へ戻し、首を振る。誰も値を言わず、誰も巻きを持ち帰らなかった。
翌月、三軒から注文札が来なかった。伍市は使いを出したが、戻った使いの手には空の文箱だけがあった。
糸蔵では、伊和が今年の糸を一束ずつ改めていた。伍市は長い付き合いを口にし、これまでどおり先に鵙屋へ回すよう求めた。
「あいにく、今年の糸は向きませんので」
「どこへ向かぬ」
伊和は理由を足さなかった。束を包み直し、鵙屋の札が置かれていた場所だけを空けて帰った。
景丸は毎朝、柱の数字を声に出した。千二百羽。二千四百本。筬へ通しても、端は固く、中央は滑った。張りを強くすれば耳が縮み、緩めれば緯糸が浮いた。
返った巻きが六本になった日、瀬津が店の間へ入った。最初の一巻を自分で開き、端から端まで手を進める。
「本数は」
「合っている」
「同じ詰みか」
伍市は答えず、景丸が柱を見た。
瀬津は次の巻きを開いた。三尺で指が滑る。四尺目では止まらず、巻き芯まで手が進んだ。
「この六本は、誰が見る」
「加禰を呼び戻せばよい。三軒で十一反、冬支度であと五反ある。あれも仕事を失って困っているはずだ」
瀬津は返った巻きへ新しい札を結んだ。伍市が差配した品、と書き、覚え帳の別の欄へ移す。
「今日から、機の差配はわたしがします」
「店主はわたしだ」
「店の間をお願いします」
瀬津は柱の貼り紙を外した。景丸の手から糸数の覚え帳を受け取り、返った六本と一緒に伍市の前へ積んだ。
* * *
冬、講の一番奥に、経糸のまっすぐ張られた機が一台あった。
枠は古いが、筬は磨かれていた。伊和の持ってきた糸が一羽ごとに通され、朝の明かりを細く返している。柱には羽数も糸数も貼られていなかった。
「姐さん、先にこれを」
講の女が甘酒の器を差し出した。加禰は機へ向けていた手を戻し、器を両手で包んだ。白い湯気が指の間を抜ける間、誰も筬へ触れなかった。
器を返すと、加禰は一羽目の経糸へ指を置いた。張りを確かめ、二羽目、三羽目へ進む。伊和は糸箱の蓋を閉じ、講の女衆はそれぞれの機へ戻った。
最初の一巻が上がるまで、柱へ紙は増えなかった。加禰は耳を一筋で返し、湿りの日には機先を見た。三尺、四尺で目を確かめ、巻き終えてからもう一度だけ端を撫でた。
三軒の呉服屋が来た。値を言う前に反物へ触れ、端から中央へ指を進める。今度は指が布に引かれ、目の上で止まった。
「この詰みだ」
一人が巻きの札を裏返した。
「鵙屋の名は」
「ございません」
加禰は新しい札を差し出した。そこには加禰の名だけが書かれていた。
三人は札を巻きへ結び直した。十一年と半年を同じにした額より高い値を、一人ずつ置く。次の糸、次の幅、次の納め月を加禰へ直接告げた。
「値は、姐さんが決めてくれ」
伊和が言った。
加禰は置かれた値を見て、反物の端へ指を置いた。少し間を取り、一枚だけ戻す。
「この幅なら、こちらで」
三人はうなずいた。覚え帳には、店の欄を作らず、加禰の名の下へ三軒の注文が並んだ。
雪の残る朝、伍市が講へ来た。景丸は連れていなかった。手には鵙屋の注文帳があり、端が何度も開かれて丸くなっている。
「三軒で十一反ある」
加禰は機の前に座ったまま、杼へ緯糸を巻いていた。
「冬支度の五反も戻れば、春の注文につながる。ほかにも二軒、返事を待たせている」
伍市は注文帳を開いた。加禰へ向けた頁には、反数だけが縦に並んでいる。
「手間賃は上げる。景丸とは別にする。前の額では足りなかったことも、瀬津から言われた」
加禰は杼を置き、経糸の張りを確かめた。
「筬も好きに使ってよい。貼り紙も外した。だから戻って、先に十一反を織ってくれ。店の名に関わる」
伍市は注文の数をもう一度、上から読み上げた。十一反。五反。返事待ちが二軒。
加禰は機の前を譲らなかった。
「糸が通っていれば売れます」
伍市の手の中で、注文帳が閉じた。返す言葉はなく、主語の消えた息だけが口から出た。
伊和が糸箱を抱えて入ってきた。伍市とすれ違っても足を止めず、加禰の機の脇へ箱を置く。伍市は閉じた覚え帳を持ったまま、雪の残る道へ出ていった。
仕事を終えた女衆が、機の周りへ器を持ち寄った。空いていた場所へ加禰の膝が入り、伊和は輪の外から甘酒の鍋だけを押してよこす。
「姐さんの次の巻き、わたしらが先に見るよ」
「値を下げる相談なら、お断りします」
「それは三軒に言っとくれ」
鍋の底をさらう音がして、器が一つ、加禰へ渡った。甘酒の器から湯気が上がる。加禰の両手は、しばらくそこにあった。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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