多摩のピクニックと、満員電車の残飯(のこりもの)
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先日、MMOのボスディン氷河で耳にしたあの「Shout」は、私の脳内に消えないバグとして居座り続けていた。
三枝。あの日、演算エラーの渦に呑み込まれて消えた、私たちの共有ライブラリ。
彼の手がかりが仮想世界に現れたというのに、現実の私は、今日も今日とて府中の裏路地で、得体の知れない呪物のデバッグに追われている。
「……ほんま、またこれかよ。三枝の謎を追う前に、うちの胃に穴が空くわ。知らんけど」
カウンターに置かれたのは、どこにでもあるアルミ製のお弁当箱だった。表面には細かな傷があり、角が少し凹んでいる。
だが、その蓋の裏側をルーペで覗き込めば、肉眼では捉えられないほど高密度な「記録用魔法陣」が、同心円状にびっしりと書き込まれていた。
「よお、店主。今日は最高のピクニック日和だぜ。……そいつの準備はいいか?」
背後から、聞き慣れたぶっきらぼうな声がした。
振り返ると、彼は不似合いなほど大きなレジャーシートを脇に抱え、不敵に笑っていた。
「……あんた、これ本気で使う気? 依頼書には『幸せな思い出を物理的な糧食に変換する試作機』って書いてあるけど、設計思想が古すぎるわ。論理演算の整合性が取れてへん。……知らんけど」
「やってみて、それを全力で楽しむしかないだろう。幸せに向かって前を向くには、たまには旨いもん食って、三枝のことも笑い話にする時間が必要だ」
まぁ、悪い話を思い出すこともあるけどな……。
彼は、私の慎重さを「いつもの臆病」だと切り捨て、お弁当箱をひったくるようにして外へ歩き出した。
私は溜息をつき、鑑定用のポータブル端末とピンセットをカバンに詰め込み、彼の後を追った。
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府中郷土の森に近い、多摩川の河川敷。
五月の風が欅の葉を揺らし、水面がキラキラと光を反射している。絶好のロケーション。視覚的には、これ以上ない「幸せの抽出条件」が揃っていた。
彼はレジャーシートを広げると、空のお弁当箱を膝に置き、静かに目を閉じた。
彼がイメージしているのは、きっと、あの日三人でこの河川敷で笑い転げた、何の変哲もない放課後の記憶だろう。
――カチッ。
お弁当箱の蓋が閉まった瞬間。
私の耳の奥に、ハープの独奏のような「とろけるほど甘美な一音」が響いた。
それは、過去の幸福を完璧にデジタル化したかのような、あまりにも純粋な音色。
「……っ、聞こえた。……最高の『正解』の音やわ」
私は息を呑んだ。しかし、その感動は一秒も持たなかった。
お弁当箱の隙間から、何かが漏れ出してきたのだ。
鼻を突くのは、饐えた生ゴミ。古い揚げ物の油。そして、誰かが吐き出した溜息と、湿った絶望が混ざり合ったような……言葉にするのも憚られる「強烈な酸っぱい臭い」。
「……うわっ! 臭っ!! 何これ、鼻もげそうやわ!!」
私は反射的に鼻を押さえ、後ずさりした。
だが、彼の目には、全く別の光景が映っているようだった。
「……何言ってんだよ。俺の目には、弁当箱から虹色の花びらが狂ったように噴き出して見えるぜ。……三枝のやつ、最高のアウトプットを用意してくれたみたいだ」
彼は期待に満ちた顔で、蓋を開けた。
そこにあったのは、宝石のように輝く唐揚げや、透き通った卵焼き――。
……の、断片だった。
それらは、どす黒く変色した泥のようなソースや、ぐちゃぐちゃに潰れた米粒と激しくシェイクされ、もはや原形を留めていなかった。
「……これ、何……?」
「……『満員電車』やわ。……それも、朝の通勤ラッシュの京王線特急に、無理やり押し込まれたお弁当箱の末路や。それも調布で橋本から来た、特急へ乗り換えたような感じやな。」
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私は震える指で端末を接続し、お弁当箱の内部ログを解析した。
流れるコードを読み解くうちに、私の背中に冷たい汗が流れた。
「……三枝、あんた……なんて意地悪なコード書くんや」
「どういうことだ?」
「……これ、幸せな思い出を抽出する関数の中に、致命的な欠陥がある。……『光』というデータを保存する際に、それと対照的な『影』……つまり、その幸せを維持するために費やされた苦労や、その後に訪れた喪失感を、同じメモリ空間に強制的にスタック(積み込み)しとるんやわ」
魔法陣は、彼の「幸せな記憶」を吸い出すと同時に、その記憶の裏側にある「満員電車に揺られて仕事へ行く苦痛」や「三枝を失った絶望」も、セットでインポートしてしまっていた。
それらが狭いアルミの箱の中で激しく衝突し、メモリ不足を起こした結果、中身は見るも無惨な「残飯」へとリファクタリングされてしまったのだ。
「……三枝にとっては、幸せも不幸も、ただの等価な変数やったんやわ。……純粋な幸せだけを切り取って保存するなんて、論理的に不自然やと考えてたんやろな。知らんけど」
彼は、箸でその「ぐちゃぐちゃ」を突っついた。
一つ、輝いている唐揚げの破片を口に運ぶ。
「……旨い。……死ぬほど旨いけど、……胸が焼けるほど、苦えや」
彼は、吐き捨てるように言った。
宝石のような味と、泥のような後味。
私が見た「甘美な音」と、彼が嗅いだ「酸っぱい臭い」。
それは、三枝が私たちに残した、あまりにも残酷な「世界の真実」だった。
「……幸せを思い出そうとすればするほど、その後の『事故』の記憶が、満員電車の乗客みたいに無理やり背中を押してくるんやわ。……このお弁当箱は、それを見せつけたかったんやろか」
私たちは、夕暮れに染まり始めた河川敷で、空になったお弁当箱を見つめ続けた。
川面を走る風も、今はただ、過去の残骸を撫でるだけの冷たいものに感じられた。
・・・
「……帰ろ。普通の、混ぜてへんラーメン食べよ。……幸せなんて、そんな小難しい道具で詰め込むもんやないわ」
「……だな。普通の、ネギの匂いが、今は一番のご馳走だぜ」
夕闇の府中。私たちは、一度も振り返らずに歩いた。




