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月下のボスディンと、翻訳不能な本音

・・・

深夜二時。現実の府中が静まり返る頃、私の魂は北方の氷河、ボスディンへと飛んでいた。


重厚なフルプレートメイルに身を包んだ、岩のように頑強な巨漢ガルカ。それが仮想世界における私の姿だ。現実では石橋を叩き割るほど慎重な鑑定士でも、ここなら大斧を振り回して「知らんけど」と笑い飛ばせる。


「ほんまになー」、そう意味の無い言葉だけど、私が言い表せない気持ちをが一言で駆け抜ける。


傍らには、雪原に埋もれそうなほど小さな、タルタルの白魔道士がいた。中身は、あの無鉄砲なハンター。……もちろん、お互いにその正体には気づいていない。


『おい白魔。今日のチョコボ掘り、収穫はどうや?』


私はガルカらしい野太いをイメージしたタイピングでチャットを送った。


『……またそれかよ。今日は外道ばっかりだ。ギザールの野菜代にもなりゃしないよ』


タルタルの彼女(中身は彼)は、ぶっきらぼうに杖を振った。

私たちはこの「不便な世界」で、何年もこうして息抜きをしている。現実のしがらみをログアウトし、ただの「前衛」と「後衛」として。


・・・

私たちは氷河のわずかな水場に糸を垂らした。

この世界において、「釣り」と「チョコボ掘り」は片手間でできる遊びではない。獲物との格闘、掘るポイントの読み、そして忍耐。それは現実の魔法デバッグや遺跡探索と同じくらい、緻密な「プロの仕事」だった。


『大斧さん、釣果は?』


『……今日はブラックソールが数匹やわな。金策には程遠いわ。現実のサーバー代も稼げんわ、知らんけど』


私が自虐的に返すと、不意に、周囲の空気が変わった。

海外サーバーから遠征してきたと思われる、多国籍のパーティが通りかかったのだ。彼らは英語、フランス語、中国語が混ざり合った複雑な言語で、何かを探しているようだった。


私は困惑した。特有の【定型文辞書】――【こんにちは。】【助けてくれませんか?】といった翻訳機能を使おうとしたが、彼らの要求はもっと複雑な、古い地名や魔法学の専門用語を含んでいた。


すると、隣のタルタルが、信じられない速度でチャットを打ち込み始めた。


『Wait, are you looking for the specific ritual-site in this glacier? If so, the ancient records say...』


流暢な英語。それだけではない。相手がフランス語で返せば、淀みないフランス語の綴りで。中国語にはその地の訛りさえ感じさせる表現で。

彼女(彼)は、まるでその土地の空気を吸ってきたかのように多言語を操り、迷える外国人プレイヤーたちを導いていく。それは技術的な「翻訳」ではなく、その地の文化や伝承を深く理解している者の振る舞いだった。


(……ぐぬぬぬぬっ。何や、この白魔……。ただの無鉄砲なヒーラーやと思ってたのに、底が知れへんわ……!)


私は大斧を握りしめたまま、その鮮やかな「交渉」を、ただ呆然と見守るしかなかった。現実の私がプログラムのソースコードを読み解くように、彼は世界の言葉を読み解いていた。


・・・

外国人たちが【ありがとう!】【さようなら。】【タルタル】と定型文を残して去った後、雪原にはまた静寂が訪れた。タルタルは感情の読めないエモーション(/stare)で、ただ遠くの吹雪を見つめている。男なのか女なのか、その丁寧すぎる口調からは何も読み取れない。


『……あんた、直で多国語いけるんやな。驚いたわ』


『……仕事柄さ。現地の古い伝承や、地図の隅に書かれた殴り書きを読まなきゃならないからね。幸せに向かって前を向くには、言葉の壁なんて気にしてられないだろ?』


タルタルは、感情を排したような、それでいてどこか遠くを見つめるようなタイピングで返した。

その時だった。エリア全体に流れる「Shout(叫び)」が、私の目に飛び込んできた。


【Shout】UnknownPlayer: 『……あの日、花びらが舞った場所で、甘い音を探している。……三枝は、どこだ?』


指が止まった。心臓が跳ねる。

そのメッセージは、定型文を一切使わない、剥き出しの日本語だった。

しかも、三枝という名前。そして、私たち二人にしか分からない「花」と「音」の符牒。


『……今のは……?』


タルタルの手が震えているのが、画面越しに分かった。彼女(彼)は杖を握り直すと、私に向き直った。


『大斧さん。……悪い、私、今日は落ちる。……現実で、確認しなきゃいけない依頼が入った気がするんだ』


『……奇遇やな。うちもや。……このShoutの発信源、現実の未踏遺構とリンクしとる気がするわな。知らんけど』


私たちは約束もせず、同時にログアウトのコマンドを打ち込んだ。仮想世界の氷河が、ゆっくりと暗転していく。


・・・

ヘッドセットを外すと、深夜の府中の静寂が、酷く重苦しく感じられた。

モニターの明かりに照らされた私の耳には、ボスディンの吹雪の音ではなく、あの日と同じ、壊れた不協和音が微かに鳴り響いていた。


「……あのアホな白魔に、見惚れてる場合やなかったわ」


私は震える手で、現実の鑑定依頼リストを開いた。

そこには、さっきのShoutと同じ「符号」を持つ、一通の奇妙なメールが届いていた。

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