幸せを掴む箸と、秘められた蒼い欠片
・・・
昨日の嵐のようなドタバタが嘘のように、府中には穏やかな朝が訪れていた。
私は開店前の『三枝堂』で、一人、モップを手にしていた。昨日の「聖杯(という名のデトックス魔道具)」のせいで、プライベートスペースであるトイレ周辺は、文字通り嵐が過ぎ去った後のような有様だった。
「……ほんま、またこれかよ。人のプライベートに土足で踏み込むわ、トイレは占領するわ。あの無鉄砲、今度来たら倍の鑑定料吹っ掛けてやるわ。ほんま、知らんけど……」
独り言をこぼしながら、私は胸元に手をやった。
シャツの奥、肌に触れる位置に吊るされたペンダント――その先には、深い海のような色をした「青い珠」が揺れている。
耳を澄ます。
すると、店外の車の走行音や鳥の声に混じって、消え入りそうなほど微かな、しかし背筋が震えるほどに「甘美な音」が聞こえてくる。
能力:聴覚。
この音が聞こえるときは、必ず「正しい未来」が待っている。
けれど、私はこの能力を誰にも話さない。
かつて、まだ学生だった頃、親しかった友人に「その恋はやめた方がいい。不協和音が聞こえるから」と忠告したことがあった。結果、友人の恋人は本当に浮気をして破局したが、友人が私に向けたのは感謝ではなく、「気味が悪い」という拒絶の視線だった。
他人の運命を音で選別する。それは傲慢で、孤独な行為だと思い知った。
「三枝……あんただけは、私のこの耳を笑わんかったけどな」
珠を握りしめる。この「甘美な音」だけが、あの日消えた親友に繋がる唯一の論理的な証拠だと信じている。だが、その確信さえも、誰かに否定されるのが怖くて、私はまた「知らんけど」という殻に閉じこもるのだ。
・・・
「よお、昨日は悪かったな! おかげで体調は万全だ!」
開店早々、昨日の今日でまたしても彼がやってきた。
相変わらず、雨上がりのアスファルトのような、独特の野性味のある匂いをさせている。
「……帰って。出禁や、出禁。あんたのせいで、昨日の夜はトイレの神様に謝り通しやったんやから」
「そんなこと言うなよ。今日は本物の『お宝』を持ってきたんだ。ほら、見てくれ」
彼が勿体ぶってカウンターに出したのは、一膳の塗り箸だった。金粉が散りばめられ、いかにも高級そうだが、どこか成金趣味なデザインだ。
「これか? 『幸せを掴む箸』。どんな高級食材も逃さないし、食べれば食べるほど運気が上がるっていう代物だ」
私は、テスターを当てるまでもなく、鼻を突く**「酸っぱい臭い」**に顔をしかめた。
「……うわ。これ、幸せを掴むどころか、他人の食べ物の怨念を掻き集める呪物やんか。バグだらけのスパゲッティプログラムやわ。あんた、こんなん持って歩いてたら、そのうちお腹下すどころか、味覚障害になるよ。知らんけど」
「またそれかよ。俺の鼻には、これ、ただの『割り箸の古いやつ』みたいな無味無臭にしか感じねえ。やってみて、実際に何か掴んでみれば分かるだろ!」
彼は、店に置いてあった試供品の「魔力回復飴」をその箸で掴もうとした。
が、箸が飴に触れた瞬間、磁石の反発のように飴がビュンと飛び跳ね、私の額に直撃した。
「ほら見ろ! 掴ませる気ゼロやんか! 『幸せを掴む』んやなくて、『幸せを弾く』箸やわ、これ」
「……ちっ。ただの不良品かよ」
彼は頭を掻きながら、残念そうに箸をザックに放り込んだ。
・・・
「……まあ、いいさ。本命はこっちじゃねえ。……なあ、店主。あんた、こういうの、見たことないか?」
彼の声のトーンが、ふっと真面目なものに変わった。
彼がポケットから取り出し、手のひらの上で転がしたのは――
私は、息を呑んだ。
それは、小さな「珠」だった。
少しだけ、私の背筋が寒くなる。
私の持っている「青」とは違う。火が灯ったような、鮮烈な「赤」。
その珠が出た瞬間、私の耳には、暴力的なまでの「甘美なメロディ」が流れ込んできた。
「……っ! それ、何……?」
「拾い物だ。……あの日から、俺の目にはこいつの周りでだけ、ずっと花びらが舞って見える。……何て言うか、これを手放しちゃいけないって、本能が言ってるんだ。幸せに向かって前を向くには、こいつが必要な気がしてさ」
彼は、愛おしそうにその「赤い珠」を見つめている。
私の胸元にある「青い珠」が、彼の「赤い珠」に共鳴するように、熱を帯び始めた。
(……同じや。色は違うけど、この音の密度、この魔力波形……三枝の欠片やわ。知らんけど)
口に出しかけて、私は踏みとどまった。
彼もまた、自分だけの「救い」としてその珠を握りしめている。もし私が同じものを持っていると知られたら?
この珠を巡って、また誰かを傷つけることになるかもしれない。
「……ただの、綺麗なガラス玉やないの? 鑑定するまでもないわ。私の耳には、そんなん『無音』やわな。きまってるやんか。」
私は、嘘をついた。
耳の奥で鳴り響く、耳が溶けそうなほどの甘い歌声を必死で無視して。
「……そうかよ。まあ、あんたがそう言うなら、ただの石ころなんだろうな」
彼は少しだけ寂しそうに笑うと、赤い珠を大切そうに懐にしまい込んだ。
彼の鼻には、私の青い珠から漏れる「いい匂い」が届いているのかもしれない。だが、彼はそれ以上追及しなかった。
お互いに、自分だけが「あいつ」との約束を守っているのだと、そう信じ込もうとしている。
・・・
彼が去った後、私はシャッターを少し早めに閉めた。
店内に残されたのは、彼が置いていった「幸せを弾く箸」と、私の胸元の「青い珠」の、静かな音だけだ。
「……ほんま、お互い様やわな、悲しいけど、しゃーないか。まぁしらんけど。」
彼が隠した「赤」と、私が隠した「青」。
それが一つに重なる日が来ることを、私はまだ、自分にさえ許せずにいた。




