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無限の魔力と、一時のトイレ

・・・

七月の湿った雨が、東京・府中の街を濡らしていた。

神保町の古書店街のような洒落た風情はない。甲州街道から一本入った裏路地、年季の入った雑居ビルの第一本目のテナント。錆びついたシャッターの横に、申し訳程度に掲げられた木製の看板には、『三枝堂魔法古道具店』と、掠れた文字で書かれている。


店主の私は、カウンターの奥で、異臭と戦っていた。


「……ほんま、またこれかよ」


思わず口から漏れたのは、コテコテの関西弁だ。ここ東京に店を構えて数年、普段は標準語で「慎重」な店主を装っているが、限界が来ると素が出る。目の前の作業台に鎮座しているのは、一見、どこにでもある中古のスマートウォッチだ。しかし、そのシリコンバンドには、肉眼では見えないほど微細な魔法陣が、回路図のように刻み込まれている。


「『魔力消費量を十パーセント削減する良品』? どの口が言うとんねん」


私は、テスター代わりに使う魔法銀製のピンセットをウォッチの基板に這わせる。その瞬間、私の耳の奥に、黒板を爪で立てたような、不快な**「ノイズ(恐怖の音)」**が走った。


「うわっ……! 嫌な音やわ、ほんま。……これは『削減』やなくて、装着者の魔力を『吸収』して、外部に漏洩させとるやんか。典型的な呪いのパケット詰まりや」


能力:聴覚。

私は、魔法的な事象の「吉凶」を、音として感知する。良い選択や真実なら、とろけるような「甘美な響き」。悪い未来や危険なら、逃げ出したくなるような「恐怖のノイズ」。


このスマートウォッチが発するのは、後者だ。装着すれば、じわじわと魔力を吸い取られ、最後には魔法使いとしての「魔力枯渇」を迎える。それを「良品」として売りつけようとした業者の「嘘」が、私の耳にはノイズとして聞こえていたのだ。


私はため息をつき、ピンセットを置いた。キーボードに向かい、魔法陣の欠陥箇所を特定する。私にとっての鑑定は、古いコードをデバッグする作業に近い。


「ここやわな。この魔法文字の配列、論理的に矛盾しとる。……これを『アンインストール』して、正常な配列に『書き換え』んとあかん。知らんけど……」


最後に「知らんけど」と付け足すのは、私の臆病な防衛本能だ。もし私の鑑定が間違っていて、このウォッチが本当に良品だったら? もし解呪に失敗して、呪いが暴発したら?

数年前の「あの日」の事故が、脳裏をよぎる。……いや、今は考えるな。


私は慎重に、本当に石橋を叩き割るくらいの勢いで、解呪用の魔法術式を構築し始める。店の外では、雨足が強くなっていた。静寂。テスターの電子音と、私の耳にだけ聞こえる不快なノイズ、そして雨音だけが、店内の空気を支配していた。


その静寂が、破られた。


――ガシャアァン!


店の、建付けの悪いドアが、乱暴に押し開けられた。雨の匂いと、何かが焦げたような、ツンとする異臭が、一気に店内に流れ込む。私は、ビクッと肩を震わせ、テスターを落としそうになった。ノイズが一際、大きく響く。……危険な闖入者だ。


「……危ないから、近寄らんといて! 今、繊細なデバッグ中なんやから!」


私が叫ぶより早く、その闖入者は、土足で店内に踏み込んできた。


・・・

ずぶ濡れの男が、カウンターに身を乗り出すようにして立っていた。雨の匂いと一緒に、私の鼻を突いたのは……暴力的なまでの「酸っぱさ」だ。


「……うわ、何これ。鼻曲がるわ!」


私は思わず鼻を抑えて椅子からのけぞった。

能力:嗅覚。私にとって、悪い選択や破滅的な未来は、強烈な「酸っぱい臭い」として立ち上がってくる。目の前の男が放っているのは、腐りかけたレモンを煮詰めたような、最悪の警告臭だった。


「……おい。相変わらずだな、その顔」


男は、滴り落ちる雨水を拭いもせず、不敵に笑った。聞き覚えのある、ぶっきらぼうな声。フリーのトレジャーハンター。数年前、あの事故の現場に共にいた、私とは正反対の「無鉄砲」を絵に描いたような男。


「またそれ(慎重すぎること)かよ。そんなに鼻を塞いでたら、いい仕事ができねえぞ」


「……あんたこそ、相変わらず無茶苦茶やわ。土足で上がらんといてって、何回言ったらわかるん? 知らんけど……」


「わかってるよ。だが、これを見てくれ。……とんでもねえもんを見つけちまった」


彼が背中のザックから取り出し、カウンターにドン、と置いたのは、古びた、しかし重厚な輝きを放つ真鍮製の「コップ」だった。その瞬間、私の感覚が狂った。耳の奥では、天使の合唱のような、とろけるほど**「甘美な音」が鳴り響いている。だが、鼻には、気絶しそうなほどの「酸っぱい臭い」**が突き刺さる。


「……何これ。音は最高にええのに、臭いは最悪。……矛盾しとる」


「俺の目には、こいつの周りで花びらが狂ったように舞って見えるぜ」


彼は、視界に「花びら」が見える、幸運の予兆の保持者だ。彼が見ているのは「最高の結果」。私が見ているのは「最悪の過程」。


「これ、伝説の『魔力増幅の聖杯』のプロトタイプじゃねえか? 噂じゃ、無限の魔力を手に入れて、どんな願いも叶える力があるって話だ」


「……そんなん、お伽話やんか。第一、無限の魔力なんて論理的にありえへん。魔力は熱力学の法則に従って……」


「やってみて、それを全力でやるしかないだろう。幸せに向かって前を向くにはさ」


彼は私の慎重な言葉を遮り、真っ直ぐに私を見た。その瞳には、一欠片の疑いもない。彼はいつだってそうだ。最悪の予兆がしていても、「やってみらな分からん」と、泥の中に手を突っ込む。


「……あんたは、ほんまにアホやわな」


私はため息をつきながら、ルーペを取り出した。コップの底に刻まれた魔法陣のロジックを読み解いていく。専門的な回路設計に準じれば、これは外部の魔力ソースを強制的に体内に『マウント』するコマンドに見える。


「……ふむ。魔力供給源サーバーへのアクセスキー。……これをトリガーにして、装着者の体内に大気中の魔力を強制ロードする仕組み。……これ、もし本物やったら、確かに『願い』に届くかもしれん」


私の指先が震える。耳に響く甘い音が、私の警戒心を溶かしていく。もし、この「酸っぱい臭い」が私の勘違いだったら?


「……よし、ちょっとだけ『起動テスト』してみるわ。……知らんけど」


私は、禁断のデバッグを開始した。


・・・

私は、銀のピンセットの先で、コップの内側に刻まれた起動スイッチに触れた。


――キィィィィィィィン!


耳を劈くような、澄み切った「甘美な高音」が響き渡った。それと同時に、コップの中から、黄金色の液体のような魔力が溢れ出す。


「すげえ……! 花びらが、店中を埋め尽くしてやがる!」


彼は興奮した面持ちで、そのコップを両手で掲げた。彼の視界には、奇跡の前兆が乱れ飛んでいるのだろう。私の鼻には、相変わらず「酸っぱい臭い」がこびりついているが……この黄金の輝きの前では、私の予兆が間違っているのではないかという錯覚に陥りそうになる。


「やってみて、それを全力でやるしかないだろう。幸せに向かって前を向くにはさ!」


彼は、私を勇気づけるように笑うと、一気にその「無限の魔力」を煽った。一瞬、店内が静まり返る。彼の体が黄金色に発光し、膨大な魔力が彼の体内に『インポート』されていく。……成功した? 伝説の魔導具は、本当に、物理法則を超えた奇跡を起こしたのか?


「……どう? あんた、魔力が溢れてくる感じ、する?」


私は、期待と不安を混ぜた声で尋ねた。彼は、ぐっと腹に力を入れ、何かを確認するように目を閉じる。


「……ああ。……来る。……何かが、腹の底から、猛烈に……!」


彼の顔が、見る間に青ざめていく。黄金の光が霧散し、代わりに、彼の腹部から「グルルル……」という、極めて現実的で、魔法とは無縁な音が響いた。


「……おい。……これ、魔力じゃねえ」


「え?」


「……ただの、強烈な、排便促進魔法だ……ッ!!」


彼は、持っていたコップをカウンターに叩きつけるように置くと、脱兎のごとく店の奥にあるトイレへと駆け込んだ。


「……あ、ちょっと! そこは私のプライベートな……!」


――バタン!


激しく扉が閉まる音と共に、店内に虚しい静寂が戻った。私は、残されたコップを手に取り、もう一度ルーペで「注釈コメント」を確認した。


「……あっ。……ここ、古い魔法言語で『宿便しゅくべん』って書いてあるやんか。……無限の魔力リソースやなくて、無限の排出アウトプットやったんか……」


耳に響いていた甘美な音は、スッと消え去った。後に残ったのは、私の鼻をずっと刺激していた、あの「酸っぱい臭い」……いや、これはただの、彼の「腹痛の予兆」だったのだ。


・・・

カウンターの奥から、苦悶の声が漏れ聞こえてくる。

伝説の聖杯。願いを叶える奇跡。そんなものは、この現代日本の裏路地には、まだ早すぎたらしい。


「……ほんま、またそれかよ」


期待した自分がアホらしくて、私は深く、深くため息をついた。知らんけど……と言い忘れるほど、その脱力感は本物だった。

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