オタクはなぜ承認欲求を拗らせるのか
――「好き」を否定された少年の記憶から
承認欲求とは何か。
それは「他者から認められたい」という、ごく自然な欲求です。自分の存在や価値観が正しいと確認したい。
「それでいいんだ」と言ってほしい。誰にでもある感情です。
私にとってその原型は、小学生の頃にありました。
私は車田正美先生の漫画が好きでした。
しかし父は、それを「つまらない」と言いました。
禁止されたわけではありません。少年ジャンプは小遣いとは別にお金を出してくれていましたし、父自身もときどきパラパラと読んでいました。以前にも書きましたが、私たちは読書が基礎教養の世代です。たとえ漫画でも書籍関係はなんでも買ってくれる両親でした。
けれど評価は低い。
「なぜ自分とこんなに評価が違うのだろう」
あのとき私は、作品だけでなく、自分の感性そのものを否定されたような気持ちになりました。
ちなみに父は本宮ひろ志先生の漫画が好きだったようです。
そんな父が、ある日珍しく強く褒めた作品がありました。
映画ですが、機動戦士ガンダム「逆襲のシャア」です。たまたま居間でビデオを観ていたのですが、隣で観ていた父が言いました。
「これは面白い。お前たちが夢中になるのもわかる」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なことが起きました。
作品が評価された以上に、自分が評価されたように感じたのです。
父はファーストガンダム世代ではありません。それでも「これは評価できる」と言った。そのとき私は、「自分の好きは間違っていなかった」と安堵しました。
本当は作品の話なのに、自分の存在が肯定されたような錯覚。
ここに、オタク的承認欲求の核心がある気がします。
オタクにとって「好き」は単なる趣味ではありません。それは自己同一性の一部です。
だから漫画やアニメが低俗だと言われると、文化論ではなく、自己防衛の反応が出る。
規制の話になると、理屈より先に感情が動く。それは作品を守るというより、自分を守っているのです。
「それはくだらない」と言われると、「自分はくだらないのか」と感じてしまう。
承認欲求が満たされなかった記憶が、過敏な反応を生む。
けれど、ここで一つ自戒を込めて言いたいことがあります。
「好き」を肯定されただけで、心の壁を一気に取り払ってしまう人は、詐欺師の格好のカモになります。
あなたの感性は素晴らしい。あなたの趣味は特別だ。あなたは選ばれた存在だ。
そう言われた瞬間、少年時代のあの安堵が蘇る。
「わかってくれる人がいた」と。
しかし、承認は万能の証明ではありません。評価してくれる人がいることと、その人が信用に値するかどうかは別問題です。
オタクが承認に弱いのは、好きがアイデンティティと直結しているからです。だからこそ、そこを突かれると脆い。
私はあのとき、父の一言で父との距離が近くなった気がした。けれど同時に、あの感覚がどれほど強烈だったかも知っている。
だからこそ言いたいのです。
「好き」は守っていい。でも、「好き」を褒められただけで心を明け渡してはいけない。
承認欲求は人間らしい。けれど、それに操られない理性もまた必要です。
少年時代の自分に向けて、そして同じような記憶を持つ誰かに向けて。
好きであることは誇っていい。ただし、その誇りを利用されないように。
それが、大人になったオタクの最低限の自衛なのだと思います。




