黒く染まった川④
「ぐるる……」
低く唸る声と共に、大きな影が森の中に姿を現す。
牙をむいた、獰猛な獣だった。
「肉の匂いに釣られたんだ……」
タイオンの声に、緊張が混じる。
「どうする……?」
ノアも身構える。
「心配は無用ですよ」
ラミアの言葉に、二人は思わず振り向く。
「え?」
声はピッタリ揃った。
――その瞬間。
レヴィンとアーサーが、ゆっくりと振り向く。
「……肉取られるのは嫌ですね……むしろ……」
レヴィンの目がぎらりと光る。
「うむ……肉追加かのう……?」
アーサーも、同じく獰猛な目を見せた。
獣は一瞬ぴたりと固まり――
「グルッ!?」
次の瞬間、全力で森の奥へ逃げ去った。
「……え?」
タイオンは思わず目を丸くする。
「今の絶対“食われる側”って思われただろ」
ノアが苦笑した。
「ちぇー……行っちゃった……」
レヴィンは残念そうに肩を落とす。
アルバは少し怯えているのか、立ったり座ったりを繰り返す。
レヴィンは持ってきていたリンゴを取り出し、アルバに差し出した。
「よしよし……怖かったなー。俺がいるから大丈夫だからなー!!」
白い毛を優しく撫でる。
アルバは安心したのか、ゆっくりと座り込み、シャクシャクとリンゴを食べ始めた。
そのままレヴィンは、蹄の汚れを拭き取り、温かい敷物を敷いてやる。
そしてゆっくりと、ブラッシングをしてやった。
アルバは気持ちよさそうに目を細め、リラックスしている。
「……あいつ、動物は好きなのに、獣は捕食対象なのかよ」
ノアが苦笑混じりに呟く。
「はあ……僕は心臓止まるかと思ったよお……」
タイオンは肩を落としつつ、まだ少し顔を赤くしている。
そこでラミアがそっと右腕を挙げる。
「夜はアルバちゃんのことも配慮して、交代で見張りしませんか……?」
「ああ……それならわしが寝ずにやるぞい」
アーサーが穏やかに応じる。
「いや……俺、アルバと寝ますよ……アーサーさん、寝てください」
レヴィンは胸を張って言った。
「し、師匠はテントで寝てください……! アーサー様一人に任せる訳には……」
ラミアが慌てて言う。
「わしは平気じゃが……年長者じゃし、副隊長がのうのうと寝てる訳にはいかんしのう……どうする、レヴィン」
アーサーの声は落ち着いているが、確固たる責任感が滲む。
「じゃあ皆で交代して二人体制で見張る??」
レヴィンが提案すると、
「うむ。ラミアは経験も浅い……わしかレヴィンと組ませてやった方が良いな」
アーサーが頷く。
「えっと、じゃあ――」
① ラミア・レヴィン
② レヴィン・タイオン
③ タイオン・ノア
④ ノア・アーサー
⑤ アーサー・ラミア
「この順番でいいかな??」
レヴィンが確認する。
「私が一番睡眠時間長くて……すいません……」
ラミアは少し恐縮する。
「気にしないで」
タイオンが優しく答え、
「ふむ……これで、わしらが少し長めに見張りをするので良いかのう……」
アーサーも納得した様子だ。
「はい……俺、どうせ寝付き悪いですし」
レヴィンが笑うと、
「わしも朝四時には目が覚めるしのう」
アーサーが続ける。
「アーサーさん……おじいちゃんっすね……。レンはちゃんと寝てんのかよ」
ノアが苦笑する。
「俺、昔っからあんま夜寝ないんだよなー!! だから大丈夫大丈夫!!」
レヴィンは誇らしげに胸を張る。
「それ……大丈夫なやつか……?」
ノアは思わず目を細める。
本気で心配になってきたぞ、こいつ……。
あんな過去の話も聞いちまっただけに、余計だ。
ラミアの手によって区切りも付けられ、配慮も行き届いたテントの中。
座るスペースが整えられ、仄かな灯りの脇には小さく本も置かれている。
師匠が夜に眠れない時でも退屈しないよう、ラミアが用意したものだ。
夜も更け、静かな闇が焚き火を包み込む。
最初の見張りを任されたレヴィンとラミアは、焚き火の前に腰を下ろした。
揺らめく炎が二人の顔を淡く照らす。
レヴィンは手を火にかざし、ほっと息をつく。
ラミアは少し距離を置きつつも、炎越しにレヴィンをちらりと見やった。
「夜は冷えるな…」
「はい…師匠、上着をお持ちしますか?」
「大丈夫」
レヴィンはにこっと笑った。
「師匠はいつも大丈夫ですね…」
ラミアの小さな溜息に、焚き火の光が揺れる。
レヴィンは微かに口角を上げた。
夜の師匠は、少しだけ普段と違う雰囲気をまとっている。
どこか遠く感じる――そんな夜の顔。
ラミアはやや前のめりになり、レヴィンに詰め寄った。
「あの…辛い時は言ってくれて構いませんから…!? 師匠!!」
レヴィンは少し目を丸くする。
「辛い時??」
「はい…ええっと…不安な時とか…眠れない時とか…」
ラミアの声は小さいが、真剣そのものだった。
レヴィンは瞬きを繰り返し、曖昧に「ああ」と返す。
――この人は、自分の気持ちに疎いのか、寄りかかることが苦手なのだろう。
ふとラミアを見ると、彼女は真っ直ぐこちらを見つめ、わずかに姿勢を正していた。
レヴィンは小さく肩をすくめ、視線をそらすように言った。
「俺の心配はいいって…自分のこと考えろって」
ラミアは思わず黙り込む。
また、そうやって壁を作る……。
年下だからか、弟子だからか。
もっと力になりたいのに――その思いが胸にじんわりと残った。
結局、当たり障りのない会話だけで、危険もなく、何事もなくテントに戻るラミア。
タイオンとバトンタッチを済ませ、ラミアは仕切りのある寝袋に包まれ、ふうっとため息をついた。
火の残り香と焚き火の余熱で、まだ手のひらが温かい。
夜風がテントの隙間から入り、肩をそっと冷やす。
「…師匠、無理してるんだろうな」
ラミアは心の中でそっと呟く。
寝袋の中で身を丸め、一日の疲れと少しのもどかしさを静かに解いた。
タイオンがそっとテントから出てきて、レヴィンに声をかける。
「なにか変わったことあった?」
レヴィンは手を火にかざし、揺れる炎をじっと見つめながら少し考え込むように答えた。
「何も……この辺は比較的、安全な感じだな…」
「そっか…」
しばし沈黙が流れる。
(レン、やけに静かだなあ……)
タイオンは小さく首を傾げる。
「なにか心配事?」
「え…!? 何が…?」
目を丸くするレヴィンに、タイオンは優しく笑った。
「え…なんか、レンが大人しいから…」
「俺だって夜くらい静かにするし!! アルバが起きちゃうじゃん」
「……あ、そっちのことか…」
タイオンは少し頬を緩める。
「今夜は眠れそう? 僕はこういう日はあんまり眠れないんだよねえ…」
レヴィンは手を火にかざし、炎をぼんやりと見つめる。
「俺も……」
沈黙が静かに流れる。夜の冷気と焚き火のぬくもりが混ざり合い、言葉にならない時間が二人を包んだ。
「あ…時間だ、ノアと交代してくるな!?」
レヴィンが少し焦ったように言う。
「うん…」
タイオンは小さくため息をつき、ふわりとまどろむ。
(少し眠くなってきたなあ……でもレンは眠そうじゃなかったな……)
ノアが眠そうにテントから出てくる。
「こっちは夢の中って感じだなあ…」
タイオンはにやりと笑った。
テント内に戻ったレヴィンは、寝袋に体を沈め、腕を後頭部に敷いて天井を見上げた。
夜は苦手だ……。
焚き火の余熱も消えかけ、静寂が包む中、色んな思い出がふっと蘇ってくる。
過去の思い出が、ふと背筋をゾッと凍らせる。
あの時の恐怖や不安が、夜の闇と混ざり合い、胸の奥でざわつく。
テントの外からは、タイオンとノアの穏やかな話し声が聞こえてくる。
少し耳を傾けると、その声の柔らかさに、胸の奥がふっと緩む。
(今はもうアグニはいない……もう終わったんだ……)
レヴィンは小さく肩をすくめ、天井の布をぼんやり見つめる。
夜の冷気と仲間の声に包まれ、少しずつ心が落ち着きを取り戻す。
そして、静かに睡魔に吸い込まれていった。




