静かに広がる波紋
ある日、いつものように登校し、下駄箱を開くと白い便箋が上履きの上に置かれていた。
「はぁ……また」
開けずとも予想はつく。“ラブレター”だ。
またどこぞの身の程知らずが置いていったに違いない。
このまま破り捨てたい衝動に駆られるが、そんなことをすれば黒羽沙羅という偶像に傷がつく。
ため息を一つ吐き、便箋を開いて中身をざっと確認する。
「放課後、中庭で待っています」――いつもの文面。
(こんなのに時間を使ってる場合じゃないのに……)
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「おはよう」
「あー、黒羽さんおはようー!」
「おはよー!」
1年C組の扉を開けると、教室が一斉に華やぐ。
彼女の笑顔はこのクラスの朝の合図のようなものだった。
「葛城くんもおはよう」
前の席に座る彼は、相変わらず本に目を落としたまま。
ページをめくる手を止めることなく、短く答えた。
「ああ、おはよう」
ただその一言に、沙羅の胸は熱くなった。
今まで何度声をかけても、返事すらなかったのだ。
ようやく彼が“人として”向き合ってくれた気がして、笑がこぼれる。
「なになにー?葛城、黒羽さんには挨拶するようになったの?」
「黒羽さん、ずっと話しかけてたもんね〜」
数人の女子が面白そうに冷やかす。
沙羅は柔らかく笑って答えた。
「恋愛感情があってやっていたわけじゃありませんよ。ただ、クラスメイトとして話してくれないのは寂しいじゃないですか」
「なるほどね〜。でも黒羽さんだったらもっとかっこいい人が似合うよね」
彼女たちの軽口の裏で、ひそやかな視線がひとつ――葛城を射抜いていた。
それは嫉妬という名の毒を孕んで。
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昼休み。
中庭の隅、ベンチの前に立つ男子生徒。
背筋が固まり、目は緊張で泳いでいた。
「黒羽沙羅さん! 初めて見た時から……いや、雑誌で見たときから好きでした! 付き合ってください!!」
(またか……)
少し間を置いて、申し訳なさそうに微笑む。
「お気持ちはとても嬉しいです。ただ、今は学業に専念したいの。ごめんなさい」
男子生徒は肩を落とし、去っていった。
見送る沙羅の表情は、わずかに曇っていた。
(私に惹かれるのは仕方ない。でも……誰も”本当の私”を見てない)
そのあとの休み時間。
廊下を歩いていると嫌でもコソコソ話しが耳に入る。
「今回は、サッカー部の山本君が撃沈したらしいよ」
「入学してもう12人目くらいじゃない?」
「いや、13人目よ」
「黒羽さんは色恋とか眼中に無いんだろうね」
先程、告白を断った男子の噂がもう流れているようだ。
ここまで早いということは出処は本人だろう。
(全く告白するだけならまだしも、”その後”にさらに迷惑をかけられたらいい気分じゃないわ)
それを表面に見せることはなく沙羅は廊下を過ぎ去るのであった。
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数日後――。
教室の空気に、微妙な変化があった。
沙羅に好意を寄せていた一部の男子が、なぜか葛城を露骨に避け始めたのだ。
彼が通ると、わずかにざわめきが走り、背後で小声が飛ぶ。
「なんであんな地味なやつが黒羽さんと……?」
「おかしいよな。絶対裏でなにかある」
最初はただの陰口だった。
しかし、それは次第に形を変えていく。
元々は通りすがりに肩がぶつけたり、少し足を引っ掛けたりなど些細なことだった。
ーーが、それは段々とエスカレートしていくこととなる。
ある朝、葛城の机の中からチョークの粉が山盛りに出てきた。
別の日には、教科書に「黒羽の犬」と落書きがされていた。
それでも葛城は、眉ひとつ動かさず淡々と授業を受けた。
(どうして……何も言い返さないの?)
沙羅は見ていて、胸がざわついた。
原因は何となく予想ができる。
沙羅が少しずつ距離を縮めてきたせいで、それをよく思わない生徒から葛城が標的になっている。
けれど、彼は何も語らない。
まるで、孤独そのものを鎧にしているように。
◆◆◆
一週間後。
放課後の廊下。
沙羅が教室を出ようとした瞬間、向かいの壁際で誰かの肩がぶつかる鈍い音がした。
目を向けると、男子二人が葛城の胸倉を軽く掴んでいた。
「お前、調子乗んなよ? 黒羽さんと親しいフリしてんじゃねぇよ」
「“挨拶するだけ”でいい気になってんのか?」
葛城は無言のまま彼らを見た。
その目には、怒りも怯えもない。
ただ冷たい無関心だけが宿っていた。
やがて静かに言う。
「用はそれだけか?済んだなら、通してくれ」
淡々とその場を抜け出し、背を向けて去る。
残された二人は拍子抜けしたように顔を見合わせた。
沙羅は拳を握りしめていた。
(……バカ。どうして何も言わないの)
胸の奥に、焦りと罪悪感がじわりと広がっていく。
(私が動かしたはずの“物語”なのに……彼の章だけ、読めない)
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その夜。
屋敷のリビング。
いつも通り紅茶を飲む彼の横顔を、沙羅はじっと見つめていた。
「……ねぇ、学園で何かあった?」
「別に何も無いですよ」
「嘘」
「本当です。なにも問題なんてないです。」
短く言い切り、彼は本へ視線を戻す。
その本のページの向こうに、何かを隠している気がして、沙羅は胸がざわめいた。
(あの日、初めて挨拶を返してくれた。あの瞬間、本当に嬉しかったのに……)
言葉を飲み込み、カップをテーブルに置く。
そして小さく呟いた。
「……今度は、私の番ね」
沙羅の瞳は、静かに決意を宿していた。
その夜、彼女は初めて“守るための策略”を考え始めた。




