最初のおねがい
朝食のテーブルに、スマホが二台、向かい合って置かれていた。
「期末の約束でございます。私からの最初のお願いは連絡先の交換です。」
紅茶の湯気の向こうで、葛城はいつもの静かな声で要求した。
「ぶっ!……連絡先?」
驚きのあまり口から紅茶を零し、沙羅の瞳が大きく見開かれる。
「決して好意ではございません。業務および緊急時のためです。先日ようにご連絡が取れず困る状況は、避けたく存じます」
「……あのときのこと、ね」
(あのとき私は部屋に籠って、彼はノックしかできなかった)
「た、確かにあの時は迷惑をかけたし悪かったわよ...」
「緊急の際はお電話で。平常時は、ご都合のよろしい折にご返信いただければ結構です」
「了解。安全のため、ね」
2人は画面を近づけ、ピッという軽い音で繋がった。
表示名はシンプルに〈Shinya〉〈Sara〉。
葛城は“緊急”スターを付ける。
沙羅は”お気に入り”スターを付ける。
——頬が、勝手にゆるむ。こんな小さなことなのに、胸の奥がふわっと温かくなった。
「テストで一回だけ鳴らします」
短い呼び出し音。
「聞こえますか?」
「えぇ、聞こえるわ」
——ただそれだけの会話。なのに胸のどこかが少し軽くなる。
「もう一つ。今週、以前から気になっており検証したい“噂”がございます。放課後少しだけ、お付き合いいただけますか」
普段は見せないとてもにこやかな笑顔を向けてくる葛城。
その顔はとても眼福なのだが、普段無表情の彼が表情を変えることがある要因などただ一つしかない。
「嫌な予感しかしないのだけど...」
思わず顔が曇る沙羅。
映画館で縮こまった夜がよみがえる。
(でも、“お願い権”の勝負は私が持ちかけた)
「ちなみにその噂って?」
「最近学園で流行っている噂の一つです。
なぜか放課後になると理科棟の壁から夜通し音が聞こえるそうです」
「えぇ...、やっぱり怖そうな噂じゃない!
ほんっとうに少しだけ、明るいうちに行って何も無ければすぐ帰る!」
「はい、もちろんでございます。」
カチリ。トーストに入るナイフの小さな音が、やけに頼もしく響いた。
◆◆◆
ホームルーム前の教室。
隣の列からひょこっと顔を出した莉鈴が、目を細めて笑う。
「ねぇねぇ、深哉くんから聞いたけど今日の放課後面白い調査するんだって」
「あら、あなたも来てくれるの?」
(莉鈴も怖いものは苦手なはずなのに楽しそうに詮索してくるということは何も聞かされてないわね)
「いいの!?」
「えぇ、葛城くんも構わないわよね」
「構わない」
「だそうよ、ようこそ学校の怪談調査隊へ」
沙羅は皮肉を込めた笑みを浮かべ莉鈴を歓迎した。
「な、なるほど。私今日は用事あるの忘れてた...へへへ」
逃げようとする莉鈴の後ろ襟を沙羅が掴んで逃がさない。
「逃がさないわよ。放課後、必ず来なさい」
「はぁい...」と元気の無い声で返事して莉鈴は教室を出ていった。
チャイムが鳴り、廊下側のドアから森下先生が顔を出したことで学生の一日が始まった。
◆◆◆
午前の授業は坂道のように過ぎ、昼休み。今日は中庭で弁当を広げる。風が気持ちいい。向こうのベンチに葛城くんが本を開いていて、私は手を振るだけで近づかない。
(……放課後は“噂の検証”。ほんとはとても怖いけど——約束だもの)
午後の授業が終わると同時に、私は短くメッセージを送った。〈今から理科棟へ〉。
手元から顔を上げると、もう彼は立ち上がっていた。
理科棟の廊下は、午後の陽が斜めに差している。柔らかな埃が光る。
結局、莉鈴は絶対に行かないと駄々をこねるので教室に置いてきた。何かあった時には必ず助けを呼ぶことを条件に。
ふと、耳の端にピッ……ピッ……と規則的な音が引っかかった。
「聞こえる?」
と葛城へ問いかける。
「ああ……聞こえる。なにかのアラート音に似てる。方向は……理科準備室の方だ」
音を追って理科準備室の方へ歩みを進める。準備室の扉は施錠され、横の壁には点検票が貼ってある。クリップで綴じられた紙の最終点検欄が空欄になっていた。
「先週、確認が飛んでるな」
「撮るわ」
沙羅はスマホを構える。
点検票のアップ、扉の全景、廊下の位置を三枚、それから時計と一緒に音の録画。
教室へ戻っていた白銀にメッセージを投げる。〈A4で“立入注意 点検中”って即席の掲示、作れる?〉
数分後、廊下の向こうから莉鈴が駆けてきた。プリンターの温かさが残る紙を手に。
「フォントは読みやすいやつにしたよ。テープも借りてきた」
「助かるわ」
三人で手早く掲示を扉の正面と角に貼り、沙羅が森下先生へ写真と短い説明を送る。
〈理科準備室の非常ベルと思われる断続音、点検票の最終欄が空欄です。安全のため立入注意の掲示を仮設しました〉
返信はすぐ来た。
〈助かったわ。今、事務を通して業者手配する。準備室は先生方にも共有しておくね〉
「期待はしてなかったがやはり怪異ではないな」と葛城くんが息を吐く。
「怖さの正体がわかると、ちゃんと怖くなくなるのね」
「怖いのは“わからない”だ。ホラーでも現実でも同じだ」
莉鈴が肩で息をしながら、にこりとする。
「チームで対処って感じ、いいね。……あ、写真の掲示は私が回収しておくから、先生の掲示に差し替えが来たら処理するね」
「ありがとう」
わずか三十分程でのスピード解決。
けれど、何かを“終わらせた”手応えが残る。
(……怖かったけど、終わった。このくらいなら——私だって、できる)
◆◆◆
帰り道。校門の外まで来たところで、沙羅のスマホが短く震えた。
〈週末の内覧会に同伴者を連れて来い。執事で構わない〉
(……来たわね、家の“舞台”) (ホラーのお願いと、ブランドの式典。まったく別の現実が同時に動き出す——)
私は指先で短く返信を打つ。〈分かりましたお父様。出席します〉
そして、連絡先の一覧で〈Shinya〉を軽くタップし、短いテキストを送った。〈週末、内覧会に同行を〉
“既読”の表示が付いて短い文が一言だけ返信される。
〈了解〉
(“お嬢様”じゃない言葉で、“私”として頼んで、“彼”として受け取って——それで十分)
(それに、連絡先が繋がっただけで、私はこんなに嬉しい)
◆◆◆
夜。屋敷のリビングは、ランプの色が柔らかい。テーブルの上には、夕食の片付けを終えた跡。窓の外では、風が庭木を揺らしている。
「本日の件、森下先生よりお礼のご連絡がございました」
「よかった。」
「そうだ、連絡先——交換してくれてありがとう」
「私の方こそ。『届かない』のは最悪のホラーでございますから」
私はふっと笑う。 「じゃあ、明日は届く話をしましょう。——内覧会のドレスコード、あなたにも関わってくるから」
「承知いたしました。必要事項をお知らせください」
「任せて」
葛城は「それでは失礼いたします」と軽く会釈して、キッチンの電気を落とした。廊下の足音が遠ざかっていく。
部屋にひとり残ると、私はさっきのメッセージをもう一度開いた。〈了解〉——それだけの一行が、今夜はやけに頼もしい。
(“怖い音”を止めるのも、私たち。家の舞台に立つのも、私たち。) (そのたびに、脳のどこかが上書きされていく——“完璧な令嬢”の回路でも、“執事”の回路でもない、新しい配線で)
私はスマホを伏せ、深く息を吸った。
週末まで、あと五日。




