ざわめく1年C組
月曜の朝。
沙羅はいつものように登校していた。
だが、心のどこかがざわついていた。
理由はわかっている。
――昨日、彼に髪を切らせたからだ。
(……落ち着いて、私。これはあくまで戦略。深哉が輝けば、私もまた輝くの。そういう理屈でしょ)
自分に言い聞かせながらも、胸の奥で小さな鼓動が跳ねた。
気づかないふりをして、靴音を速める。
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沙羅を見送り、自身も制服に袖を通した葛城は、静かに玄関を出た。
その姿は、昨日までの“地味な姿”とはまるで別人だった。
流れるような前髪の隙間から覗く灰青色の瞳が、光を受けて冷たくも穏やかに揺れる。
整った鼻筋に、薄く引かれた唇。
仕立ての良い制服が、彼の姿をまるで雑誌の中のモデルのように映し出していた。
昇降口をくぐった瞬間、ざわめきが走る。
普段、注目を集めるのは沙羅の方だった。
だが今日、視線はすべて――葛城に注がれていた。
「ねぇ、あの人だれ? 転校生?」
「やば、あの顔……整いすぎてない?」
「先輩とか?…」
そのさざ波のような声を背に、彼はただ無言で靴を履き替えた。
目線は一切揺れず、足取りもいつものように落ち着いている。
だが、その静寂こそが周囲をさらに惹きつけていた。
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ホームルーム五分前。
いつも葛城が登校してくる時間。
沙羅は教科書をめくるふりをしながら、何度も時計を見た。
(いつも通り……彼はギリギリに来る。今日はそれだけ)
いつもより静かな朝の教室。
数人が談笑し、何人かはスマホを見ている。
前の席――葛城の席は、まだ空いていた。
扉が開く。
その音に、反射的に顔を上げる。
そして、息を呑んだ。
入ってきたのは、昨日までの“葛城深哉”とは似ても似つかない男子だった。
整えられた髪、露わになったシャープな輪郭。
涼しげな灰青の瞳に、理知的な光を宿している。
背筋は真っすぐで、動作に一切の無駄がない。
教室が、音を失った。
「……転校生?」
「先生、そんな話してなかったよな?」
「てか、イケメンすぎ……」
ざわつきは一瞬で広がる。
だが、その“転校生”が迷いなく教室の奥――葛城深哉の席に歩み寄り、椅子を引いた瞬間、時間が止まった。
「えっ……そこ、葛城の席じゃん?」
「ちょ、間違えて――」
「……うそ、あれ、葛城……?」
一拍の沈黙。
次の瞬間、爆発するような声が上がった。
「マジ!? 本当に葛城!?」
「前髪切っただけでこうなる!? 詐欺じゃん!」
「顔変わってるってレベルじゃない!」
沙羅の唇がかすかに震えた。
(……まさか、ここまでとは)
「...おはよう」
葛城はいつもと変わらない淡々とした挨拶を沙羅にかける。
それだけで女子たちの息が一斉に止まる。
廊下側のドアから森下が顔を覗かせ、「校内での無断撮影は禁止。生徒手帳、もう一度読んでね」と一言。
いくつかのスマホが気まずそうに伏せられ、教室の空気がわずかに落ち着いた。
(……これが、彼の本当の姿)
黒羽は胸の内で呟いた。
誇らしさと、得体の知れない焦りが入り混じる。
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「葛城くん、一緒にお昼どう?」
「いいからこっち座ってって!」
昼休みになるやいなや数人の女子が、群がるように声をかけていた。
葛城は箸を動かしながら、視線も向けずに答える。
「遠慮する。うるさい場所は嫌いだから」
静かな一言。
だが、その言葉に妙な熱が走る。
「ちょ、つめたーい! でもイケメンだから許すー!」
「毒舌なのギャップで好きかも!」
「……騒ぐくらいなら、もう少し咀嚼音を静かにしたらどうです?」
葛城の声が冷ややかに落ちる。
女子たちが一瞬で口をつぐみ、すぐに笑いに変わる。
それでも、彼の放つ空気は誰も軽々しく近づけないものになっていた。
その様子を見つめながら、沙羅の弁当の箸は止まる。
(……成功、のはずよ。なのに、何? このざらつく感じ)
彼を気にかけるのは自分だけだった。
それが当然だった。
なのに、今は違う。
――“みんなの葛城”になってしまったような気がして、心の奥がきゅっと痛んだ。
「……なによ、髪を切っただけじゃない」
苦笑混じりに呟き、無理やり笑みを作る。
(これは彼のため。私のためでもある。……なのに)
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夕食後。
静かなリビング。
窓にはいつの間にか降ったのか雨の雫が張り付いている。
ソファに腰を下ろした沙羅は、足を組み替えながら葛城を見上げる。
「今日のところは――上出来ね」
「ご満足いただけて、なによりです」
一礼し、表情ひとつ変えない。
「問題は明日からよ。あなたに対する嫌がらせがどう変わるか」
「……はい」
「それにしても……今日は随分モテモテだったじゃない?」
沙羅は笑おうとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。
「……私は、本を読んでいる方が好きです。誰にも邪魔されず、こことは違う世界に浸れるので」
淡々とした声。
その裏に、現実への拒絶がかすかに滲む。
沙羅は少し黙り込み、そして問う。
「ねぇ……どっちが本当のあなたなの?」
深哉の瞳が、わずかに揺れた。
「どっち、とは?」
「今こうして“執事”として話すあなたと……学園で“根暗で毒舌な仮面”を被ってるあなた。どっちが本当なの?」
「……その言い方ですと、もう答えをお持ちなのでは?」
「えぇ。でも、私の推測でしかないわ」
わずかな沈黙。
(どちらでしょうね……私にも、わかりません)
その声は本人にしか聞き取れないほど小さな呟きであった。
「申し訳ございませんが――お答えしかねます」
沙羅は目を伏せる。
「……そう」
短く答え、ソファから立ち上がる。
「ただひとつ。クラスメイトにもあまり毒を吐くのは控えなさい。友人は多い方が得よ。それだけ」
彼女の背中が階段を上がっていく音が消え、部屋には静寂が戻る。
過去の記憶がフラッシュバックする。
ーーー他人と親しくなるのが怖い
――信じてみよう。もう一度だけ。
それで再び踏み出した一歩。てあればもう一歩...
残された葛城は、拳を膝の上で握りしめた。
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