その仮面の下には
朝、鏡の前で立ち尽くしていた。
――寝不足。
そんな言葉で片づけるには、あまりにも深刻だった。
頬の血色は悪く、目の下にはくっきりとしたクマ。
高級ファンデーションでも、コンシーラーでも、うまく隠せない。
「……どうして寝れなかったのかしら」
答えは分かっている。
昨日の夜、頭の中を何度もリピートした映像。
階段の上での事故――そして、倒れ込む途中で見た、彼の顔がずっと頭から離れなかった。
思い出しただけで胸が跳ねる。
――まったく、どうして私がこんなに動揺してるのよ。
「……今日は、普段通り。ちゃんと黒羽沙羅として。」
鏡の中の自分にそう言い聞かせ、口角を上げる。
完璧な笑顔。完璧な姿勢。
それは、誰に見られても“理想の令嬢”だと思われる仮面。
けれど、その仮面がやけに重く感じた。
◆◆◆
校門を抜けると風が頬を撫でた。
登校中の生徒たちの笑い声が、まるで遠い世界の音のように響く。
(大丈夫。今日は普段通り。それだけよ。)
そう言い聞かせながら教室のドアを開く。
中はいつも通りの朝の空気。
けれど、彼の席はぽっかりと空いていた。
(まだ来てない……よかった)
ホッと息を吐いた瞬間、ドアが静かに開いた。
「……おはよう。」
低く落ち着いた声が教室に響く。
反射的に背筋が伸びた。
「お、おはよう……葛城くん。」
返ってきたのは、相変わらず抑揚のない声。
ただの一言なのに、心臓が跳ねる。
変わらず前髪で顔を隠しながら、静かに席へ向かった。
(あの下に隠れているのを、みんなは知らない……)
そのとき、後ろの方からひそひそ声が聞こえた。
「また本読んでるよ」
「地味だよねー、あれで黒羽さんと関わるとか信じらんない」
眉がぴくりと動いた。
知らず、拳を握っていた。
(……そうだわ。みんな、外見だけで判断してるのよ。)
彼が標的にされる理由。
それは“彼自身が目立たないようにしているから”。
けれど、それは誤解だ。
本当の彼を見れば――誰もが言葉を失うだろう。
(……彼が悪いわけじゃない。周囲が間違ってるの。)
その思いが胸の奥に熱を灯した。
「……見せてやればいいのよ。あの仮面の下の本当の顔を。」
小さな呟きは、自分の耳にしか届かなかった。
◆◆◆
その日の夜。
夕食を終えた沙羅はリビングに葛城を呼び出す。
向かいに座る葛城は、相変わらず無表情。
長い前髪が、瞳の色さえ隠している。
「話とはなんでしょうか」
(見た目で判断される限り、あの“誤解”は終わらない。いじめも、噂も。)
「単刀直入に言うわ。あなた――髪を切りなさい!」
「……え?」
まるで雷が落ちたように、一瞬空気が止まった。彼の眉がぴくりと動く。
「嫌です」
あっさりと拒絶。
まるでそれ以外の選択肢がないかのように。
「どうして? 別に変なこと言ってないでしょ。」
「理由がありません。誰に見せるために切るんです?」
淡々とした口調。
だけど、そこにわずかな警戒が滲んでいた。
「見せるためじゃないわ。誤解を止めるためよ。あなたの机の落書きも、視線も、まず“外側”で判断されるところから始まってる」
「隠すのをやめるためよ。」
沙羅の声は意外にも穏やかだった。
彼女は椅子から身を乗り出す。
「ねぇ葛城くん。どうしてそんなに隠そうとするの? 誰かに見られるのが嫌なの?」
彼は視線を逸らす。
答えたくない、そんな態度だった。
「……別に。」
「“別に”じゃないでしょ。だって、あの顔を隠してるの、もったいないもの。」
「……見たんですね」
「えぇ。階段の時、偶然だけど。」
沙羅の声は静かに響いた。
思い出すだけで頬が熱くなる。
「驚いたわ。あんな顔、滅多にいないもの。」
「……それで、切れと仰っているのですか?」
「そうよ。あなたが地味だの暗いだの言われてるのは、見た目の印象が原因。だったら、変えればいいじゃない。」
葛城はふっと笑った。
それは諦めに似た笑み。
「そんな簡単に変わるなら、誰も苦労しませんよ。私はこのままでいい。」
「一度だけでいい。似合わなければ戻す。でも**一週間だけ“実験”**させて。」
「でもそれで、あなたは誤解され続けるのよ。」
沙羅の声が一瞬、震えた。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
「人は見た目で判断する。くだらないけど、それが現実。だったらその武器を、利用すればいいの。」
「武器、ですか。」
「そうよ。あなたの顔は、武器になる。学園中がひっくり返るくらいの、ね。」
沈黙が流れた。
カーテンが揺れ、月明かりが彼の横顔を照らす。光の中に浮かぶその輪郭は、やはり美しかった。
「……あなたのこと、誤解されたままで終わってほしくないの。」
その一言に、彼の目がわずかに見開かれた。
▼▼▼▼▼
――葛城深哉は思う。
今まで、自分のことを“守る”ために築いてきた壁。
誰にも踏み込ませないようにした、冷たい殻。
けれど、この少女はまるで当然のようにそこを踏み越えてくる。
(僕のことを考えてるように見えて、本当は自分の理想を押し付けてるだけじゃないのか?)
そう思いたいのに――違った。
彼女の声には、妙な真剣さがあった。
あれは同情でも偽善でもない。
まるで、自分自身を重ねているような響き。
黒羽沙羅という少女。
完璧で、美しく、いつも余裕があるように見える彼女。
でもその笑顔は、どこか壊れやすいガラスのように見えた。
(……似てるのかもしれない。)
ふと、昔の記憶がよぎる。
中学の頃、ほんの少しだけ心を開いた誰か。
その人に裏切られた痛み。
だからこそ、もう誰にも期待しないようにした。信じることをやめた。
それでも――。
「あなたのこと、誤解されたままで終わってほしくないの。」
その言葉が、胸の奥に残った。
まるで凍っていた心に火を灯すように。
(……もう一度だけ。信じてみてもいいのかもしれない。)
▲▲▲▲▲▲
「……今回だけですよ。」
小さな声だった。
けれど、確かに彼女の耳には届いていた。
「ほんとに!?」
思わず身を乗り出す。
頬がぱっと明るくなる。
(まさか、OKされるとは思ってなかったわ……!)
葛城は少しだけ視線を逸らし、ため息をついた。
「髪を切ったって、何も変わらないかもしれませんよ。」
「変わるわよ。少なくとも、私の見る世界はね。」
「……それ、どんな意味ですか。」
「さぁ?」
沙羅は軽く笑った。
その笑みは、どこか柔らかく、昨日までの“お嬢様の仮面”とは違っていた。
「ちょうど明日から土曜だし、美容室に行きましょう。――私が連れていくわ。」
「え?」
「似合う髪型、私が決めてあげる。スタイリングも教えてあげるわ。」
「勝手に決めないでください。」
「雇用主の命令よ。異論は認めません。」
沙羅は軽やかに笑った。
その声につられるように、葛城の口角がほんのわずかに上がった。
(……いま、笑った?)
前髪に隠れて見えないはずなのに、確かに分かった。
それだけで、胸が高鳴る。
(あぁ、やっぱり。こっち彼が本当の“彼”なのね)
黒羽沙羅は確信した。
学園で見せる冷たい仮面は、彼にとっての“防衛”なのだ。
それを少しでも外させたい。
彼の“本当の顔”を、誰よりも早く見たい。
(明日、きっと――彼が変わる。)
その夜、沙羅は美容室に予約を入れた。〈土曜10:00/担当:美咲〉という通知が静かに光る。
その夜、黒羽沙羅は久しぶりに深い眠りについた。
夢の中では、髪を切った彼が、あの静かな笑みを浮かべていた。




