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鼓動の理由

 翌朝になっても昨日熱は冷めなかった。

 沙羅は鏡の前で、自分の顔をじっと見つめていた。


「……おかしい。なんでこんなに顔が熱いの。」


 頬を軽く叩いてみる。

 赤みは引かない。

 昨夜、あの事故のあと――彼の顔が目の前にあった瞬間の記憶が、まぶたの裏に焼きついて離れない。


 階段の上でバランスを崩し、転げ落ちる途中、反射的に彼の腕を掴んだ。

 結果、ふたりして廊下の床に転がり、気づけば自分が上に覆いかぶさる形で――。


(あの距離……近すぎた。というか、目の前……)


 前髪の奥から覗いた瞳。

 白い肌に浮かぶ淡い傷跡。

 そして、意外なほど整った横顔。


 ――心臓が、爆発するかと思った。


「……っ!」


 思い出すたび、胸の奥がきゅうっと痛む。

 これは単なる驚きじゃない。わかってる。

 だけど、認めたくない。まだ早い。アイツを落とすはずがなんで私がーー。


「お嬢様、朝食が冷めてしまいますよ」

ドアの向こうからする声はいつも通りなのにやけに耳触りがよく聞こえてくる。


「あっ、は、はいっ!」


 返事の声が裏返った。


(だめだ……私完璧に動揺してる……!)


---


 朝の校門前は、いつもより人が多く感じた。

 沙羅は深呼吸をして、いつものように微笑を浮かべる。


(落ち着け、私。昨日のことは“事故”。それ以上でもそれ以下でもない。)


 教室に入ると、まだ半分ほどしか生徒はいない。

 彼の席――いつも本を読んでいる場所は、空いている。


(そうよね、彼はいつも遅めに来るんだったわ)


 席にカバンを置き、鏡で前髪を整える。

 ――そのとき、扉が開く音。


 沙羅の心臓が一瞬止まる。


 ゆっくりと教室に入ってきたのは、いつものように無表情の葛城。

 昨日と変わらぬ、落ち着いた歩調。

 だが沙羅にとっては、その姿がスローモーションに見えた。


(き、来た……!)


 息を整え、声をかけるタイミングを見計らう。


「お、おはよう葛城くん!」


 自分の声が思っていたよりも大きく響いた。

 教室の空気が一瞬止まる。


「……おはよう。」


 淡々と返されただけで、心拍数が跳ね上がる。

 長い前髪に隠れ細かな表情は相変わらず分からないが、特に表情は変わっていないだろう。 そのまま席に座って文庫を開いた。


(だめ、これじゃ変に思われる!)


「そ、そういえば昨日は……その、痛みとか大丈夫? 階段の、あれ。」


「あぁ。平気だ。」


「そ、そう。なら良かった!」


 口元が引きつる。

 彼はわずかに首を傾げたが、何も言わずページをめくった。

 ――その仕草さえ妙に絵になる。

 沙羅は慌てて顔をそむけ、鞄の中をガサゴソと漁るフリをした。


(いつも通り、いつも通り……!)


 周囲では女子たちが小声で話している。


「黒羽さん、今日テンション高くない?」「なんか変だよね」

「もしかして葛城くんと何かあった?」


「な、なんにもありません!」


 即答。

 数人が驚いて目を丸くする。

 彼女は咳払いして、そっと椅子に座り直す。


(最悪だ……完全に空回ってる。)


---


 昼休みに私は屋上へ逃げるように向かった。

 秋風が髪を揺らし、心の熱を少しだけ冷ましてくれる。


「……どうしちゃったんだろ、私。」


 モデルとして、黒羽この令嬢として、恋愛など時間の無駄と切り捨ててきた。

 でも、今は――彼の顔を思い出すだけで、心臓が勝手に早鐘を打つ。


(好き、って……こういうこと?)


 頭を振る。認めたら終わりだ。

 だが、理屈では止まらない。


---


 放課後に下駄箱の前で、ちょうど靴を履き替えていた葛城に出くわした。


「……。」


「……。」


 無言の時間がやけに長い。

 何か話さなきゃと思うのに、言葉が出てこない。


「えっと、その……本、また読んでるの?」


「まぁな。」


「そ、そう……! やっぱ読書って素敵よね!」


 なぜか語尾が上ずる。

 彼は訝しげな目を向け。


「なんかお前今日気持ち悪いぞ、かなり」


「え?そっ、そうかしら。全然いつも通りなのだけど」


そして「そうか」と告げると沙羅に背中を向け一足先に帰路に着く葛城。


「え、あ……うん」

 彼が去ったあと、沙羅は壁に背を預けてずるずると座り込んだ。


(もう、だめ……全然いつも通りじゃないじゃない……!)


---


 帰宅後、ベッドに寝転がり、天井を見つめながら呟く。


「明日こそは……ちゃんと普通に接しよう。」

目を瞑ると葛城の顔と声がフラッシュバックする。ただそれだけで心臓が跳ね上がる。


「……ど、どうすればいいのよ、これ。」

 頬を覆いながら、ベッドの上で転がる。

 その夜、沙羅は一睡もできなかった。

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