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反転する世界

 朝、鳳華学園の校門をくぐる沙羅の足取りは、どこか軽かった。

 昨日のメモ――あの脅し文句めいた一文を見ても、もう彼女の心は揺れなかった。

(あの程度で折れるなら、“黒羽沙羅”の名は要らない)


それにメモの差出人もその裏にある意図も沙羅には分かっていたのだ。


度を超えた嫌がらせは、なりを潜めたが、葛城に向けられる陰口は多少なりともまだあるのが現状。

彼に対する視線は依然として冷たい。

それを感じるたびに、胸の奥がちくりと痛む。


ちらりと前の席を見ると、彼は今日も無表情のまま本を開いている。

あのとき言っていた、「人を信用すると失うからだ」――その言葉が、頭から離れなかった。


(失うって、誰を? 何を?)

 

けれど、問いただすことはできなかった。

葛城深哉という少年は、彼女の常識を超えた壁を持っている。

それを壊すには、ただの言葉では足りない。


――けれど、偶然というのはいつも唐突に訪れる。


◆◆◆―


その日の夜、家の中は妙に静かだった。 

いつもなら食堂から聞こえる食器の音も、廊下に漂う紅茶の香りもない。

外から聞こえる虫の音だけが響いている。


「葛城くん?」


呼びかけても返事がない。

沙羅はスリッパの音を響かせながら、2階の廊下を歩いていく。

1階のキッチンへ向かう途中、階段の下に葛城の姿が見えた。


黒いシャツにスラックス。

彼はトレイを片手に、静かにキッチンへ向かおうとしていた。


「あ、ちょっと待ちなさい!」


沙羅が声を上げ、慌てて階段を駆け下りる。

その瞬間、スリッパの踵が段差に引っかかった。


「きゃっ――!?」


バランスを崩した体が、重力に引きずられるように傾く。

視界が回転し、世界が上下逆さまになる。


次の瞬間、何か柔らかいものにぶつかり、鈍い音が響いた。


「……いって……」


気づけば、沙羅は誰かの上に倒れ込んでいた。

彼女の下敷きとなった彼が衝撃を和らげ、二人は床の上で静止する。

ほんの数秒――けれど、その時間は永遠にも感じられた。


目を開けた沙羅の視界に、彼の顔があった。


彼の長い前髪が乱れ、いつも隠されていた顔が露わになる。

――それは、今まで見たどんな顔よりも美しかった。

光を受けた肌は透き通るように白く、整った鼻筋と形の良い唇。

けれど、額には焼け焦げたような傷跡が一筋、斜めに走っていた。


その傷だけが、彼の顔の“完成”をわずかに壊していた。

だが、それがむしろ彼という存在を、恐ろしいほど人間らしくしていた。


「……お嬢様、どいてください。」  

低い声。

だが沙羅は動けなかった。 

その瞳に吸い込まれるように、呼吸が浅くなる。


(なに、これ……心臓が……)


指先が震え、鼓動が痛いほどに速くなる。

息をするたび、胸の奥が熱くなる。


「お嬢様、聞こえてますか?」


「……あ、ご、ごめんなさいっ!」

 慌てて身体を起こし、飛び退く。


「お嬢様、顔が赤いようですが熱ですか?」


「そ、そうかもしれないわね!」


叫ぶように立ち上がり、顔を背ける。心臓が暴走している。

呼吸を整えようとしても、うまくいかない。


背を向けたまま、彼の声が追いかけてくる。


「怪我はありませんでしたか?」

いつもより少し低く、穏やかな声。

その響きが、胸の奥で弾ける。


「な、ないわよ……私より、あなたのほうが――」


言いかけて、はっとする。

彼の手が赤く腫れているのが視界に入る。

あの転倒の拍子に、ぶつけたようだ。


「……それ、痛くないの?」


「あぁ、これですか冷やしてれば大丈夫です。」


あっさりとした返事。 

その後すぐ「では、まだ仕事があるので」と言い残しキッチンへと消えていった。


どうやら葛城は顔を見られたことに気づいていないようであった。


---


ベッドの上で、沙羅は枕に顔を埋めた。

頬の熱が冷めない。

瞼を閉じても、葛城の顔が焼き付いて離れない。


「どうしよう……あんな顔、反則でしょ……」


ふと、思い出す。

彼の額の傷、そしてあの言葉――“人を信用すると、失う”。

(あの傷と、あの言葉……関係あるのかしら)


今まで、ただの“執事”として見てきた。

けれど今は違う。

彼のすべてが、知りたくて仕方がない、そして私だけの物にしたい。


胸の奥で、執着が恋という名の火に代わり、さらに大きなものへと変容していく。

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