沢村真紀子
沢村真紀子──若干三十代にして「美術探偵」の異名を持ち、その名は国内外の美術界で密かに知られている。長い黒髪を後ろでひとつに束ね、落ち着いた色味のジャケットに身を包んだ彼女は、華やかさよりも静かな知性を漂わせる。すれ違う人の視線に応えることなく、しかし無視するわけでもない。その佇まいには、観察されることに慣れた者特有の距離感と、どこか人の感情の裏側まで見透かすような鋭さがあった。
切れ長の瞳は常に周囲を冷静に見つめ、感情を露わにすることはほとんどない。だが、目の奥に宿る光は、何かを見逃すまいとする探究心と、芸術への深い敬意を物語っていた。真紀子は、単なる探偵ではない。彼女は“美”そのものの真実を見極めるために生きていると言っても過言ではなかった。
過去に彼女が手掛けた事件は多岐にわたる。海外で行方不明となったルネサンス絵画の奪還、国宝級の陶磁器の贋作事件の真相解明など、どれも一般には公にされていないが、美術館関係者や研究者の間では語り草となっている。真紀子の知識は実務に根ざしており、画材の組成、筆致の違い、額縁や裏板の加工法に至るまで、まるで作品と対話するようにして真贋を見抜くその眼力は、まさに「アートの守護者」と呼ぶにふさわしいものであった。
今回、彼女が招かれたのは、金沢市にある「白鳩アートギャラリー」で開催される特別展「時代を超えた肖像画展」。館長である田中茂は、芸術品に対する深い造詣と保護意識を持ち、かねてより真紀子の能力を高く評価していた。目玉作品である水原良平の《微笑む貴婦人》が、過去に真贋を巡る疑念や盗難未遂の噂に晒されていたこともあり、田中は展覧会の安全と成功を期して、真紀子を「特別顧問」として招く決断を下したのである。
だが、真紀子がこの展覧会に惹かれた理由は、単なる職務ではなかった。
《微笑む貴婦人》の存在を初めて耳にしたときから、その物語は彼女の心に深く残っていた。
それは単なる絵画ではない。絵に描かれた“彼女”には、語られぬ記憶と、ひとつの時代の痛みが封じられている──そう感じさせる何かがあった。
展覧会の前夜、金沢の静かな通りを歩く彼女の胸中には、奇妙な高揚とわずかな不安が混ざり合っていた。事件はまだ起きていない。だが、《微笑む貴婦人》が再び人々の前に姿を現すとき、何かが動き出す──そんな予感が、彼女の第六感を静かに震わせていた。
沢村真紀子。彼女は今、謎に満ちた絵画と、交錯する人々の思惑、そのすべてに向き合おうとしていた。