始まり
石川県・金沢市の静かな住宅街に佇む美術館「白鳩アートギャラリー」。和と洋が調和したその佇まいは、地元の芸術愛好家たちに親しまれ、知る人ぞ知る隠れた名所であった。だがその夜、館内はいつになく緊張と期待に包まれていた。特別展「時代を超えた肖像画展」の開催初日。目玉として披露されるのは、日本画の巨匠・水原良平が生涯でただ一枚、完成後も公開を拒み続けた幻の作品──《微笑む貴婦人》。
その存在は長らく伝説のように語られ、美術史においても謎とされてきた。今回、遺族の厚意により極めて限られた招待客のみに披露されることとなり、国内外から名のある芸術家や評論家、文化人、そして巨額の寄付を行ってきた有力者たちが館に集った。
午後10時、通常よりも厳重なセキュリティのもと、美術館の扉は施錠され、館内は一夜限りの特別な空間と化した。シャンパングラスを片手に、招待客たちは歴史的瞬間を目の当たりにし、優雅な時間が静かに流れていた──その時までは。
午後11時3分。突然、館内に甲高い警報音が響き渡った。展示室中央ホールから発せられたその音は、訪問者たちの談笑を引き裂くように鳴り響き、一瞬にして空気が凍りつく。スタッフと警備員が慌てて駆けつけた先で、誰もが目を疑った。
──《微笑む貴婦人》が、額縁ごと跡形もなく消えていたのだ。
展示スペースには、絵も額も存在せず、ただ床に落ちた緑のスカーフの切れ端と、台座にかすかに残された正体不明の白い粉だけが、事件の痕跡として残されていた。台座は無傷で、警報装置も正常に作動していたはずだった。誰が、どのようにして、あの絵を消し去ったのか──。
その場にいた一人の女性が、周囲の混乱とは対照的に静かに現場を見渡していた。沢村真紀子。美術品専門の調査員であり、かつて数々の贋作事件を暴いたことで知られる、知る人ぞ知る“美術探偵”である。
真紀子は、まずスカーフの繊維を観察し、白い粉を指先でそっとすくい取りながら、すでに考察を始めていた。そして、展示室の隅に設置された防犯カメラに、ごくわずかに映り込んだ“影”の存在にもいち早く気づく。
容疑者の誰もが嘘をついているように見え、言葉の裏に何かを隠している。だが、それは絵画の失踪と同時に、関係者たちが心の奥に封じ込めてきた“過去の秘密”が、静かに、しかし確実に浮かび上がろうとしている兆しでもあった。
《微笑む貴婦人》に秘められたものは、単なる美術的価値などではない。この事件の背後には、芸術を超えた「何か」が潜んでいる。真紀子の直感が、警告のように静かに鳴り始めていた──これは、ただの盗難事件ではない。