みんな生きている
僕は毎朝、小学校へ出勤する前、近くの田んぼのあぜ道を散歩している。散歩中、今日の授業内容を考えながら歩く。というのも、僕は極度のあがり症で、小学生相手に緊張のあまりたまにどもるのだ。そのため生徒からは「つっかえ先生」とあだ名されている。正直自分でも、教師に向いていないと、うすうす感じている。
この『どもり』を克服するため、散歩の際、田んぼの稲に向かい短い授業をしている。日の出と共に散歩へ出るため、田んぼの周りには人っ子ひとり見当たらない。
一人稲に向かいする授業する時は、全く緊張せず、舌も滑らかにまわる。だが教壇に上ると、子どもたちの無垢な瞳にさらされ、かってに緊張し言葉が出なくなる。
僕自身、子供がきらいな訳ではない。むしろ子供たちの目を見張る成長を、見るのが好きだ。だからなおのこと、自分が成長の足を引っ張っているのではないかと思い、委縮し緊張するのだ。
最近、稲相手の授業が功を奏しているのか、授業中どもる回数も減っている。
空が暁に染まり始めるころ、ひとり家を出た。周囲を竹に覆われた坂道を下る。薄暗い老竹色のトンネルを抜けると、目の前には水田が広がった。
七月に入り、稲の背丈も膝辺りまで伸びている。シュッと天に向け伸び続ける稲。きれいに一列に並ぶ稲の前までくると、小学校の教壇に立っている感覚に落ちる。
僕は教室を見回す。鼻の頭をかすめる程度の風にも、生徒たちはざわつく。なかには隣の生徒にちょっかいを出し、喧嘩になる者までいる。
「はい、みんな。そろそろ席に戻って」
若草色の制服が、あちこちで揺れる。すると生徒の一人が、突然大声を上げる。
「わぁっ、龍神様だ」
教室は一瞬でお祭り騒ぎになる。
「どこ、どこ、ねえ、どこ」
「あっ、いた。こっちに向ってる」
教室は、いっきに花が咲いたように賑やかになる。生徒たちの視線の先に、一匹の龍が見えた。龍はまだ、一町ほど先にいる。しかしその速さは尋常ではない。海蛇が水の中を滑り泳ぐように、龍は長い身体をくねらせ、猛スピード近づいてくる。
「えっ、うそ・・・」
僕の心の聲が口をつく。龍は頭をくねらせ、こちらに向かってくる。
頭には、幾重にも枝分かれした角を生やし、目は大きく見開き、にらみを利かす。閉じた口からは、鋭い牙があらわになり、長いひげが風になびく。長い身体は、陽の光に反射し、銀色の鱗がきらめく。
先ほどまで一町先にいた龍が、もう隣の田んぼまで迫っている。僕はなすすべなく、その姿を目で追う。
まじかに迫る龍は、生徒の頭の上をかすめるように飛ぶ。生徒たちは、頭に手を当て縮こまる。サラサラと言う悲鳴が、あちこちから聞こえてくる。
一瞬の出来事だった。生徒たちは、龍が通り過ぎると頭に当てていた手を解き、ゆっくり顔を上げる。すでに龍は半町先を泳いでいる。
龍が通り過ぎると、教室は一気に花が咲いたように賑やかになる。「龍すげー、始めて観た」「あんなに大きいのね」「顔こえー」「あんな奴、俺の拳であっという間にのしてやる」なかには、勇ましい声も聞こえる。
「はい、みんな静かにして。出席を取るよ」
教室は、徐々に静けさを取り戻す。
「今日も全員いるかな」
あまりに多い生徒に、名前を読み上げると日が暮れる。
「先生、全員います」
子供たちは、全員手を上げ答える。
「よろしい。体調も変わりないかな」
「はあぁい」
開けっ広げの教室に、子供たちの声がこだまする。すると一番前に座る女の子が、足元を見ながら浮かない顔をした。
「明菜ちゃん、どうかしたかな」
「先生、私病気にかかったかも。足に赤いぶつぶつができたの」
明菜ちゃんは、足元を指差した。そこには、血で染まったような一塊の卵が、腿のあたりに付いていた。
「足、痛む」
「うんん、全然痛くない。でも、この赤いぶつぶつ気持ち悪い」
明菜ちゃんは眉をひそめ、できものに手を伸ばした。
「あっ、触っちゃだめ」
咄嗟に声が漏れる。
「それはジャンボタニシの卵で、毒があるから。取ってあげるから、自分で触らないで」
僕は辺りを見渡した。少し離れた場所に、風にあおられ倒れた竹が見える。小走りで近寄り、枯れた枝を手で折る。僕は再び明菜ちゃんのもとに戻り、ひざを折りかがんだ。枯れ枝を足に沿わせ、卵をすくうように滑らす。ピンクの卵が、小さな音と共に水のなかに沈む。
「これで大丈夫、痛くなかったかな」
「全然痛くない。でも水に沈んだ卵がまた足に付かない」
明菜ちゃんは卵を指差し、眉間に皺をよせる。
「心配いらないよ。卵は水の中では動けないし、ふ化出来ないんだよ」
明菜ちゃんは、少し安心した様子で目尻を下げる。すると今度は、教室のあちこちで私も卵付いている、の大合唱がおきる。
僕は小さく息を吐くと、卵が付いている生徒に手を上げさせた。二十人ほどが手を上げている。僕は生徒の間をぬい、手の上がった生徒の足元に付いた卵を落としていく。教室に「ポチャン、ポチャン」と卵が落ちる音が響く。
全員の卵を落とし終わる頃には、シャツをまくり上げた腕から、玉のような汗が噴き出していた。ようやく教室は静けさを取り戻した。これで授業が始められる、と思った矢先、ニャンコ先生が廊下から教室に入ってきた。
「ニャンコ先生、どうされたのですか」
「今日はわしが授業をする。そなたは見ておれ」
ニャンコ先生はそう話すと、肉球と肉球の間にチョークを挟み黒板向かう。先生の字は達筆で、今にも黒板から躍り出てきそうだ。僕は、固唾を飲んでその様子を見守る。
『猫は猫らしく、稲は稲らしく。生きるための心得』
黒板にはそう書かれていた。
「えーっ、皆も承知しておろうが、ワシは猫で皆は稲だ。猫には猫の、稲には稲の天分がある。今日はそれについて授業をする」
いきなり人生論を語り出すニャンコ先生。生徒たちには少し難しいのでは。頭ではそう思いながらも、心はワクワクが止まらない。
「さて、みんなは何故生れてきたのかな」
「人間に食べられるため」
いたずらっ子の慎太郎が声を上げると、教室に失笑が漏れる。
「他に考えがある者はいないか」
教室は水を打ったように静まり返る。ニャンコ先生は一呼吸置き、話し始めた。
「人間に喰われるために、生れてきのではない。未来に子孫を繋げ、時代に合わせた稲を作るために生れてきたのじゃ。それともう一つ、そなた達には、この地球を守ると言う使命もある」
教室のあちこちで、若草色の穂先が左右に深く傾げる。先生は当然の反応とばかり、慌てる様子はない。
「一つずつ説明していこう。みんなはどのようにして生まれてきたのじゃ。昨年取れたコメを、人間どもがすべて食べつくしていれば、今の君たちはいない。昨年育った稲から、皆は命をもらい、今ここにおる」
ニャンコ先生の声が、広い教室にこだまする。
「そうやって、命のバトンを次の時代に繋いでゆくのじゃ。そのため皆は、陽と大地と水の恩恵を受け、健康で丈夫な体を作らねばならん。もちろん勉強も、怠りなく続けねばならん。来年の子供たちのためにも」
生徒たちはノートを広げメモを取る。
「丈夫な体を作るのには、もう一つ大切なことがある。それは天、神様とまっすぐつながることだ」
生徒たちの手が止まる。皆の目がニャンコ先生に集まる。
「皆が健康な時、体は天に向かいまっ直ぐ伸びておる。それは神様と繋がっている証なのじゃ。まあ、本分を全うしておるということだ。しかし、勉強をさぼったり、夜更かしが過ぎ寝不足になると、頭は下がり姿勢が悪くなり、天との繋がりが切れる。繋がりが切れると、十分に日差しを受けれず、頭が茶色く枯れてきたりするのだ」
教室のあちらこちらで、背筋をピンと伸ばす生徒。それを見た先生は、満足そうに小さ頷く。
「いつも姿勢を正し、天とまっすぐ繋がることが重要だ。そうすることで、次の世代に優秀な子供たちが生まれてくる。そうやってバトンを渡すのが、皆の使命じゃ」
生徒たちは、波を打ったように静まり、目はニャンコ先生に釘づけになっている。
「次に皆は、地球のため生れてきたと言うことについて話をしよう。人間どもは、地球のあちこちをアスファルトで塗り固め、地球の温度を上昇させてきた。毎年、熱くなっているのは皆も承知しておるだろう」
話を聞いているだけで熱くなったのか、明生は団扇代わりに、下敷きで仰ぎ始めた。
「皆の足元には何がある。そうじゃ、水だ。水は、皆の成長に欠かせないだけではなく、地球を冷やしておる。八月の昼頃の地表温度は、水田が三十四度に対し、家屋の屋根が五十二度。アスファルト舗装路では五十五度と水田と比べ二十度も差がある」
明生の下敷きが、先ほどより大きな音を立て振られる。
「皆は、火傷しそうな地球をゆっくり冷やしておるのじゃ。また、この水は土の中にしみ込み、地球が栄養たっぷりの水に変え、海に戻しておる。海に流れた着いた水は、海の生き物を育て、今度は太陽の日差しを借り、雲となりこの水田に雨を降らせまた戻ってくる」
生徒たちの目が、おもちゃ箱を覗く時のように輝いている。
「皆は水の循環にも、大きくかかわっておるのじゃ。人間どもより、よっぽど地球に貢献しておるわ」
教室に拍手と歓声が沸き起きる。歓声にはゲロゲロと言う音まで混じっている。よく見ると、生徒の肩に小さな蛙があちこちに乗っている。また生徒の足元に目を向けると、アメンボが前足二本を上げ拍手している。さすがにアメンボの拍手はここまで届かない。
改めて生徒の顔を見回すと、授業前と比べ自分に自信がついたのか、より穂先を天にまっすぐ伸ばし堂々としている。
その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。ニャンコ先生は、鳴りやまぬ歓声の中、踵を返し僕の目の前を通りすぎた。
僕は小さく目礼をし、心の中で貴重な授業を有難うございます、とつぶやいた。すると先生は僕を振り返り、ニャーゴとこくんと頭を上下に振り廊下に出た。
僕も先生の後に続き、教室を出るため歩き始めた。横目で生徒たちの様子を見ると、太陽の日差しを浴び、萌黄色した稲が、ヤジロベーのように楽しそうに揺れていた。
頬が緩んでいるのが、自分でも分る。
「今日も一日頑張ろう。今日はすべて上手くいく」
僕は根拠のない独り言をこぼし、あぜ道を前に進む。