第9話:香を吸い、笑い続けた女官──狂気の原因は“幸福の香”
静かな夜、蓮華楼の廊下に響いたのは──女の甲高い笑い声だった。
「……っひひ、あはははっ……! お妃さま……ご機嫌よう……あははっ」
声の主は、麗月院付きの若い女官・霞蘭。
普段は無口で生真面目だった彼女が、紅い顔で虚空に話しかけながら笑い続けていた。
「笑っている……けど、それは喜びではない」
煌璃は、倒れた霞蘭を介抱しながら、吐息に含まれるわずかな香気を嗅ぎ取った。
「これは──“沈香”や“桂皮”ではない。もっと……甘くて、脳を刺激する香り」
霞蘭の症状は、ただの過労や精神異常ではなかった。
彼女の手首には淡い痣が浮かび、脈拍は異常な高まりを見せていた。
「瞳孔が収縮してる……典型的な“感覚過多状態”」
「何か薬を……?」
「いいえ、“香”です。これは、“幸福感を増幅させる香”──別名“喜雨の香”による過剰摂取の症状です」
“喜雨の香”は、もとは重度の鬱病患者や孤児の心を安定させるため、密かに研究された香。
だが、その効果は強力すぎた。
摂りすぎれば快楽物質の過剰放出によって、理性を破壊する。
つまり、“香で脳を壊す”ことが可能なのだ。
「霞蘭が倒れた部屋は、蘭英妃様の書庫。そこで彼女は“毎晩香を焚いていた”と言っています」
「でも、蘭英妃様は宮を離れているはず……」
「はい。“留守中の香の管理”を霞蘭が任されていた。──その香炉が、こちらです」
煌璃は、香炉に残された灰を採取し、成分を分析した。
「……やはり。“喜雨の香”に、“精油と蜂蜜”を加えた特別調合。しかも、それを“何重にも焚いていた”」
「つまり、幸福感の増幅を何度も強化したってことか……」
「はい。それに加え──この香には、ある細工が仕掛けられていました」
煌璃は香炉の内底に、わずかに焦げ残った金色の小片を取り出した。
「これ。“熱で反応して香の性質を変える金属触媒”。
香を焚くほどに、成分が変質していき、“安心”から“興奮”へ、最終的に“狂気”に変わる」
「……狂気を笑顔で包み込む毒、か」
煌璃は霞蘭の療養の傍ら、蘭英妃の調香日誌を調べる。
そこには、こんな一文があった。
“苦しむ者を救いたい。
笑ってくれるだけで、私は嬉しいのだ。
……たとえ、それが偽りの笑顔でも”
「妃様は、元から香に“救い”を求めていた。
でも誰かが、その“救いの香”を、“壊すための毒”に変えた」
「香に毒を混ぜるなんて……それじゃ、“香”そのものが信じられなくなる」
「ええ。でも、だからこそ私が証明します。
“香でも毒でも、使い方ひとつで癒しになる”ということを」
その夜、煌璃は帝から密書を受け取る。
“麗月院で霞蘭が倒れたと聞いた。
そろそろ話そう。──お前の母、“毒姫”について”
帝が語るのは、十数年前、ある毒によって処刑された女の話。
その女の名は、「璃霞」──煌璃の母。
そして彼女が遺した処方の中には、“喜雨の香”の原型が記されていた。
「毒は、母の記憶を辿る鍵……。
それでも私は、“この手で毒を見抜く”ことを選びます」
煌璃の視線は、すでに母の過去と、自分の未来を貫いていた。