第8話:鏡の中のもう一人の妃──睡眠と覚醒を逆転させる毒
「……また“鏡”が笑ったのです」
そう言って怯えるのは、第一皇妃・蘭妃。
もとより冷静で知的と評判だったその妃が、近頃は夜に一睡もせず、昼間に幻覚を見るようになったという。
「部屋に入ると、鏡の中の私が──微笑んで手を振ってくるのです。私と同じ顔で、私ではない“誰か”が……」
蘭妃はうわごとのように繰り返し、目の下には濃い隈。
煌璃が呼ばれたのは、そんな皇妃の異変を危惧した侍医からの密かな依頼だった。
煌璃は妃の寝所に入り、香の痕跡、寝具、鏡の配置などを一つひとつ調べていく。
「……これは、“不眠による幻覚”だけじゃありません。
身体は眠気を感じているのに、脳が“覚醒し続ける状態”が人工的に引き起こされている」
煌璃は妃の髪から採取した毛根を調べると、そこに異常な代謝反応の痕跡を発見した。
「これは──“神経刺激系の薬剤”が微量、長期にわたって投与されています。
しかも、体内で分解されにくく、昼夜のリズムを逆転させるもの」
さらに、妃の化粧棚に置かれていた香油瓶の底から、微かに甘い刺激臭のある液体が見つかる。
煌璃は即座に断定する。
「“蓮睡香”です。かつて戦場で兵士の“睡眠・覚醒リズム”を操作するために開発された薬物。
香に混ぜると、一見安眠用の芳香に思えるが、長期使用で“精神疲労と幻覚”を引き起こす」
この薬の成分は、本来なら禁薬扱い──だが、それがなぜ後宮に?
煌璃は妃の侍女に尋ねた。
「妃様の香油は、月に一度“蓮華調香館”で新しく調合されます……。でも最近、届けに来るのは以前と違う者でした」
煌璃は香油の容器底に刻まれた印を確認し、顔を強張らせる。
「また、この印……“麗月院”のもの。蘭英妃の私室にしか存在しない“調香刻印”。
つまり、香油が途中で“すり替えられた”。妃の調香が、麗月院の関与を受けた……」
第一皇妃の症状は、単なる精神の揺らぎではなかった。
計画的に記憶の曖昧化と自我の崩壊を狙う“薬物操作”だったのだ。
煌璃は、妃に優しく語りかける。
「鏡の中で笑ったのは、妃様ではなく、“記憶を操られた別の人格”です。
けれど安心してください。薬の効果は、今日で断ちます。
私が処方する薬で、妃様の体内から“蓮睡香”を完全に追い出します」
妃の手が震えながらも、煌璃の指先を握った。
「……あなたは、毒を見抜く目を持っているのね」
「毒は恐れるものではありません。正しく知れば、毒もまた“癒し”になります」
そのとき、煌璃の背後で足音が鳴った。
「相変わらず、見事な処方だな。煌璃」
現れたのは──帝・黎珀。
「妃の様子を聞いて、私も来た。……眠れぬ夜を過ごす妃の姿が、昔の“ある人”に似ていてな」
煌璃が振り向くと、帝の瞳には微かな哀しみが宿っていた。
それは、亡き妃を想う男の、それでも消えない罪と愛の記憶だった。
そして帝は、静かに言った。
「次は、蓮華楼に“かつて処刑された毒姫”の記録を調べる。
──私の記憶が正しければ、その毒姫は……“煌璃”という名に、よく似た娘を残していたはずだ」
煌璃の瞳が揺れる。
母の名。毒姫と呼ばれていた女。
そして、帝が語る“かつての罪”とは──