第7話:帝の衣が蒸発した日──絹に染み込んだ無色の薬
異変が起きたのは、帝が朝の政務を終えて戻った直後だった。
衣擦れの音もなく、ひとりの宦官が悲鳴を上げる。
「陛下の衣が……衣が、煙のように消えてゆきます!」
見ると、帝が羽織っていた上衣の裾が、まるで焼けるように縮み、風に溶けるように蒸発していた。
「熱はない。香の匂いもなし。……これは、自然燃焼じゃない」
その場に駆けつけた煌璃は、衣の繊維をそっとつまみ上げた。
「絹の繊維が、細胞単位で“分解”されてる……。原因は、液体……無色、無臭。しかも──空気と反応して変化した?」
「帝が着ていたのは、御衣司で特注された“御前絹”。
外から運ばれたものではない」
衣の管理台帳には、担当女官の名も記録されている。
「問題は、その絹が納入された日。……これは、昨日“特別に追加された予備の礼装”ですね」
煌璃は唇を引き結んだ。
「つまり、誰かが“絹そのもの”に、無色無臭の薬液を染み込ませた。
それは空気に触れることで反応し、絹繊維を分解・気化させる。人体ではなく、“衣”だけを狙った毒──」
「まさか……“皮膚に触れた絹”が反応すれば、帝の肌も焼けただれていた可能性があるのか?」
侍医のひとりが青ざめる。
「いいえ、“狙い”はそうではありません」
煌璃は断言する。
「これは、“衣が溶ける様子”を他者に見せつけるための毒です。
──“帝の存在が脅かされた”ことを、政務官たちに見せる“心理戦”です」
煌璃は、衣に染み込んだ液を水に溶かし、試薬を滴下した。
すると液はほんのり緑に変わる。
「やはり。“翠華露”という化合物。絹と反応すると“揮発性繊維分解酸”に変化します。
これは古い王朝時代に使われた、“絹の偽造防止”技術にも似ています」
「それが……なぜ今、陛下に?」
「仕掛けたのは、医薬や香に通じていない者では不可能。つまり、“知識ある者による計画的犯行”です」
その後、御衣司の調査で、礼装の染色に使われた“洗い水”が通常と異なっていたことが判明する。
「礼装の絹を洗った後、いつもと違う保湿液が使われた。……“玉露香水”と記されていますが、これは元々“香ではなく、医薬保湿剤”。
そして、その供給元は──医師局」
「医師局が、御衣司に“衣用薬”を? そんな例は通常ないはず……」
煌璃は、医師局の薬剤管理台帳を調査し、そこに“外出許可”とともに記された、ひとりの薬師の名を見つける。
「……“林秋容”――私の母に仕えていた、かつての副薬師。彼が、まだ後宮に残っていたなんて」
その瞬間、煌璃の瞳に微かな動揺が走る。
「秋容様は、昔母の命令で“毒薬開発”に関与していたと聞いていた。でも、彼は処刑を免れた……その理由が、今になって浮上するとは」
これは偶然ではない。
“帝の衣”を狙った毒薬の設計図は、かつて“毒姫”と呼ばれた母が残した研究資料と酷似していた。
誰かがそれを入手し、“現代の毒”として復活させたのだ。
「毒は、香にも、薬にも、衣にも紛れこむ。
そして今、その毒は“記憶”にも入り込み始めている」
煌璃は、溶けた衣の破片を手にしながら、そっと呟く。
「帝を殺すためではなく、“恐怖と威圧”で、何かを黙らせようとしている。
──そうだとすれば、次に狙われるのは、“記憶”そのものかもしれない」