第6話:香も音も届かぬ部屋──空気より軽い密室の毒
事件が起きたのは、後宮の北側にある静観楼だった。
療養中の妃──碧心妃が、自室で扉も窓も閉ざしたまま死んでいたのだ。
「発見時、部屋は完全に密閉状態。内側から鍵がかかっており、誰も出入りできなかったと」
「そして香炉は消えており、食器にも異常はなし……」
煌璃は室内に足を踏み入れると、まず空気の匂いを確かめた。
「……何も香らない。けれど、空気がどこか薄い。妙に、息苦しいですね」
扇を取り出して軽くあおいでみる。部屋の中央に置かれた寝台に横たわる碧心妃は、安らかな表情のまま冷たくなっていた。
「死因は、窒息です。けれど──気道や肺に“閉塞の痕”はありません。
むしろ、呼吸しようとして“酸素がなかった”状態に近い。つまり──“空気の置き換え”が起きた可能性があります」
煌璃は部屋の床近くに小さな香壺を発見した。
そこには、白い粉末がこびりついたような痕跡があった。
「……この香壺、“香”ではありません。“固形化された化学薬剤”です。おそらく、熱で気化すると空気より重く、酸素を押しのける性質のある気体が発生した」
彼女は視線を上げた。
「つまり、この部屋の中は、一時的に**“酸素のない空間”**となった。妃はその中で、気づかぬうちに窒息したのです」
「だが、そんな特殊な毒気体……後宮に持ち込めるのか?」
煌璃は微笑んだ。
「気体そのものでは無理でも、“薬剤を組み合わせて現場で生成する”なら可能です。
この香壺の中に残っていたのは、石灰と松脂、そして──梅花露」
「梅花露……梅の香りの化粧水だな。妃たちの日常用品か」
「はい。でも、梅花露の主成分は“揮発性のアルコール類”。
それと石灰を反応させれば──一定条件で“酸素を消費し、有毒なガス”を発生させることができます」
さらに煌璃は、碧心妃の侍女から証言を得る。
「妃様は、事件の前夜“他の妃の秘密”を知ったと仰っていました……。誰かに話すべきか、迷っていると」
「そして今朝、“香炉の火をつけておいて”と命じたのは──?」
「わ、私です。でも、いつもと同じ香壺を……」
煌璃は香壺の底に、ごく小さな細工を見つけた。
「底に“薄い穴”があけられていた。おそらく、“本来の香壺の中身”を抜き、“毒薬を詰め替えた”者がいた。
香に偽装して毒を仕込み、“香炉に火を入れさせる”ことで、本人に自ら毒を発動させさせたのです」
そして、妃の部屋の前に置かれていた小箱の中から、香壺の替え壺が見つかった。
そこには、見覚えのある調香印──第二妃・蘭英様の麗月院で使われていた物と一致するものが刻まれていた。
「……やはり。また、蘭英妃様の名前が出てくる……」
「だが彼女は宮を離れている。“誰かが名前を使っている”と?」
「もしくは、彼女の“過去の命令”が、今も残り火のように動いているのかもしれません」
部屋に充満したのは“香”ではなく“沈黙”だった。
香も音も届かない密室で、目に見えない毒が妃を奪った。
「密室の謎とは、実は“鍵”でも“扉”でもない。
“空気そのもの”を変えるだけで、人は死ねるんです」
煌璃は静かにそう告げた。
だがこの事件は、ただの“殺人”では終わらない。
碧心妃が残そうとしていた“秘密”とは何だったのか。
そして、“麗月院の名”がまた浮かんだことで、後宮に不穏な風が吹き始める。
毒は今も、香に紛れて──目に見えないまま広がっている。