第4話:帝の枕元に忍び寄る影──眠り薬は誰のためにあったのか
帝が倒れた――その報が蓮華楼に届いたのは、黄昏時だった。
「脈は緩慢、皮膚は冷たく、瞳孔の反応は遅い。……これは、眠り薬による抑制反応ですね」
煌璃は、皇帝の寝所に呼び出され、薄布のかかった寝台に横たわる帝の脈をとっていた。
「……だが、服毒の痕跡はない。食事も水も問題なし。香も通常通り。どうやって眠らされた?」
帝付きの侍医が首を傾げる中、煌璃は寝所を歩き回り、香炉、衣類、水差し、そして床の間をじっと観察する。
「この香……普通の鎮静香。でも、炭の焼け方が不自然です。香の中心部分が黒く残っている。つまり──中身が“芯だけ変えられている”可能性がある」
煌璃は炭を分解し、内部に詰められていた繊維状の灰を慎重に採取した。
「これは──“潜香紙”です。香と香の間に挟んで燃やす、特殊な薬剤紙。燃えると揮発性成分だけが残る」
そこに記された調香書の断片には、
《氷夜草・玉砂香・夢酔花》の文字があった。
「……氷夜草と夢酔花、組み合わせれば、“意識を沈め、記憶を薄くする”作用がある。まるで催眠のような香です。
ですが、それは“深い眠り”ではない。“誘導される夢”のような状態──つまり、記憶改変の補助香」
煌璃は帝の舌を調べた。すると微かに薄紅色の着色が確認された。
「これは……“夢酔花”の痕跡。眠っている間に“特定の言葉”を刷り込まれた可能性があります。
その内容が“ある人物の記憶の改ざん”であれば……」
「まさか、帝に“誰かの罪を忘れさせよう”としていた?」
帝付きの宦官が顔を強張らせる。
「……妃たちの中に、“追及されれば困る者”がいるのかもしれません。
あるいは、“自分以外を寵愛するな”という“支配欲”か」
煌璃は香包に残された印を確認し、ある名に行きつく。
「この潜香紙の印……“麗月院”のものですね。第二妃・蘭英様の私室にしかないはずの封印」
「しかし、蘭英様は今、後宮の外で療養中のはず……」
「はい。けれど──香料は後宮に残されていた。ならば、“誰かが蘭英様の私物を使って、毒の痕跡を誤認させた”という線もあります」
煌璃は帝の枕元に、静かに薬壺を置いた。
「“香”によって仕込まれた、見えない罠。
でも、陛下の舌の状態を見る限り、まだ“記憶の深層”までは届いていません。時間を置けば自然回復します」
ただし、と煌璃は続ける。
「もしこのまま放置されていれば、帝は“自分が何を命じたか”を忘れてしまう。
つまり、“命令権”そのものを操ることが可能になる」
後宮に、静かで冷たい戦慄が走った。
政の要である帝が、香一つで“操られかけていた”という事実──
それは“後宮の権力構図”に大きな穴を空ける。
「誰が、何のために帝の記憶を封じようとしたのか。
その答えを見つけるために、私は“夢酔花”の仕入れ元と、“潜香紙”を持ち出せる女官を洗い出します」
煌璃は、帝の脈がゆっくりと回復しはじめたのを確認すると、静かに立ち上がった。
──帝を狙った“香の罠”は、氷山の一角にすぎなかった。
彼女は知らない。
この事件の裏に、“蓮華楼”にまつわるもう一つの過去が動き出していることを──