第一話 畦道
目も眩むような夏だった。
風が吹かない日が続いている。
空は茹だるように白く、陽炎が地表を歪めていた。アスファルトには薄く積もった砂埃が漂い、足を運ぶたびにざらりと音がする。
蝉が一日中鳴いていた。まるで時間の針が壊れてしまったかのように、始まりも終わりもなく、あの甲高い鳴き声が続いていた。
湯浅蓮は、大学からの帰り道をひとりで歩いていた。
通学に使っている自転車は、途中でパンクしてしまった。ひとまずはコンビニの裏手に停めて、明日持ち帰ることにしたのだ。
手ぶらのまま、裏山のふもとの畦道を抜けるのは、もう癖のようなものだった。
–––今日は、少しだけ遠回りしよう。
べつに理由があったわけじゃない。気まぐれのようなものだった。
夏の気配が肌を焦がしはじめると、蓮の思考は少しずつ、あの『穴』に吸い込まれていく。
「……もう、五年になるのか」
ぽつりと、声に出した。
五年前。
中二の夏。
蓮と、拓海と、コウ。三人で行くはずだった夏祭りに、コウは来なかった。
コウは誰よりも約束にうるさくて、誰よりも夏が好きだった。
家には携帯も財布も残されたままだったらしい。部屋は荒らされた様子もなく、ただぽっかりと、そこには『不在』という事実だけがあった。
警察も、町の人も、みんなでコウを探した。拓海と蓮も、あの裏山を何度も探した。
けれど結局、何ひとつ手がかりは見つからなかった。
–––それからの五年間、蓮は少しずつ、世界から切り離されていったような気がした。
趣味だった音楽も、絵も、やめた。
誰とも深く関わらなくなった。
『思い出すとつらいから』ではない。
その逆だった。
思い出すことでしか、自分をつなぎとめておけないきがしたから。
何度も何度も頭の中で繰り返す。それは呪いのようなもので、蓮をあの夏にいつまでも繋ぎ止めているのだ。
夏に抗うように、足を動かす。
風はない。
小川の流れも、止まっているように見えた。
稲はまだ青く、ところどころにとんぼの影が過ぎる。
蓮はポケットに手を入れた。
銀色の携帯は、熱のせいか妙に鈍く、番号を指で強く押してもなかなか反応しない。画面に表示された時刻を見ると、すでに午後四時を回ったところだった。
もうすぐ、陽が傾きはじめる。
帰ろう。
帰って、ばあちゃんの焼きおにぎりを食べよう。そう思って顔を上げたときだった。
ふと、人影が見えた。
視界の真ん中、真っ直ぐ続く畦道の先に。
……風はないはずだった。
蝉の声も一瞬、遠のいたように感じた。
蓮はその場に立ち止まる。
「……あれ?」
不意に、声が漏れた。
向こうから、誰かが歩いてきていた。
逆光で顔までは見えない。でも、その歩き方、その佇まい。どこか、見覚えがあった。
いや、どこか、じゃない。
錯覚じゃないかと疑った。幻覚だとさえ思った。だって、そんなはず、あるわけがない。
けれど、その人影が少しずつ距離を詰めてくるにつれて、確信が形を取りはじめる。
風に揺れる黒髪。
焦げ茶色の中学の制服。
少し猫背で歩く癖。
まっすぐ、こちらを見ていた目。
「……コウ?」
息が止まった。
呼びかけたその瞬間、少年が足を止めた。
近づいてきた彼は、懐かしくもあまりに変わらない姿をしていた。
五年前、いなくなった頃のままの姿。
時間が、彼だけを置き去りにしたような。
あるいは彼が、時間から外れたような。
「……蓮?」
少年–––コウは、怪訝そうに言った。
声は確かに、コウのものだった。
でも、真っ直ぐに向けられたその目だけが、どこか遠くを見ていた。
……その言葉は、蓮を過去に引き戻すには十分だった。
蓮の喉奥に、懐かしい熱がじわじわとこみ上げてくる。
心臓の音が強くなるのを感じた。胸の奥が痛いようにざわめいていた。
それでも、どこか現実味がなかった。コウがここにいることが、夢のようで……
「……ほんとに、コウなのか?」
蓮はゆっくりと歩み寄った。足取りはぎこちない。幻を壊さないように、そっと踏み出す。
間近で見たコウは、やっぱり中学二年生の頃のままだった。
あの夏、最後に見たときと、何ひとつ変わっていない。
なのに、蓮の中で芽生えたのは“怖さ”ではなかった。
ただ、ただ、嬉しかった。
「……お前、ずっとどこに……てか……無事だったのかよ、ほんとに……!」
言葉は乱れていた。蓮は自分でもなにを口走っているのか分からなかった。
それでも、笑っていた。どうしようもなく、顔がほころんでいた。
コウは、少し戸惑ったように言った。
「え…? いや、僕は…」
問い詰めたいことは山ほどあるはずなのに、今は何も聞けなかった。
「……夢だと思った。こうしてまた、お前に会えるなんて」
「……俺は、蓮の顔が変わっててびっくりした」
「お前は変わらなすぎだ」
『変わっていない』ことは、本来ならおかしなことだった。
でも今の蓮は、その違和感すら、どこか遠ざけていた。
コウと会えたことが嬉しくて、今はまだ、そんなことはどうでも良かった。
「なあ、コウ」
蓮は唐突に言った。
「今夜、うち来いよ。……久しぶりに、三人で集まろうぜ」
コウの表情が一瞬だけ固まった。
「三人?」
「拓海だよ。覚えてるだろ。お前がいなくなってから、あいつとも……なんか微妙に距離できたけど、連絡は取ってんだ。大学は別なんだけどな」
言いながら、スマホを取り出す。
連絡先は今も残っている。連絡はたまにしていた。でも、会うのは久しぶりだった。
画面を開いたまま、蓮はちらとコウを見た。
「いいだろ? お前、いなくなってから五年……三人揃って顔合わせるの、マジで久しぶりだしさ」
コウは少し考えるように目を伏せてから、短く頷いた。
「うん。行く」
その返事を聞いて、蓮は小さく息を吐いた。
どこか、張りつめていたものが、少しだけほどけた気がした。
「じゃあ、夜になったらうちに来いよ。たぶん拓海も来れると思うし」
蓮がそう言うと、コウは少し首をかしげたようにして「分かった」と答えた。
まるで、その「三人で集まる」という言葉の重さにまだ馴染めていないようだった。蓮はその様子に引っかかったが、深く考えないことにした。
別れ際、コウはふと空を見上げた。蓮も釣られるように視線を上げる。太陽は傾きはじめていて、空は微妙な色をしていた。どこか、夏の終わりのような空だった。
まだ六月なのに。
蓮が再びコウに目を向けると、彼は軽く手を振って、裏山の方へと歩き出していた。あの頃と同じ、猫背気味の歩き方だった。
蓮は歩きながら携帯を取り出し、拓海の連絡先を開いた。最後にメッセージを送ったのは春だった。講義が始まってすぐ、「また今度会おうな」と言い合ったまま、結局それっきりになっていた。
【今夜、うち来れないか? 久しぶりに三人で集まらない?】
「……三人で、ってなんだよ」自分で書いておいて、そう呟いた。拓海がこのメッセージをどう受け取るかが不安だった。
でも、送らなければ何も始まらない。
ためらいながらも、送信ボタンを押した。
電波のアイコンがぴくりと光って、メッセージが送られる。すぐには既読がつかない。少しほっとした。今すぐ返事が来たら、それはそれで怖かったから。
家に着く頃には、風が少し涼しくなっていた。古い瓦屋根の二階建て。縁側のある、典型的な田舎の家。ここにはずっと、家族と暮らしている。
母親はパートで帰りが遅い。蓮は自室に上がり、扇風機のスイッチを入れて、その前に寝転がった。天井の木目をぼんやりと見ながら、思い出す。
五年前のことを。
あの夏祭りの日のこと。三人で行くはずだったのに、コウは来なかった。
何度も連絡した。電話も、メッセージも、既読がつかなくなった。次の日、母親から警察に届け出があったと聞いた。コウが失踪した。理由は分からない。目撃情報もない。ただ、いなくなった。
「……あれは、現実だったんだよな」ぽつりと口にすると、携帯が震えた。拓海からの返信だった。
【行けるよ。てか、三人って……誰だよ】
蓮は、返事を送る前に一度だけ、深呼吸をした。
【……コウだよ。今日、会った。】
既読はすぐについた。でも、返事はしばらく来なかった。画面の向こうで拓海がどんな顔をしているのか、想像がつかなかった。そして、震えるように短い返信が来た。
【は?】
そのあとすぐに、もう一通。
【どこで会ったんだよ】
蓮は位置情報を簡単に送った。裏山の畦道沿いの田んぼの端。送信した直後、電話が鳴った。拓海からだった。ボタンを押すと、向こうの声は少し息が荒れていた。「……マジなんだな? お前、ほんとにコウに会ったのか?」
「あ、ああ!信じられないかもしれないけど、目の前にいた。中二のときのままで……」
「中二のとき……って、ちょっと待てよ、それどういう……」
蓮は電話を切りたくなった。でも、なんとか落ちついた声で答えた。
「とにかく、今夜うちに来てくれ。会えば分かる。……俺の気が狂ってるんじゃなければな」
「……分かった。行く。七時でいいか?」
「ああ、ありがとう」
電話が終わったあと、蓮は布団に顔を埋めた。頭がぼんやりしていた。
夢を見ているような、不思議な感覚。
いや、ずっと見ていた夢の続きなのかもしれない。
あの夏、失ったものが、今ようやく戻ってくる。そう思いたかった。もう二度と戻らないと思っていた時間に、手が届きそうだったから。
その夜、蓮の家には懐かしい夕暮れの匂いが漂っていた。外からは、虫の声が聞こえてくる。台所で準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。蓮が出ると、そこには拓海が立っていた。中学のころよりも身長が伸び、髪も少し伸ばしている。でも、変わっていない眼差しだった。
「お前……マジで呼び出したな」と拓海は言った。「信じられねえよ。……で、コウは?」
蓮が黙って頷くと、玄関の奥から、ゆっくりと足音が響いた。廊下を通って現れたのは、あの夏とまったく同じ姿の、コウだった。中学生の制服姿でもなければ、血まみれでも、幽霊じみた雰囲気でもなかった。ただの、いつものコウ。–––ただ、五年前の姿で。
それがどうしようもなく、“異常なこと” であることは、蓮も分かっていた。