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偽眼の魔女眼と聖剣の議

 リリアと別れると、来た道をそのまま通って戻る。久々に妹の――それも元気な姿を見られたことで、彼の全身には気力が満ちていた。今なら『魔王を暗殺してこい』と言われても出来そうな気がする。そんな馬鹿げたことを考えながら、居住区から大通りに抜けようとした――ところで、人混みの密度に一瞬足を止めた。

 確かに首都の大通りは常に露店と買い物客で混みあっているが、今日のそれはいつもより明らかに多い。行きよりも更に人の密度は高くなっている。

 アッシュはその理由を少し考える。すると、今日の日付に思い当たった。

「三の月の十六日……来週は『降臨祭』だな」

 ユースタリアの国教『オルネア教』。降臨祭とは、その主神たる『至高神オルネア』がこの世に降臨した事を祝い、彼の恵みへの感謝と祈りを捧げる、国家規模の祝祭だ。その日は他の街からも信徒がやって来て、老若男女問わず、オルネアへの感謝と共に笑い合う。故に、それを一週間前に控えた今日は、都市全体が浮ついていて当然なのだ。

「仕方ねえ……」

 これだけの人数の中をすり抜ける気は無い。元々外れの農村で生まれ育った彼は、人混みというものに耐性が無いのだ。それにどの道特性スキルを使えば、誰にもバレずに城へ戻れる。

 そうして何処となく埃臭く、日陰が大半を占める路地裏を行った。このルートなら、むしろ服装でも目立たない分見つかりにくくなる。

「ちょいとそこの兄ちゃん」

 不意に、不気味な声に呼び止められた。チラリとそちらを見ると、あばただらけの顔をクシャリと歪めた老人がいた。『認識誘導』を発動したまま老人を見る。皺だらけの両手には、白い粉が乗っていた。

「嫌なこと、つらい事全部忘れられるよ。安くしとくからさ」

 老人は上から下にアッシュを見た。顔を隠していないにも関わらず、目の前の男が何者かを察する様子もない。

「悪いね爺さん。『見ての通り』素寒貧でさ。また今度来るよ」

 アッシュはマントをバサリと広げ、何も持っていないことをアピールした。

「そうかい、ならまた来とくれ。この時間は、大体この辺りにいるからね」

「ああ、今度な」

 去っていく老人の背中を見届けて、アッシュもまた王城に向けて走り出す。『認識誘導』で上手く二つの認識を植えつけ、穏便に逃げる事が出来た。

 『認識誘導』で誘導できる認識は、同時に一つだけ。二つ以上の認識を植えつけようとする場合、一方の認識が相手に根付いたことを確認してから切り替える必要がある。今回の場合、最初に『浮浪者だ』と認識させたうえで、『金がない、客にならない』という方向に認識させたのだ。

 見事に誘導に成功したアッシュは、光の差す方に歩いていく。この先は表通りだが、やや横道になっていて、大通りよりは人の数がだいぶ少ない。大通りを突っ切るルートの次ぐらいには、王城への距離も近い。表通りに出ようとした時――後ろから拍手と共に、女の声が響いた。

「堂々と顔を出しているのに本当に気付かれないんですね。素晴らしい特性スキルです、『勇者アシュナード様』」

 全身が総毛立った。幾つもの思考が彼の脳内に、泡のように現れては消える。

 バレた。何故? 特性スキルが発動していなかった? そんなはずはない。だとすれば一体――

特性スキルの事なら心配ありませんよ。ちゃんと発動しています。それに私は、貴方に危害を加えるつもりはありません」

 いつの間にか後ろにいたその女は、フード付きのローブを纏っていた。フードを目深に被っていて、見えるのは鼻から下だけ。僅かに銀色の髪を覗かせる女は、口元にはっきりと微笑を浮かべている。

 魔族なら聖痕が反応するが、この女には反応しない。故に魔族ではないと判断したアッシュだが、それでも警戒は解かない。

「誰だ、アンタは。それにどうして俺が分かる」

 女はおもむろにフードを上げ、その下の素顔をさらけ出した。紫水晶のような瞳と銀色の髪が目を引く麗人。多少綺麗に着飾れば、貴族の社交界でも一際目立つ筈だ。なるほど、顔を隠さなければ、何処でも目立って仕方がないだろう。

 彼女は見た目通りに美しく、この路地裏に不釣り合いな程清廉された動作で、アッシュに頭を下げた。

「お初にお目にかかります、アシュナード・アシュヴィン様。私はシエル・アストライア。人々が言うところの『魔女』でございます」

「魔女だと……?」

 魔女。その言葉を聞いて、アッシュは思わず眉を顰めた。それは『国家の安全を脅かす』と判断され、懸賞金が掛けられた者に対する呼び名。つまるところ、自らそれと名乗った彼女――シエルは、『私は犯罪者です』と自己紹介したのも同然。

「何故自分が魔女だと、わざわざ俺に言うんだ?」

「隠し立てするものは無い、という意志表示だと思ってください。それに、面会謝絶の妹君に会いに出ている以上、私を見た事を話すのも難しいでしょう?」

「目的まで知ってるのか……。どういう絡繰りだ?」

「大した種はありません。貴方の認識誘導と同じ――特性スキルです」

 シエルは微笑みを湛えたまま、自分の目を指さした。外見上はただ綺麗なだけだが、そこに宿っているのは、あらゆる偽装・欺瞞が通用しない破格の特性スキル

「『真眼』と言いまして。この眼で見た物や人の真実の情報を、知りたいだけ手に入れる事が出来るんです。例えば貴方様が、今も『自分は勇者とは別人だ』という『認識誘導』を掛けている事なども」

 『認識誘導』が発動していることはおろか、どういう認識に誘導しようとしているか。それさえ知っているシエルの得体の知れなさに、アッシュは冷や汗を流す。背中に貼りつくシャツの感触が、やけに気持ち悪く感じた。

 この時点でアッシュは、彼女の『真眼』という特性スキルの存在を疑えなくなった。

 実際のところ、認識誘導は万能の特性スキルではない。例えば出来の悪い偽物の美術品を本物と言い張った場合、問題なく騙せる。しかし、その道で数限りない経験を積んだ鑑定士の場合、誘導しきれずに見破られてしまう。

 つまり、認識誘導が相手に効くかどうかは、誘導する対象への『認識の正しさ』が重要になる。今の状況に当てはめると、リリアやウィリアムのようなアッシュ個人をよく知る人間が相手では、認識誘導を掛けてもアッシュ本人だと気づかれてしまうだろう。

 しかし、シエルはアッシュにとって全くの初対面。顔と名前は知られていても、それだけで認識誘導を破るのは、彼の経験からして不可能と断じてよかった。とはいえ、これだけならまだ『熱狂的なファン』の可能性が僅かながらあった。だが、現在どのような『誘導』を掛けているかまで当てられては、最早言い訳出来ない。自らの特性スキルに自信を持つからこそ、シエルの特性スキルの存在を信じるしかなかった。

「……それで、そんな特性スキルを持った魔女が、わざわざ俺に何の用だ? 今はプライベートだから、あんまりサービスは出来ないぞ」

 アッシュは動揺を隠すように、軽い口調を続ける。無駄な抵抗と知りつつも、身体に沁みついた欺瞞の動作を取ってしまう。これも目の前の魔女には筒抜けなのかと思うと、自分を丸裸にされているような気分になった。

 シエルはローブの中に手を入れると、そこから取り出したものをアッシュに差し出した。

「何だよこれ」

 渡されたのは、透明な手形だった。シエルの手より大きい、恐らくは男性のものだろう。

「ただの透明な手袋です」

 どうしてそんなものを、と言おうとして顔を上げると、シエルは先程とは打って変わって真剣な目をしていた。アッシュに手袋を無理やり握らせると、祈るような声で言う。

「近々、貴方様に聖剣が授与されます。その儀式の際、聖剣の柄を握る前に……右手にそれを付けてください。『認識誘導』を使えば、見つかる心配は無いでしょう。どうか……あの聖剣に、決して素手で触れる事だけは無きよう……」

「待った。聖剣の授与だって?」

 思わぬ言葉の登場に、思わず話を遮った。

 聖剣とは、歴代の勇者が手にし、共に戦い続けて来た両手剣だ。詳細は不明だが、この剣には人を『真の勇者』とする力が込められていて、聖痕を持つ者に比類なき力と高潔な精神を授けるという。

 勇者は就任後暫くの間、普通の剣で魔族と戦い、時が経ち適任と判断されれば、聖剣が授与される。聖剣の授与は国及びオルネア教を挙げての儀式となり、聖剣を受け取る瞬間は一般にも公開される。国民の期待値の高い勇者であれば、当日の大聖堂は人で埋め尽くされることになる。

 しかし、それが『近々』行われる、という点がアッシュには引っかかった。国民からも王侯貴族からも、アッシュの評価は最低に近い。とても聖剣を与えていいとは思われていないだろう。そもそも、聖剣の授与は勇者本人に事前告知される。アッシュは噂程度にも、自分に聖剣が与えられるとは聞いた事も無かった。

「現在、皇帝陛下がバルクホルツ卿の進言で、アシュナード様の戦績を確認しています。上級魔族の討伐実績だけを見ても、貴方様に聖剣を与える決定を下すには充分でしょう。恐らくは明日、遅くとも二日後には、聖剣を授与すると正式に通達される筈です」

 シエルが王城に視線を向ける。彼女の眼に何が映るのか、アッシュには分からない。が、心なしか、『怒っている』ように見えた。

「それからもう一つ。聖剣を受け取った後、皇帝陛下から『気分はどうか』と尋ねられます。その時は必ず、こう答えてください。『生まれ変わった気分です』と」

「それはどういう――」

「っ! ごめんなさい、今日はここまでみたいです」

 アッシュの問いに答えることなく、シエルは急いで踵を返して去って行った。袖から鉤付きのロープを出し、建屋の屋上に登ると、彼女が何処に行ったのか、もう分からなくなった。

 何故彼女が焦っていたのか。その理由はすぐに分かった。

「おい、そこの貴様」

 大鷲の紋章が刻まれた鎧の騎士が、アッシュに声を掛けてきたからだ。この紋章は首都の警護、治安維持を主任務とする『第六騎士団』のものだった。

「ローブを身に着けた銀髪の女を見なかったか? ここに逃げたと通報があってな」

 騎士は手に持った手配書をアッシュに見せる。そこに記載されていた『偽眼の魔女』の特徴は、全てシエルのそれと一致していた。仰々しい文字が並ぶ罪状の欄を見ながら、アッシュは半ば反射的に、首を横に振っていた。

「本当だろうな? もし見かければすぐ知らせるように」

 騎士の男はそれだけ言うと、手配書を手渡して足早に去って行った。アッシュの顔を見ても、やはり勇者だとは気づかなかった。

 アッシュは彼女が飛び乗った建屋の屋上を見上げた。手元の手配書の罪状欄が事実なら、彼女は稀代の大罪人。どうしてその彼女を見ていない、などと嘘をついたのか。

「あの表情……」

 透明な手袋を渡した時のシエルの表情が、彼にはどうしても引っかかった。祈るような、懇願するようなその顔が、まやかしの類とは思えなかったのだ。

「シエル・アストライア……」

 『認識誘導』が通用しない相手と会ったのは、初めてだった。一体何者で、何が目的で近づいてきたのか。

 一つ分かるのは――彼女はいずれ、また現れるということだった。

 釈然としない思いを抱えたまま、アッシュは王城に戻った。その翌日、『降臨祭に合わせて聖剣の授与を行う』と皇帝から告げられた。その判断が下されるまでの経緯まで、シエルが言った通りだった。


 *


 『偽眼の魔女』シエル・アストライアとの邂逅から一週間。アッシュはその後も、勇者として求められる仕事を黙々とこなし続けた。直接的な戦闘以外にも、以前潜入したシュルツェン要塞に、今度は戦力把握の為の斥候として潜入した。新任の指揮官がデータ主義の生真面目な魔族だったらしく、配備された戦力や、防衛時における戦略などが仔細に記された文書があった。その文書を盗み研究部に引き渡したことで、シュルツェン要塞攻略がいよいよ現実的になってきた。

 しかし、このような功績を残しても、アッシュの評価が上がることは無かった。それどころか、『勇者のくせに小間使いのような仕事をしている』と、却って叩かれる結果となった。

 だが、そんな事はどうでもよかった。今一番気にしていたのは、シエルの存在だった。

 彼女について今ある情報をかき集めたが、結局大したことは分からなかった。

 一年程前から確認されるようになった、神出鬼没の魔女。『この世の真実が見える』などと嘯き、投獄された魔女の解放や、王城へ不法侵入したこともあったという。これだけ大胆な行動を取りながら、その素性は一切不明。分かっている事と言えば性別と凡その体型、そして多様な魔法を使いこなす、一流の魔法士であるということだけ。あまりにも所在が掴めないため、第六騎士団は他の騎士団――特に第一騎士団に応援要請までしているという。

 あの接触以来、『聖剣に素手で触れてはいけない』という言葉の意味は分からずじまいだった。聖剣などと呼称されている以上只の剣ではないのだろうが、まさか危険なものが仕込まれている訳でもないだろう。

 そうして一週間。降臨祭の日が来た。

 城下は、早朝から人がぎっしりと道を埋め尽くしており、混ざり合って騒音と化した声が絶えず聞こえてくる。

 しかし、空が赤みを帯び、太陽が地平線の後ろに身を隠すと、そんなお祭り気分が、俄かに落ち着きを見せ始める。それが、今日最大の目玉イベント開始の合図だった。

 聖剣授与の議。ラーベンの中心に位置するリフィル大聖堂で執り行われるそれは、皇帝やオルネア教皇という国家と宗教のトップ二名が主導する、最も格式高い儀式だ。何しろ初代の頃から伝わる聖剣が、聖痕に選ばれた当代の勇者に受け継がれるのだから。儀式の後には聖剣を持つ勇者の姿がお披露目されるため、広大な大聖堂の周囲にはその姿を一目見るべく、儀式の前から多数の市民が殺到する。

 そしてそれは、史上最弱説が叫ばれるアッシュも例外ではなかった。大聖堂は既に数百名の市民で包囲されている。必然混乱を防ぐために、多くの騎士たちが聖堂を守護していた。聖堂内に皇帝がいるため、その中には第一騎士団の面々も含まれている。

「押すな! 大声で喚くのも駄目だ! この中では、神聖な儀式が執り行われるのだぞ!」

 騒めく市民たちを騎士たちが注意する。そうする他無いとはいえ、その声が周囲の喧騒をより大きくしているのは皮肉としか言いようがない。

 聖堂の中、アッシュは水風呂に浸かり身を清めていた。

 結局、アッシュはシエルに渡された手袋を持ちださなかった。後の事は、とりあえず儀式が終わってからでいいと思ったからだ。

 だが実際のところ、アッシュに儀式を普通に受けさせたのは、リリアの存在があったからだ。聖剣授与という最重要行事の最中でルール違反など犯そうものなら、どうなるか分かったものではない。聖痕を所有していると言えど、評価の低いアッシュでは『処刑して次の勇者に期待』という手が取られる危険も否定できないのだ。そうなれば残されたリリアは、ただ死を待つだけになる。だが聖剣の授与さえ受ければ、勇者でいる事は出来る。それならばリリアは、あの病院で命を繋げる。つまり、自分の身に何かあっても、リリアさえ生きられるなら良いと判断したのだ。

「勇者様。こちらを」

 冷たい水風呂から上がると、司祭の一人が衣服を差し出してきた。他のオルネア教徒同様の修道服を着用する。ブーツに足を入れ、紐を固く結ぶと、今度は透明の液体の入った杯を渡される。鼻腔をくすぐる独特の匂いは、紛れもなく酒だった。とはいえ只の酒ではなく、何かと浄化が施された特別な酒である。しかし、そんな事はアッシュには関係ない。彼にとって酒とは、喉から胃が焼かれる、やたら苦いだけの毒物だった。杯に口をつけ、一息に飲み干す。思いっきり顔を顰めたくなったが、どうにかこらえた。

 杯を返せば、いよいよ儀式本番だ。ホールに入ると、細長い箱を手にした皇帝が正面に立っていた。華美な装飾で彩られたその箱には、言うまでもなく聖剣が収められている。それを手にした皇帝の姿は、箱に負けず劣らず壮麗な衣服を身に纏っていた。

 皇帝ユピテリオス。先帝が早逝したことで、今のアッシュと同じ――弱冠十八歳で帝位に就いて以来、魔族との戦争から内部の治世に至るまでをこなしてきた若き王。先帝から受け継がれた青緑色の髪から覗く黒い瞳は、見つめようものなら意識ごと吸い込まれそうな深みがある。人生の酸いも甘いも嚙み分けた年長者ですら、彼ほどの深みを外見に宿す者は少ないだろう。

「アシュナード・アシュヴィン。主オルネアに選ばれし聖痕を宿す其方を、真の勇者と認める。この剣を手にし、人類に勝利と栄華をもたらすことを誓うか?」

 箱が開かれ、中から一振りの両手剣が姿を現す。刃は錆一つなく銀に彩られ、柄には赤い宝石が埋め込まれている。アッシュには剣の良し悪し、美醜は分からない。しかし、少なくとも大事に手入れされ、使われてきた事は分かった。六百年間、三十人の勇者と共に最前線で用いられてきたとは思えない、まるで新品のような綺麗さだ。事実、儀式を見守る神官たちは皆一様に、その美しさに息を呑んでいた。

 アッシュは皇帝に跪き、上辺だけの忠誠を誓う。オルネア教徒ではないが、こう言うように厳命されているので仕方ない。

「誓います」

「では、これを……」

 皇帝もまた合わせて跪き、聖剣を差し出す。

『どうか……あの聖剣に、決して素手で触れる事だけは無きよう……』

 ここにきて、あの魔女の言葉が思い出された。彼女が懸念していた事態を、今まさに起こそうとしている。だが、ここまで来て引き返すというのは通らない。どうあっても、こうなった以上手に取るという選択肢しかない。意を決して、聖剣の柄を握った瞬間――

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「……っ!?!?」

 奇妙な声と右眼の熱と共に、脳内に凄まじい量の情報が流れ込んできた。

「これ、は……?」

 まるで時が止まったかのように、身体が動かなくなった。頭に入り込んでくるものが膨大過ぎて、身体を動かすための脳のリソースさえ完全に食われてしまっていた。

 それはまるで、凝縮された『記憶』だった。とある誰かが見た何かが、延々と視覚、聴覚、触覚――ありとあらゆる感覚器官、認知機能を刺激する。

 見覚えのない小さな砦と、仲間たち。全身に包帯を巻かれた手を握る美女。血を吐きながら高笑いする上級魔族に剣を突き立てた時。万来の拍手に迎えられた勝利の凱旋。

 どれも当然ながら、アッシュには覚えの無いもの。ならば、この記憶は一体誰のものだ? いや、そもそも――

『俺は誰だ?』

 そんな疑念が湧いた。無数の記憶の中、アッシュは今見ているものが自分の記憶であるという錯覚を覚え始める。多くの仲間が死んだ。だから多くの敵を殺した。殺せば殺すほど、人死には減る。魔族がいる限り終わらない闘いを、自分が終わらせる。だから例え死んでも、魔族を狩り続ける。それが自分の使命。そうだ、自分の名前は。

「エル――」

 アッシュの中を支配し始めていた不可解な思考は、横っ腹の衝撃と共に中断した。無防備なところに何かに殴られ、剣と手の距離が大きく離れる。

「曲者だ!!」

 皇帝が叫ぶと同時、聖堂の外から悲鳴が轟いた。同時に大扉が破壊され、騎士が断末魔の叫びと共に飛び込んできた――否、吹き飛ばされてきた。

「何だ……?」

 脳を犯す頭痛を押さえつけてどうにか起き上がり、大扉の方を見た。そこには一匹の獣がいた。白銀の粒子を身にまとう、額に角の生えた馬のような獣だった。獣は何が気に入らないのか、狂ったように暴れまわり、聖堂を破壊する。外を警護していた騎士たちが立ち向かうも、まるで歯が立たず、紙屑のように吹き飛ばされていく。やがて獣はアッシュや皇帝の方を向き、頭を低く下げた。あの鋭い角を武器にする気だ。

「くそっ……! 陛下!」

 アッシュは皇帝の方を見た。彼は神官に囲まれながら、聖剣を大事に抱えていた。アッシュの声と、その意図を察した皇帝は、聖剣を渡そうと箱に視線をやったが――直後、絶望的な声が彼の口から出た。

「消えた……!? 聖剣が消えているぞ!!」

 アッシュは一瞬、皇帝の言葉の意味が分からなかった。

 聖剣が、消えた。アッシュが何かに突き放され、あの獣が出現してから五秒も経っていない。その間聖堂にいた誰にも気づかれず、皇帝が抱えた聖剣を誰が、どうやって持ちだしたのか。分からないのは皆同じらしく、周囲の神官たちもまた、絶望の言葉を口々に叫んでいる。

 目の前には得体の知れない獣、対してこちらは丸腰。『認識誘導』でやり過ごすにしても、アレが暴れる理由が分からぬ手前、分の悪い賭けにしかならない。

 命の危険を覚悟したアッシュに、やはり馬のような嘶きと共に、獣が突進してくる。

 その時、間に一つの人影が割って入った。どう見ても瞬間移動としか言えぬほど唐突に現れたその人物は、獣の角を華麗に剣で捌くと、返す刃で首を刎ね飛ばした。

 数人の騎士たちで歯が立たなかった猛獣を、たった二度剣を振るっただけで討伐した、金髪の騎士。アッシュにとって、そんな人物の心当たりは一人だけ。

「陛下、勇者殿! ご無事ですか!」

 その騎士――ウィリアム・バルクホルツは、獣が倒れたことを確認すると、アッシュと皇帝の元に駆け寄る。

「ああ、私は無事だ。それより聖剣が消えた! いや、待て……。あの獣、光となって消えていくぞ!」

 首から上を失った獣は、光の粒子となって霧散し、数秒後には跡形もなくなっていた。

 その不可解な現象を前にして尚、ウィリアムは誰よりも冷静だった。

「落ち着いてください、陛下。あれは魔法。より正確に言えば、『記憶召喚魔法』で呼び出されたものです」

 人間の体内には、『魔力』という物質が循環している。大多数の人間にとっては、ただ流れているだけで特に害も益も無い。

 だが、身体を流れる魔力が多い者は、そのエネルギーを用いて世界に干渉出来る。それが『魔法』というもので、それを扱う人間を『魔法士』と呼ぶ。

 記憶召喚魔法はその一種だ。過去に存在していた生物に魔力で構成した器を与え、現世に呼び戻す術。多くは人間が生まれる遥か昔の生物が召喚され、ウィリアムが討った『一角獣ユニコーン』は、戦闘力は高いが気性が非常に荒く、場合によっては術者自身に襲い掛かる事もあるという。

「記憶召喚魔法は非常に難易度が高く、扱える人間は限られています。それに……例の獣に攻撃された者を見て下さい。外傷が一切ありません。わざわざ『不殺』の条件を編み込んだのでしょう」

 アッシュの横で倒れている騎士を、ウィリアムは指した。確かに彼は、何十mモルトという距離を吹き飛ばされたであろうにも関わらず、その身や鎧に一切の傷がない。気絶しているのは、痛みと衝撃に因るものだ。

 そこまでのウィリアムの言葉で、ようやく聖堂にいる者たちは、この騒動の下手人に思い当たった。

「これほどの魔術を行使出来、かつ国政を妨害する必然のある者。つまり……」

「『偽眼の魔女』だ!! 奴が近くにいるぞ!!」

 聖堂内で発せられたその名前に、周囲の喧騒が一斉に強まる。

「第一騎士団各位、第六騎士団と合同で偽眼の魔女及び聖剣を捜索せよ! 私は再度の襲撃に備え、陛下をお守りする! 魔女は見つけ次第捕縛せよ、この際生死は問わない!」

 ウィリアムは即座に聖堂を出て、外の第一騎士団員へ指示を飛ばす。彼の一声で、浮足立っていた騎士たちは冷静さを取り戻し、一様に協調して街へと駆け出していった。

 アッシュは大扉に向かって声を張り上げたウィリアムの肩を叩く。

「ウィリアム。さっきは助かったよ、流石騎士団長だな」

「ただ使命を果たしただけだ。しかし、聖剣が奪われたとなれば、儀式は延期だな……。偽眼の魔女め、余計な事をしてくれた」

 ギリッという音が聞こえてきそうな程、強く歯を食いしばるウィリアム。心底からの怒りを見せるウィリアムに、普段なら感謝と感動を覚えただろう。しかし、今はそれより気になる事があった。偽眼の魔女――シエル・アストライアを追いかけなくては。

「魔女を追うんだろう。俺も協力するよ」

「本当か? それは有難いが……大丈夫なのか?」

「身体は何ともないさ。武器は……そうだな、適当な短剣が何処かにないか?」

「短剣だって? まあ、あるにはあるが……勇者は長剣を振るうモンだ。初代の頃から相場が決まってるぞ」

「緊急事態なんだ。素手で向かうよりずっとマシだろ?」

 アッシュは不敵な顔で手を差し出した。肩を竦めて苦笑しながらも、ウィリアムは腰の短剣を手渡してくれた。

「あまり期待はするなよ。あくまで予備の装備だから、多少モノが良いだけの市販品だ」

「そいつは有難い。いざって時に失くしても大丈夫だな」

「後で返せよ、ったく……奴の狙いはお前かもしれない。気をつけろよ」

 友人同士の軽いやり取りを交わしてから、アッシュは修道服のまま大聖堂を出た。

 聖剣授与の妨害及び、聖剣の強奪。これらがシエルの仕業なら、狙いは明白。アッシュに聖剣を渡さない事だ。

 アッシュの手に聖剣が渡ることで起こる不都合。彼の中には今、心当たりがあった。あれを手にした時に流れてきた無数の記憶。それを見ると同時に、自分が何者かが理解出来なくなっていった。今にして思えば、気味が悪くて仕方のない現象。あの時彼は、まるで自分の魂が『誰かに取って代わられる』ような感触さえ覚えていた。もしあのまま聖剣を握り続けていたら、どうなっていたか。あの魔女は知っているのだろうか。

 勢いで外に出たとはいえ、彼女の居所に心当たりがある訳でもない。既に日は落ち、街灯でまばらに夜が照らされている状況。広いラーベンの街に隠れた女をノーヒントで見つけ出すなど、人間には到底不可能だ。

 せめて手掛かりだけでも得ようと、門の周辺でざわつく市民に聞き込みする騎士に話しかけようとすると――宵闇のような漆黒の毛を持つ猫が、彼の前に降り立った。その猫は、紫色の瞳でアッシュを暫く見つめると、彼の前を足早に歩いていく。黒猫は騎士の足元をするりとすり抜けると、ニャアと短く一度鳴いた。

「……黒猫か。不吉だな……ん? ああ、勇者殿。ご無事でしたか」

 黒猫が足元を抜けた事に顔を顰めながら、白髭の騎士はアッシュに気付いて声を掛けた。

 アッシュ自身も彼の事は知っている。第六騎士団副団長、ギルベルト・オースティン。あまり話したことは無いが、叩き上げで出世し、昨年から副団長を務めるようになった優秀な騎士らしい。

「バルクホルツ卿に助けられました。それで、オースティン卿。偽眼の魔女ですが……市民から聞き込みを?」

「はっ。しかし、怪しい人や物を見たという証言は一つも出なくてですね……魔法を使った以上近くにいたのは確かですが、どうにかして足跡の一片だけでも掴めないかと……」

 雪山のように真っ白な顎鬚を撫でつつ、ギルベルトは唸った。

「俺も探します。聖剣をられたとなれば、こっちも黙っちゃいられませんからね」

「はっ。それは有難いのですが……何かお考えが? 必要なら、此方の騎士を何名かお貸ししますが」

 騎士の後ろ、足元で紫の瞳だけ輝かせて、猫はこちらを振り返っていた。まるで『ついて来い』と言っているかのように。

 どうにもその猫が気になったアッシュは、『認識誘導』で説得に掛かる。

「ああ、ちょっと確認したい場所が……『入り組んだ場所ですから、一人で行った方が良いかと』」

「一人で、ですか……?」

 ギルベルトはもう一度、唸りながら白髭を撫でた。そうして渋々といった体で、頷いた。

「そういう事でしたら、承知しました。我々は引き続き調査を行いますが、どうかお気をつけて」

「ええ、そちらこそ」

 納得させられたようで、ギルベルトがアッシュに敬礼する。

 ラーベンの地形は、街の治安維持に務める第六騎士団が最もよく理解している。彼らもそれは自負しているため、本来なら『この街に精通している我々にお任せください。それは何処でしょうか』となるのが関の山だ。だが認識誘導を掛ければ、この程度の理屈でも『なら一人で行かせるか』と思わせられる。

 ギルベルトに敬礼を返してから、アッシュは歩き出した黒猫を追いかける。猫の足は徐々に人気のない暗闇へと進んでいき、その上入り組んだ地形に進んでいく。表の騒ぎが無ければ、怪しげな連中がたむろしているだろう。猫は身体を闇に紛れさせながら、紫の眼だけを輝かせ、時折存在を確認するようにこちらを見る。明らかに自身を意識して動くその猫に、アッシュは何処かに連れて行こうとしているという確信を持った。

 そうして導かれるままに進み続け、いつの間にか工房が幾つも立ち並ぶエリアに来ていた。工業区と呼ばれるそこは、様々な技術を持つ職人たちの住処であり、仕事場だった。そこに廃業して以降新たな主人も現れず、取り壊されもしない廃工房も幾つかある。

 紫の眼を持つ猫が止まったのは、そのような廃工房の一つだった。重厚な鉄扉で閉ざされた工房の前で、黒猫は小さく鳴いた。『開けろ』と言っているかのようだった。

「そうは言っても、こんなところ鍵なり何なり閉ざされて――」

 そう言おうとした時、足先に何か硬いものがあたった。しゃがんで目を凝らすと、見るからに頑丈そうな錠前が落ちていた。破壊されたのではない。十中八九ピッキングだ。

 鉄扉に手を掛け引くと、ギイィっという音と共に重い扉が開かれた。足元をすり抜け、一足先に黒猫が中に入る。外から漏れ出す灯りと共に、猫と同じ黒いブーツの人物が、猫を抱きかかえる。

「ご苦労様でした」

 女の声だった。それもちょうど一週間前に聞いた声。労わりと共に黒猫は、粒子となって消えていった。まるで先程の一角の獣のように。

「この子は怪猫キャスパリーグ。頭が良いので、案内役を頼んだのです」

 その光景に息を呑みながら扉を閉めたアッシュの耳に、再び女の声が届く。

「元素魔術・炎――『灯』」

 直後、工房内を幾つもの炎が照らした。提灯や蝋燭ではない。ただ炎だけが、宙に浮いていたのである。呪われた墓場のような光景に一瞬目を奪われたが、すぐに視線は声のした方に戻った。まさに今、外で騎士たちが血眼になって探している女がいた。

 偽眼の魔女、シエル・アストライア。彼女は安堵したような微笑みで、アッシュに近付いてきた。

「先週ぶりです、アシュナード様。ご無事で何よりです」


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