ウィリアム・バルクホルツ
シェラリーヌ――シエルは、このように自らの生い立ちを語った。そしてそれは、彼女が魔族の事情や柱神の存在を知る理由として、これ以上ない説得力を持っていた。加えて『全知』の魔王ディオスクロイの正体と能力まで話したとなれば、信じる以外に選択肢は無かった。
「これが、私が貴方たちに出会うまでの話です。魔族側は兄に任せ、私は皇国の中で柱神討伐を託せる人格・能力双方共に信頼出来るパートナーを見つける事にしました」
「人格・能力共に信頼出来る? 俺がか?」
「他に誰がいるのですか?」
「……シエル。ウィリアム・バルクホルツには、認識誘導が効かなかった。俺じゃない、もっと殺しに向いた強力な特性を持つ奴は他にいただろうが」
アッシュは未だ、自信を取り戻せずにいた。シエルによって無意識のうちに掛かっていた『誘導』は解かれたものの、ウィリアムに特性が効かなかった事実は揺らがない。
シエルはアッシュの迷いに満ちた言葉と瞳を、首を横に振って否定する。
「ただ殺すだけなら、そうかもしれません。ですが……柱神には『不死の魔法』が掛かっています。殺すには……自分は死んだ、と『認識』させずに息の根を止めなければなりません。今のアッシュさんなら、不可能ではないと考えます」
「それも他にいるだろう」
「そうかもしれません。それでも――」
シエルはアッシュの手を取り、その上に自分の手を重ねた。魔族などという事が些細な事だと思えるくらい、温かい手だった。
「私には、貴方でないとダメなんです」
たじろいで後退しようとしたアッシュを、シエルは手を強く掴んで捕まえた。
「自信が持てませんか? それでも構いません。例え貴方自身が……この世の誰が貴方を悪く見ても――」
シエルの紫水晶のような瞳が、一杯にアッシュの姿を映し出す。心の奥を含めた、アシュナード・アシュヴィンの全てを、彼女は瞳に納めていた。
「私だけは、本当の貴方を見続けていきます」
彼女から見えるアッシュ。それがどういったものなのか、アッシュには見えない。しかし、彼女の眼から伝わるその意志だけは、本物だと確信出来た。
「希望か……」
ヴァネッサが言った。シエルにとって、アッシュは希望だと。ウィリアムに歯が立たなかったと発覚してなお、彼女の意志は揺らいでいない。彼女の言葉は真眼から導き出した最適解かもしれない。だが、その『眼』は
だからアッシュは、信じる事にした。真っ直ぐに放たれる感情を。
「勝算はあるんだろうな?」
「もちろん」
試すようなアッシュの声に、シエルは即答した。そうしてアッシュは、ようやく身体の力を抜き――笑った。
「……分かったよ。どのみち、ウィリアムをやらなきゃ終わりなんだ。地獄まで付き合ってやるよ」
「その言葉を聞けて良かったです」
シエルはアッシュの笑顔に、少女のような無垢な微笑みで答えた。この笑顔を見せられて、誰が魔王の妹などと思うだろうか。
「さて……それでは、急ぎましょうか」
シエルは奥の部屋へ入ると、ものの十数秒で、いつものローブ姿で現れた。そして机の引き出しから幾つもの魔法陣を取り出すと、それらを次々とヴァネッサに渡していく。
「ウィリアムを倒すのか? けど、アイツの強さを考えれば……相当な下準備がいるんじゃないか?」
「問題ありません。以前から用意していた、対柱神用の作戦があります。ただその前に、アッシュさんの応急処置。それからリリアさんの魔心症も鎮める必要があります」
「鎮める……!? どうやって!?」
「日が昇らないうちに私の魔晶石を握らせて、体内の魔力を吸い取るんです。彼女に最適化されたものではないので、吸収量も少ない。完治までは程遠い量になるでしょう。だからあくまでも応急処置。それこそ、柱神に注入された分を吸い取るぐらいです」
それでも、アッシュにはこの上ない朗報だった。リリアが助かるというだけで、自分の怪我より先に彼女のところに駆けつけたい衝動に駆られる。
「さて、夜が明けるまでの勝負です。少々痛みますが……ご容赦ください」
シエルは様々な薬草や魔術を駆使し、アッシュの傷を戦える程度に治癒させた。細かい手作業はヴァネッサが手伝った。彼女の手腕は見事で、鍛冶や服飾に加えて医術までこなせる彼女の底知れなさに、思わず奇妙な笑いが漏れた。
その後すぐに外に出た二人は、リリアの病室に侵入した。
「リリア……っ!!」
リリアの体調は、誰が見ても最悪だった。口元は血に汚れ、苦しそうな呼吸をしている。その上肌には無数の斑点が浮かび、四十度を優に超える高熱があった。
「失礼します、リリア様……」
シエルが魔晶石と共に彼女の両手を強く握った。魔晶石から紫色の鈍い光が漏れ出し、十分ほど経ったのち、光が止み、リリアの寝息も穏やかなものになった。
「……後は、リリア様次第ですね」
『これで大丈夫だ』とは、気休めにも言わない。彼女にとっても、半ば博打のような処置だったのだろう。
「シエル……後は?」
これで当面のアッシュの心配事は消えた。後は最大の敵、柱神ウィリアムを排除するのみ。
シエルは作戦があると言っていたが、ここまでの行動を急いだシエルは作戦の内容を話していない。ただ一つ、『戦闘服を脱ぎ、普段着に着替える』という妙な指示があっただけだ。
「決着は、本日の夜。アッシュさん――」
シエルは、真剣極まる表情で、アッシュに言った。
「王城に帰って、彼に話をつけてください」
*
「よし、ここだな」
夜、ウィリアム・バルクホルツは工業区の廃工房の一つに入った。錆かけた重い鉄扉を開くと、周囲を光の壁が覆った。
「結界魔法……?」
生み出された光の空間。その中心にいたのは、まさに彼をここまで呼び出した幻狼だった。
「これなら誰も、俺たちの邪魔をすることはない……そういう事だな?」
「一対一とはいきませんが……それは承知の上でしょう?」
アッシュの横に、シエルが立っていた。素顔の彼女を見た時、ウィリアムは興味深そうに眼を細めた。
「お前が偽眼の魔女か。……なるほど、魔族だな」
「あら……見ただけでよく分かりましたね」
「伊達に何百年も見てきちゃいないさ。匂いというか気配というか……それで分かる」
「そうですか。でしたら――これを使っても、驚きませんね?」
シエルは魔晶石を取り出し、戦闘体に移行する。外見上は黒い翼が生えるだけだが、彼女も上級魔族。身体の強度や保有する魔力は桁違いに上がっている。
変異したシエルの姿を見たウィリアムが息を呑んだ。
「……そうか。まさかとは思ったがお前……シェラリーヌ・ディオスクロイだな?」
「あら、其方の私もご存じなのですね? それは貴方のお仲間から聞いたのでしょうか?」
「ディオスクロイの厄介さは、人間側の柱神もよく知ってる。けど、姿を消した片割れが皇国に来ていたとはな。……道理で魔族の方を探してもいない訳だ」
ウィリアムが愉快気に頬を吊り上げた。
「しかし、これは参ったな。まさか勇者だけでなく、半身とはいえ魔王まで敵に回しているとなれば……」
ウィリアムが右手で目を覆う。だが、覗く表情と声音から伝わる感情は、絶望というより――嘲笑だった。
「俺も本気でやる必要があるな」
ウィリアムの身体が、神々しい光を纏った。勇者の退魔、使徒の天装と同じ――強化能力。彼らの大元である柱神もまた、行使出来るらしい。
「この力はそもそも、エルヴィンの特性を魔法で以て再現したものでな。エルヴィンは自分の敵――彼からすれば『魔族』だけに力を発揮して力を強めていたらしいが……俺たちは任意で使えるままにしているのさ。その方が便利だしな。そのせいで敵対する魔族がいなければ……勇者もただの人間に過ぎない」
ウィリアムの姿が消えた。アッシュは嫌な予感を感じて振り向くと、シエルの目の前にウィリアムがいた。
「しまっ……!」
退魔無しでは只の人であるアッシュより、戦闘体のシエルを先に落とす。合理的な行動だが――突然目の前に現れたウィリアムに、シエルは表情一つ変えることなく魔法陣を起動した。
「むっ……」
空を切り裂く鋭い音と共に、ウィリアムの鎧に大きな傷がついた。立ち止まったウィリアムに対し、シエルは翼を大きく羽ばたかせて退避し、アッシュの横に降り立つ。
「やはり硬いですね……急所を正確に捉えなければ、殺害は不可能でしょう」
「殺害か……」
アッシュは彼女の言葉に、神妙な顔を作った。魔法によって斬られた箇所を撫でながら、挑発するように言う。
「大した威力だ。天装無しなら斬られていたかもな。尤も……お前たちには幸運か?」
ウィリアムが言う幸運。その意味を理解する二人は、顔を見合わせた。
アッシュは彼女から事前に教えられた、柱神の『不死』の内容を思い出す。
『柱神の肉体に掛けられた不死の魔法。これは単純な不老不死の他にもう一つ、非常に厄介な効果があります。それは、自らの死を「認識」した瞬間、死因を作った人物の身体に魂を移して支配する、というもの。かつて忘却者が柱神に敗れ、全滅したのもこれが原因』
『柱神の殺害自体は成功しても、そのせいで乗っ取られたからか』
『その通り。この魔法を打ち破る方法は二つ。一つは自害させること。自害の場合、死因が他ならぬ自分自身であるため、死にゆく自分の身体に乗り移るという無限ループに陥り、そのまま死に至るからです。そしてもう一つは――』
「相手に『死んだと認識』させないように殺す……」
忘却者の短剣を握る手に力が籠る。これこそまさに、シエルがアッシュの特性を欲しがった理由。『認識誘導』を使えば、最期まで相手に『死んだ』と思わせないままに葬る事も不可能ではない。超一流暗殺者揃いの忘却者ですら出来なかった芸当だが、認識誘導は彼に人類最強レベルの欺瞞の業を授ける。
しかし、それには――突破しなければならない、厚い壁があった。
「おいおい、忘れたかアッシュ……」
短剣の刃先を向けるアッシュに、ウィリアムは肩を竦めた。
「俺にお前の特性は通用しないんだって」
七百年を生きる柱神は、その身体から世界を知る技術が人間を遥かに超越している。故に、仮に一つの認識を誤らせても、それ以外のありとあらゆる情報から修正し、捉えてくる。先の攻防において、アッシュもそれは思い知らされていた。
遊びに付き合うつもりはない、とばかりにウィリアムの姿が消えた。
「上です」
シエルの声に合わせて見上げると、上空から紙をばら撒くウィリアムがいた。
「悪いが出し惜しみは無しだ。この後も仕事が詰まってるからな」
ひらひらと宙を舞う紙には、一枚一枚に魔法陣が描かれていた。
「魔法は苦手だが……人間や魔族程度には負けていないつもりだ」
魔法陣一つ一つが光を放つと同時に――そこから、一つ一つが丸まった人体程の巨大な火球が飛び出した。そして炎は赤ではなく――青い色をしていた。
それはまるで、世界の終わりの光景。既存の魔法体系、そのどれにも当てはまらない蒼炎の嵐。逃げ場なく降り注ぐ炎の雨が、結界の床に叩きつけられた。たちまち青い火柱が立ち昇り、地面を覆い尽くす。
人間とも魔族とも一線を画する力を持つ柱神、ウィリアム。彼は柱神の中では魔法が不得手だが、それでも長年の鍛錬により、並の魔法士では影も踏めない領域の技を誇る。そしてかつて神秘の時代を生きた生物としての、絶対的な魔力の性能。その結果が、眼下の灼熱地獄だ。
とはいえ、この魔法は瞬間的な火力に特化したものであり、持続時間は短い。数秒間燃え盛った劫火は、花が萎むようにあっけなく消火した。
ウィリアムは地面に降り立つと、塵一つない結界を見渡した。
結界は、侵入及び脱出不可能な領域。逃げるというのは有り得ない。シエルの翼なら飛んで退避することは出来るだろうが、ウィリアムはその姿を見ていない。
つまり常識的に考えれば、彼らは二人纏めて消し炭になったということ。そうウィリアムは『認識』した。
「……待てよ」
ウィリアムは心の中に生じた小さな違和感を拾い上げ、再度世界を見直す。
「っ……!」
背後から感じた微かな気配に、反射的に右へ跳躍した。先程までウィリアムの首があった場所へ、銀の刃が差し込まれた。
「クソッ……甘かったか!」
舌打ちと共にウィリアムから遠ざかるアッシュ。追おうとしたウィリアムだが、すぐさまアッシュの周囲を風の刃が覆い、追撃を防ぐ。少し離れた場所にシエルもいた。何れも火傷一つない、全くの無傷だ。
「無傷で凌がれたか……一体どうやった?」
「貴方なら既にお気づきなのでは?」
「まあな。結界魔法の上に結界魔法を張るか。なかなか良い手を打つ」
結界魔法は内外の空間を遮断する性質上、極めて強力な防御手段に成りうる。しかし、並の魔法士では一度の発動すら難しい魔力消費に加え、外界の情報まで一切遮断するせいで、防御として使用するのは余程の緊急事態以外では、まず無い。ましてや既に結界魔法を行使した上で、その中でも使用するというのは、人間の魔力ではどう頑張っても足りない。
しかし、ここにいるのは、魔王の片割れシェラリーヌ。戦闘体であれば、このような無茶な魔法行使もある程度可能だった。
ウィリアムは、その上で先の惜しい攻防について、もう一つの可能性に気が付いていた。
「アッシュ。お前、いつから誘導出来る認識が二つになったんだ?」
「チッ……一発で気付きやがった」
アッシュが昔、自分自身に掛けた誘導。それを解除した今、彼が一度に誘導出来る認識は二つになっていた。今ウィリアムに掛けたのは、『アッシュたちは消し炭になった』『結界内は無音』の二つ。避けられはしたものの、一時的にウィリアムに誤った認識を持たせられたのは、この二つの認識により、『死亡の偽装』と『消音』の二つを同時に出来たからだった。一つだけでは即座に修正されても、二つとなれば、さしものウィリアムも隙を作る。
「けど、お陰でいい事が分かった」
初見殺しの一撃を避けられたにも関わらず、アッシュの顔には確かな喜びがあった。何故ならこれで、ウィリアムの言ったあの言葉が嘘だと証明されたから。
「俺の認識誘導は――お前にも効く」
アッシュとシエルにとって、最大の懸念事項。それが、認識誘導が本当にウィリアムに通じないかどうか。これが真ならば、不死の魔法の穴を突くやり方自体が破綻してしまう。この点だけは、シエルでも実際に見て、確かめるしかなかった。だが結果、二重の誘導でウィリアムの認識を欺く事が出来た。可能性がゼロでないと分かった時点で、大収穫だった。
しかし――それでも、ウィリアムの余裕は崩せない。
「そうみたいだな。けど……勝てるかどうかは別問題だ」
結界の中で、人知れず世界の命運を賭けた決戦。人間と魔族、そして柱神。異なる種族の三者による死闘。ウィリアムには『転移』がある以上、距離を取る事は無意味。故に、シエルはアッシュの近くで彼の死角をカバーするように宙を舞い、魔法を行使する。アッシュもまた、『認識誘導』による幻惑で隙を生み出し、ウィリアムに刃を届かせようとする。
だが、やはり決定打にはならない。神域にある技量に『天装』による強化が加わった、弱点のない単純な『強さ』。種も仕掛けもない以上、二人にとっても大きく崩しにくいのだ。
そして遂に、戦闘の趨勢が大きく動いた。ウィリアムの一閃が、シエルの左翼を切り裂いたのだ。墜落した彼女は
「シエル……!」
墜落したシエルをカバーしようとしたアッシュの右の短剣を、ウィリアムは弾き飛ばした。
「ここまでだな」
そして突き出された剣先が、アッシュの左肩を大きく抉った。噴き出す鮮血が、身体をその髪と同じ色に染めていく。
「退魔無しでよくやった、と言うべきだな。正直、ここまで食いつかれるとは思ってなかったよ。お前にも、シェラリーヌ・ディオスクロイにも」
ウィリアムの言葉を裏付けるように、彼の純白だった鎧には幾つもの傷が付いていた。そして鎧に守られていない箇所に見える赤は、アッシュとシエルのものではない。
「お前達二人のお陰で、希望が見えたよ。人類と魔族がこれだけ強くなっているなら、あの神秘の時代の再興も、そう遠い未来の話じゃない」
「……二人では、ありません」
シエルが立ちあがる。左翼のあった場所からは鮮血が絶えず漏れ出し、彼女自身の顔色も蒼白だった。
「私達の他にも……柱神たちの打倒を願う者はいます」
「シエル……」
「二人じゃない? まさか、お前の兄さんの話か? それはそうかもしれんが……まさか今すぐ助けに来てくれる訳じゃないだろう?」
ふらつきながら立ち上がったシエルを、ウィリアムは鼻で笑う。確かに今の彼女の有様では、強がりにしか見えなくても無理はない。
だが、アッシュは分かっていた。彼女が口にするその言葉と、柱神を見る瞳から伝わる、確かな『魂』を。彼女はまだ、諦めていない。
「私達は、まだ……!」
シエルがローブから新たな魔法陣を取り出そうとした瞬間――結界魔法が、砂の城のようにあっけなく崩れた。そしてシエルの身体もまた、片翼の消失と共に倒れていく。
「シエル……! ウィリアム、お前……!!」
アッシュの表情が、憤怒に染まっていく。彼にしては珍しい程に。しかし、負傷の程度は重い。ウィリアムに斬りかかる事も、アッシュはしなかった。
「ふむ、死んだか? さて、後は――」
彼らの様子を見て、シエルの死を確信したウィリアムが、大剣を振り上げる。
「じゃあな、アッシュ。お前の死は――無駄にしない」
紅を纏う銀の刃が、アッシュに向かって振り下ろされる。彼の正中線をなぞる一閃は、刹那のうちに彼を縦に両断するだろう。ウィリアムの全力の上段斬りを避ける手段は、退魔もないアッシュには、ない。ウィリアムはそう『認識』していた。
その認識は正しかった。彼が間違えたのは、それ以外の部分だ。




