七百年の研鑽
皇国魔術研究機関、職員宿舎。国中の頭脳が集う皇国魔術研究機関は、職員への待遇もかなり良い。二十四時間警備の広大な宿舎の中には、三人家族でも充分な部屋が一人一人に与えられる。
とはいえ、全てアッシュには関係のない話だ。王城の警備すら掻い潜るアッシュにとって、宿舎一つ程度の警備などザルも同然。容易く侵入し、ポールの部屋へと入り込んだ。これから起こる事も知らず、呑気に眠りこける彼を叩き起こすと、口を塞いで刃を突きつけた。『認識誘導』を掛けている以上、アッシュだと気取られる心配もない。
「命が惜しければ俺の質問に答えろ」
眼球が飛び出んばかりに目を見開くポールに構わず、アッシュは喉元に刃を近づけた。
「魔心症の新たな感染方法として、魔力を直接注射する方法を実行したな?」
「ど、何処でそれを……?」
「やはりそうか。指示したのは誰だ?」
ポールは涙を浮かべながら、首を横に振った。
「し、知らない。上から指示があっただけだ。いつもの仕事と同じように……」
「なら普段指示をしているのは?」
「それも知らない。そもそも、神術課はただ与えられる仕事をするだけなんだ。配属時の契約で、仕事内容と指示系統について、深入りしない事を約束されるから……」
「何だと?」
ポールの様子から、嘘を言っているとは思えない。確かに、神術課の職員全員が使徒だとは考えにくい以上、厳密な守秘義務が課せられるのは納得出来る。だが、同時に気になることがあった。
「それなら何故、魔心症の事を知っている?」
「魔心症は、オルネア様に選ばれし『使徒』を探し出す為のものだと……そう教わった」
「誰から?」
「それは――ヒィッ!」
突然、ポールが怯え切った声を上げた。裏返った声と共に、再び目が大きく開かれる。
アッシュは突然、背後から凄まじい殺気を感じた。振り向かず、直感を信じて左に跳んだ。すると、ベッドの上のポールを銀色の塊が貫いた。踏まれた蛙のような声と共に、血を噴き出すポール。誰が見ても、致命傷だ。
ポールを殺害した存在は、暗闇の中、アッシュに身体を向けた。その身もまた、銀色の塊に覆われているのが分かる。
「やれやれ……折角の優秀な技術者がもったいない……」
その声に、アッシュは総身が震えた。
呆れたような、しかし何処か他人事のような声音。だが重要なのは――アッシュにとってその声が、『聴き馴染みのあるもの』だったことだ。それこそ、この暗闇でも誰なのかがすぐ分かってしまう程に。
「ウィリアム……バルクホルツ……」
返り血に塗れた金髪の偉丈夫は、ポールの体から銀剣を引き抜き、アッシュの方を向いた。
「第六騎士団の報告にあった幻狼だよな? やはり目的は、魔心症の根絶か」
ウィリアムが剣を此方に向ける。アッシュは体の芯から温度から失せていくような気がした。これまで何度か戦場で感じた死の予感だ。史上最高の騎士、ウィリアム・バルクホルツ。考えうる限り最悪の相手が、目の前にいる。
しかし、それでも生き延びなければならない。戦って勝つのが困難なら、せめて逃げる。そう考え、窓に向かって全力で跳躍した。そのまま突き破り、外へと降り立った。
だが――
「逃がさない」
死刑宣告ともとれる一言と共に、音もなく目の前に、ウィリアムが降り立った。
『転移』。目の届く全ての場所に、一瞬で移動するウィリアムの特性。忘れていた訳ではないが、これがある以上、逃走は不可能だ。
『認識誘導』は『幻狼はアッシュではない』という内容に固定されている以上、実質使えない。それでも、やるしかない。そう決めたアッシュが短剣を構えると――
「その構え方……それに体型。そうか、お前か」
ウィリアムが剣先をアッシュではなく、地面に向ける。そして寂しげに笑い、言った。
「幻狼なんて名乗ってるが、俺には分かる。お前だろ……アッシュ」
思わずアッシュは肩をビクリと震わせた。それが答え合わせになると気づく前に、身体が先に反応した。
「どうして気付いた、って言いたげだな……。ギルベルトの遺体にはな、返り血が見つからなかったんだ。これはつまり、幻狼は仮にも使徒であるギルベルトの斬撃を一切食らわず、一方的に殺したって意味だ。そんな芸当が出来る人間は大きく限定される。幻狼の疑いがあったのは、お前の他にも何人かいたけど……俺は『認識誘導』で他者の意識の隙を突ける、お前が一番確率が高いと思った」
ウィリアムは、二階の窓が割れた宿舎を見上げた。
「仮にそうだとすれば、動機は十中八九魔心症の事だ。妹さんは、お前にとって命より大事な娘だからな。けどまあ、流石にこれは完全な憶測だから、騎士団を動かす訳にもいかない。だからこうして、魔心症を撒いた後で張っていれば……狙い通りに、お前が来てくれた」
謀られた。最初から、アッシュの行動はウィリアムにお見通しだったのだ。アッシュは今更ながら、自分の性急な行動を後悔した。せめてシエルが起きるまで待っていれば、神術課の守秘義務の事などは、聞く事が出来た筈だった。
「ああ、一応言っておくけど、妹さんが危ないってのは、本当の話だぞ? ちゃんと彼女にも『注射』した事は、俺自ら確認済みだ」
「……注射?」
聞き捨てならない言葉に、アッシュの声が明らかに低くなる。その変化も知らないとばかりに、ウィリアムは同じ調子で話を続けた。
「前々から実験で上手く行ってたけど、魔力を直接注射すれば、より魔心症が発症しやすくなるんだよ。だからまあ、元々魔心症の人に打てば、病状が深刻化する。リリアちゃんは使徒にはなれないけど、もし幻狼がお前なら間違いなく出て来るし、仮にそっちが外れても、魔心症が反抗の動機なら孤児院の話もそのうち耳に入っただろうからな」
ウィリアムの話は、その快活な声からするものでは、断じて無かった。アッシュにとって聞き逃がせない、許し難い発言が幾つもある、吐き気すら催す最悪の言葉たち。
そしてそれは、目の前の騎士の正体を察するのに、余りあるものだった。
「お前が指示したのか……。俺を誘き出す為だけに、リリアも……あの子供たちまで巻き込んだのか……!」
「……俺だって、やりたくはなかった。あの子達は、本当に良い子達だったからな……」
ウィリアムは寂しげな顔で、小さく笑いながら言った。
「将来、柱神の手足として……頑張ってくれる筈だったんだけどな」
その瞬間――アッシュの中で、致命的な『何か』が弾けた。
頭で何か思うより先に、体が動いていた。右手の短剣とウィリアムの長剣が激突し、火花を散らせた。
「お前が……お前が柱神か! 人間と魔族の戦争も、魔心症も……お前が仕組んだことか!!」
「全部って訳じゃないさ。俺の仕事は主に皇帝を動かす事と、柱神の存在に気付いた奴を消す事だからな」
アッシュの『認識誘導』を乗せた連撃を、ウィリアムは片手間のように捌いていく。積極的には攻めず、隙が出来るのを待つ戦法だった。
「いや、もう一つあったな。今期の勇者選定は……俺の番だった」
「勇者の選定……?」
既知の事実のように語るウィリアムの言葉に、アッシュは眉を顰める。勇者の選定条件は、『特性を持っていること』以外は不明だった筈。
「そうだ。勇者の選定はな、柱神が交代で、独自の基準で選んでるんだ。まあ、基本的に他の奴らは、強さとオルネア様への信仰心で選んでるのが多いんだけどな」
勇者の選定条件は殆ど不明だが、幾つか噂が流れていたのを聞いた事はある。
『毎日熱心に神に祈れば、選ばれる可能性が上がる』
『神とて人の選り好みはする。だから神に愛されるような人でいると勇者になれる』
「眉唾だと思ってたが……あながち外れちゃいなかったってか……」
馬鹿げた噂だと思っていた。これらが正しいなら、信仰心も性格の良さも持ち合わせていないアッシュが選ばれる訳がない。だが、今回の選定者であるウィリアムが例外だったのなら、先の噂も間違いでは無い事になる。
「『認識誘導』。特性の種類はそれこそ人によって全く違うけど、他者の内心に干渉する特性なんて滅多にあるもんじゃない。だと言うのに……お前の特性が如何に有力な物なのか、誰も理解していなかった。……揃いも揃って馬鹿野郎だと思ったよ。お前さえその気になりゃあ、文字通り何者にでもなれる特性じゃないか。だけどお前が選んだ道は……いつ使い潰されて死ぬとも分からない傭兵の身。それも、『自分以外の他人』の為に自分を削って生きる人生だ。だからお前を選んだ。力もある、他者への献身もある。そんなお前が無能扱いのまま死んでいくなんて……間違っているだろう」
アッシュは内心、少なからず驚いていた。アッシュの中では、柱神という存在は、人間や魔族個々人の事など気にもしない、悪い意味で神らしい存在だと思っていた。しかし、眼前のウィリアムが自分を憂う気持ちに、嘘は見られない。彼はアッシュという人間を、心から案じて勇者に選んだのだ。
それは分かった。だからこそ、他の騎士を連れることなく、自分一人で片を付けようとしているのだろう。
だがそれでも、アッシュは剣を納めない。やはりコイツは人ではなく、神なのだと。そう思わせる見逃せない発言があった。アッシュの背景を知り、本当に心情を理解しているのなら、出ない筈の言葉が。
「ウィリアム……お前は、俺が幸せになることを願うんだよな? それなら……」
アッシュは少しだけ離れると、仮面を外して素顔を見せた。自分が今どんな表情をしているのかは分からないが、顔を見たウィリアムは少しだけ安堵したように笑っていた。
「リリアの体を治し、魔心症をばら撒くのを止めろ。『他人』じゃない、俺のたった一人の家族を……救ってみせろ」
先程、ウィリアムは言った。『自分以外の他人』の為に戦っている、と。人間の事を真に理解しているのなら、どうやっても有り得ない間違いだ。
リリアとアッシュは唯一の肉親で、血は勿論、苦難も幸福も分け合って生きてきた掛け替えのない兄妹だ。暫しの沈黙の後――ウィリアムは小さく笑った。
「すまない、アッシュ。……それは不可能だ」
答えを聞いてから、短剣と両手剣が打ち合う音が響くまで、殆ど一瞬の間しか無かった。予想通りだったからだ。
「……そうか。残念だ」
涼しい顔でアッシュの一撃を受け止めたウィリアム。彼もまた、攻撃されるのを予想していたのだろう。
アッシュは弾かれるように後ろに跳ぶと、短剣の切っ先をウィリアムに向けた。ギルベルトとの闘いでも用いた、相手の距離感を狂わせる技だ。
ウィリアム・バルクホルツが『史上最高』と呼ばれる所以。それが、『教科書』とさえ称される程、基礎を極めた剣術にある。何処までも盤石で流麗な動作は、見るものを魅了する、一種の芸術の域にある。
だからまず、そこを崩す。距離感を狂わせ、実際より相手が近くにいると錯覚させ、空振りを誘う。ただでさえ相手を惑わせる技術に、『認識誘導』を作動させれば、いかなる達人でも彼我の距離を見誤る。
アッシュのその構えに対し、ウィリアムは――
「成る程。お前らしい技だ」
目を閉じた。構えはそのままに、視覚を遮断することで応じて見せたのだ。
だが、アッシュからすればこれは想定内。全身を耳としたウィリアムに対しても、対策は用意してある。
忘却者の短剣。投擲動作無しでの遠距離攻撃を実現するこの武器は、ギルベルト戦のように不意打ち用の装備として、極めて有効なもの。聴覚だけに頼っていては、幾らウィリアムといえど直撃は免れない――筈だった。
「へえ、随分懐かしい武器だな」
打ち出された刃をかがんで避けると、ウィリアムはそのまま地を這うように駆け出す。既にその眼は見開かれ、特徴的な碧眼がアッシュをしっかり捉えていた。重厚な鎧を纏いながら、軽装と見紛う速度で迫る。
「なっ……!?」
瞠目するアッシュに、ウィリアムは下から鋭い切り上げの一撃を放った。閃光の如きその剣を、間一髪で躱す。
「それはかなり前にあった暗殺組織が使ってたやつだよな? 面白いから覚えてたんだよ」
「そうかよ。なら……見れて良かったなぁ!」
柄だけになった短剣を腰の箱型の鞘に入れ、刃を装填。その動作の合間に、剣を振り上げて空いた柱神の脇腹に、左手の剣を振りぬいた。ウィリアムの長剣ではガードが間に合わない。ヴァネッサ特製の刃なら、騎士の鎧だろうと継ぎ目を狙えば斬れる。致命傷でなくとも、軽くない傷を与えられる。
そのアッシュの目論見は、またしても外れた。刃が、鎧の継ぎ目で弾かれたのだ。狙いは外していない。本来ならその身から流れる筈の鮮血が、一滴たりとも見えないどころか、自分の方が弾かれている。
少し考えて、その原因にすぐ思い至った。体術だ。斬撃が当たる一瞬に、ウィリアムは身体の動きだけで刃を受け流すようにして弾いたのだ。言葉で説明するのは簡単だが、同じことをやろうとして出来る人間は、恐らく彼以外にいないだろう。
『史上最高の騎士』という肩書き。それを支える超人的な技量の前に、アッシュは思わず歯噛みした。
「なあ、アッシュ……お前も気付いてるだろう?」
態勢を立て直したウィリアムが、一歩下がりつつ問いかける。
「お前の『認識誘導』は確かに強力な特性だ。それこそ、柱神を殺せる可能性だってある。けど、あくまで他者の認識を『誘導』するだけで、植えつけるわけじゃない。誘導しやすさは、相手の認識の『正確さ』に反比例する」
「それがどうした?」
「……お前が『認識誘導』を掛けた上で行った行動すべてが、俺には通用しなかったんだ。何故かは分かるよな?」
ウィリアムは言葉を待たずに仕掛けるアッシュの攻撃を、躱し続ける。左右の剣から繰り出されるフェイント交じりの連撃を、全て完璧に読み切り、傷一つ負う事がない。『認識誘導』を掛け、フェイントが致命の一撃に見えるよう認識させたが、顔色一つ変えずに見切られた。
「柱神が生きたのは、何十年なんて話じゃない。七百年だ。その間、各々が研鑽を怠らなかった。才能のある人間が七十年も剣をやれば、超人の域に達するだろう? 俺はその十倍――七百年間、剣を磨き続けてきた。お前がどれだけ、俺が間違うように誘導しても――お前の指の一本一本、呼吸の一つ一つから次を読む。だからな、アッシュ」
ウィリアムは連撃からバックステップで逃れると、着地と同時に刺突の構えを取った。
「お前の『認識誘導』は……俺には効かない」
離れた場所から音もなく接近され、一瞬のうちに突きを打ち込まれた。
アッシュは人間離れした膂力で吹き飛ばされ、塀に叩きつけられた。
「ぐっ……がっああ!!」
肺中の空気が押し出され、同時に赤黒い血液も吐き出した。
左右の短剣は、刃が砕かれ柄だけになっている。ガードが間に合ったのは、奇跡に近かった。
今の攻防で明確になった。特性まで全て使って戦っても、ウィリアムの技量には届かない。
それも当然だ。そもそも、生きて来た年数が違う。人類と魔族の戦争が幕を開ける以前から存在する怪物に、技で競ったところで勝ち目などある筈がない。
「流石だな、アッシュ……。終わらせるつもりだったんだが、防がれたか」
ウィリアムは称賛の言葉を述べるが、アッシュには終わったも同然だった。何しろ、全身のダメージが大きすぎて、動けないのだから。まな板の上の鯉同然の彼は、最早ウィリアムに斬られる事しか出来ない。
だが、アッシュの眼前まで歩いてきたウィリアムは、間合いの一歩手前で立ち止まった。
「……何のつもりだ」
「まだ言っていない事があったからな」
確実にとどめを刺せる状況で、何故か攻めずに話を続けようとする彼の狙いが、アッシュには読めなかった。血に塗れた顔を上げると、月光に照らされて、いつになく真剣な表情のウィリアムが見えた。
「柱神が六百年掛けて、人類と魔族に終わらない戦争をさせている理由さ」
アッシュは息を呑んだ。確かに、シエルからも柱神が人間と魔族を争わせる理由までは聞いていなかった。彼らが六百年に渡って続けている、盛大な戦争ゲーム。両勢力の均衡を保ちながら、これだけの間行ってきたのだ。そこに彼らが目指す何かがある筈だった。
ウィリアムは宵闇に溶けるように、静かに語り始めた。
「遥か昔――人間と魔族が生まれる百年前までの話だ。世界には膨大な『マナ』が満ちていてな……。ああ、マナってのは、魔法の発動媒体になるヤツだ。その頃は、生まれる生物も今と全然違った。一角獣に龍……強力で多種多様な生物が、皆命を謳歌していたよ。柱神もまた……そこに生まれた命の一つだった」
一角獣と龍。これらは何れも、『記憶召喚魔法』によって召喚される生物だ。並の騎士など及びもつかぬ力を持つ彼らは、何れもかつて地上に存在した生物。柱神は、その時代に生き、そして世界を管理していた存在だ。姿形こそ人間そのものだが、生物としての造りは根本からして異なっている。
「大気中のマナの濃度が大きいと、生物たちもその影響を受ける。その分、魔法を様々な事に使うんだ。体を強くしたり、術を作ったりとかな……。俺はまだ若いから、あんまりその時代を長く生きた訳じゃないけど……良い時代だったと思うよ」
「でも、滅びたんだろう?」
「ああ、そうだ」
ウィリアムの表情が、俄かに影を宿した。親の仇の話をするような、闇が垣間見えた。
「高まり過ぎたマナが生んだ、世界の異常とでも言うべきか……何にせよ、生まれて来てはいけない生物だった。そいつが生き物達を、世界ごと次々と喰らい尽くしていった……」
オルネア教の伝承にも、その生物の事は残されていた。世界の終わりを告げる、終焉の捕食者。まさに『災厄』の象徴として、オルネア教徒にとっては畏怖の対象となっていた。
「柱神は生き残った生物たちと協力して、どうにかソイツを倒したが……生き残ったのは柱神だけ。大気中のマナも奴に食われたり魔法で消費したりで、殆どゼロまで減っちまった。そうなっちまった以上、新たに生まれて来る命も、今までとは比べ物にならないぐらい弱いし、自由に魔法を使うことも出来ない。……あの時は本当に参ったよ」
ここでアッシュは、ウィリアムが自分を見る目が変わった事に気が付いた。彼は今、アッシュという個人ではなく、人間という種族全体を見ているのだ。今まで共に生きて来たそれらとは比較にならない、貧弱な種族を。
「けど……そのうち分かった。人間と魔族の間で戦闘が起こった場所でな……僅かだが、マナの量が増加していたんだ」
アッシュは、漸く整い始めた呼吸と共に、予想される続きの言葉を言った。
「人間と魔族を長い間争わせれば……大気中のマナが段々増えていく。そうして自分たちが生まれた時代をまた作るつもりか……」
ウィリアムが笑った。それはアッシュが知っている人好きする笑顔ではなく、愉悦に浸る支配者のような笑顔だった。
「そうさ。強い生き物とまさに何でもありの魔法。あの神秘に満ちた世界をもう一度取り戻すんだ。その為に俺たちは六百年間、影に潜み続けてきた。あの理想郷をこの世に蘇らせる……そのためなら、同じことを何百年だって繰り返し続けてやるさ」
拳を握り、ウィリアムは力強く宣言した。この先何百年でも、人間と魔族を争わせ続ける、と。その戦争の急先鋒として使われる勇者の前で、だ。
知られてはいけない話をする人間と言えば、他に話される危険の無い人間。即ち――これから死ぬ人間だ。
「俺一人でお前と向き合ったのは、ケジメってのもある。だから宿舎の職員に催眠を掛けて、朝まで起きないようにしたんだ。……お前が幻狼だって、誰にも知られないようにな」
「自分が選んだ勇者が反逆者になったなら、お前のメンツに関わるからな」
「……言っても信じてくれなさそうだ」
「今更……お前の何を信じろって話だ!」
アッシュは叫ぶと同時に、ローブに入れていた手を大きく振った。
「おっと」
アッシュの手から何かが離れ、ウィリアムに向かって飛び出した。しかしそれは羽虫を払い除けるような調子で両断された。
アッシュが投げつけたのは、ヴァネッサに渡された『秘密兵器』。歪な白い鉄球だ。
「っ!?」
両断された鉄球は、盛大な爆音と共に、大量の白煙を吐き出した。
正体は、音爆弾兼煙玉だったのだ。理解したアッシュは、即座に塀を飛び越え、宿舎の外に出た。鎮痛効果が切れたか、左足が強く痛む。だが、先の攻防で受けたダメージよりはマシだ。
あの音と煙を至近距離で喰らえば、流石のウィリアムも怯まずにはいられないだろう。それでも、彼の『転移』なら、何処からでも追いつかれる危険がある。危険なのは変わらない。
それでも、逃げるしかない。幸いにして、ウィリアムはアッシュが幻狼だと知られたくないらしい。逃げ切ればまだ、巻き返す余地はある。
――いや、あるのか? ウィリアムには、『認識誘導』が通じなかった。
彼の言う通り、認識誘導は、卓越した達人は騙せない。それこそ、人間の寿命を遥かに超える時を生きて来た敵が相手を騙すには、あまりにも力不足だ。
その時――ローブの中から、銀色の光が漏れた。
シエルだ。自分で起きたか、ヴァネッサが起こしたか。
「どっちにしろ……助かった」
アッシュは即座に召喚に応じ、隠れ家へと帰還した。
*
「痛てて……やってくれるじゃないか、アッシュのやつ」
白煙を抜け、宿舎の外に出た時には、アッシュは何処かへと消えていた。姿を見失ったとなれば、『転移』出来たところでどうしようもない。
敵を逃がしたにも関わらず、ウィリアムは爽やかな笑みを浮かべていた。その鎧には無数の小さな傷が刻まれ、端正な顔にも一本の赤い線が描かれていた。
「煙玉に音爆弾だけでなく……刃まで仕込んでいたとはな。どうやら、相当腕の立つ職人が付いているらしい」
ヴァネッサが渡した鉄球の正体は、逃走補助用の煙玉。投げれば煙を出すだけでなく、三半規管を狂わせる程の爆音と、細かい刃まで発射する代物だ。当然、飛散する刃はヴァネッサお手製で、小さいとはいえ切れ味は一級品。少しの間とはいえ、ウィリアムでさえ足止めを余儀なくされた。
「まあいいさ。アイツはきっとまた来る。今度は魔女も一緒だろうが……問題ないだろう」
ウィリアムは、背後の皇国魔術研究機関・職員宿舎を見た。あれだけの爆音でありながら、誰一人として起きてはこない。通りの方は音を聞きつけた市民が集まり始めているのに、だ。
「少し効きすぎたかな」
やっぱり、魔法はあまり得意じゃないな。ウィリアムは催眠の魔法を掛けた職員たちを思いながら、一人苦笑いを浮かべた。




